第六章 運命の一日

第22話 投票日

 四月二十四日、日曜日。いよいよ投票日当日を迎えた。

 大石ら事務局職員は、早朝五時半に集合し、各投票所へ配る器材一式を準備、投票所担当の応援職員に手渡した。あわただしく走り回る応援職員たちの足音が、廊下に響き渡った。

 大石も、あれが足りない、これが足りないという応援職員の指示を受け、倉庫へ駆け込んだりと、大わらわだった。


 ――きっちり準備はしたはずだけど、なかなかどうして、結構な漏れがあるな。


「大石、委員会が始まるぞ」


 小笠原が委員会室から顔を出した。


「すぐ行きます!」


 ――うわっ、次から次と……。


 目が回りそうだった。

 六時には、投票日当日の有権者数を最終確定するための臨時選挙管理委員会を開催した。投票所が開くまで、いよいよカウント・ダウンの体制に入った。

 しかし、午前七時の投票開始まで、決して気を抜けない。油断は禁物だった。入念に準備はしているものの、必ず各投票所から、ガムテープが足りない、ノートパソコンが立ち上がらない、などと問い合わせが引っきりなしに寄せられ、そのつど、投票本部に詰めている応援職員に投票所へ飛んでいってもらうのが、毎回の常だそうだ。

 他の自治体などでは、投票所として借りた施設のカギが、施設管理者側のミスで開いておらず、やむなくカギを壊して投票所を開いた、といった話も聞いた。選任した投票立会人が時間までに投票所へ現れず、応急処置で事務を取る職員を臨時に投票立会人に指名し、急場を凌いだ例もあった。本当に、選挙はいろいろな事態が起こる。

 午前七時を回り、各投票所からの連絡も落ち着いた。どうやら無事に投票を開始できたようだった。

 大石は自席に座り、眠気のためぼんやりとした頭で天井を見つめていた。まだ朝ではあるが、あちこち走り回ったため、疲労感が襲ってきた。


 ――長い一日が、始まった……。


 順調に進んでも、開票が確定するのはおそらく夜の十時半頃にはなるだろう。実に、体力勝負だ。三月頭から一日の休みもなく一月半、がむしゃらに動き回ってきたせいで、ずいぶんと体に応えてきていた。小笠原が以前にも言っていた、月に残業二百時間越えは、全く冗談などではない。事実だった。


「お疲れ、大石。今日で終わりだ、あとちょっと、がんばろうな」


 天井を見上げて呆けていた大石に、小笠原が声をかけてきた。


「はい……。しかし、本当、きっついですね選挙って」


 大石はちらりと小笠原に視線を送った。さすがの小笠原も、疲労の色が濃く出ていた。お互い様ではあるが、目の下の隈が痛々しい。


「ま、投票当日になってしまえば、もう選挙運動はできないし、違反の通報も入っては来ないだろう。昨日までと比べれば、相当静かにはなるはずだ。指定時刻の投票速報以外は、ゆっくり体を休めておいていいぞ。幸い、今日は応援職員も投票本部として詰めている。夜も長いんだから、気を張ってばかりでは持たないぞ」


 小笠原の言うとおり、気を張り詰めていては体がもたない。素直に従って、休養室で少し英気を養わせてもらおうか。

 最初の投票速報を集計する午前九時まで、大石は少し休養をもらいたいと、天野に許可を得ると、自席を立ち、休養室へと向かった。



「お疲れ様、大石さん」


 休養室へ足を踏み入れると、長谷川ら選管委員が朝食を摂っていた。

 大石の姿を認めると、長谷川は傍らのおにぎりを一つ掴んで立ち上がり、大石に手渡してきた。


「まだ、何も食べていないんでしょう? 食べなさい」


 大石は長谷川に礼を言うと、おにぎりを受け取り、ソファーに座ってぱくついた。溜まった疲労のため、食欲はほとんどなかったが、長丁場だ、無理にでも食べておかないと、息切れ必至だ。


 ――この一月半で、いったい何キロ痩せたんだろう。


 ぶかぶかになったスラックスのウエストを指で摘んだ。トイレで鏡を見ても、何だか窶れた感じを受けた。他課の職員にも、大丈夫かと言われるほどだった。スラックスがずり落ちないように、ベルトで無理矢理絞っていたため、大石の思っている以上に哀れに見えるらしい。

 初めての選挙で、自身のペース配分がまだ上手くいっていなかった。後先考えず、前へと突き進んできたため、余計に疲労しているのだろう。小笠原や児玉は、さすがに何度も選挙を経験しているベテランだけあって、疲労感は窺えるものの、窶れているというほどではなかった。


「今のところは順調かしら?」


 長谷川はニコニコ微笑みながら、大石に熱い緑茶を淹れてくれた。


「特に問題もなく、投票は進んでいます」


 お茶を一口啜ると、長谷川を見やり、大石も微笑を浮かべた。口に含んだお茶の香ばしさで、眠気も大分和らいだ。


「今日の開票、小池さんと櫛山さんが接戦との噂を聞きます。かなり気を使う状況になると思いますが、事務局の皆さんを頼りにしています。よろしくお願いしますね」


「正直なところ、どちらが優勢なのかは、私たちもよくわかりません。いつも以上に慎重な開票作業が求められる状況であるのは間違いありません。最善を尽くします」


 大石は、しばらく選管委員と談笑をした後、最初の投票速報時刻である午前九時が迫ってきたため、休養室を後にし、投票本部へと戻った。

 幾分、体が軽くなった気がする。休養は正解だった。

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