第18話 ネガティブキャンペーン
森田は危機感を抱いていた。聴衆の反応が予想していたよりも悪い気がする、と。
「市議会議員候補、小池、小池栄作。小池栄作を、皆様の手で、再び市議会へ送り届けてくださいますよう、よろしくお願いいたします」
ウグイス嬢の声が選挙カーのスピーカーから響き渡った。
――引退表明が尾を引いてしまっているのかしら。
唇を噛み締めた。
――まさか、櫛山に負けるとは思わない。けれど、若干、気に掛かるわね……。
「有権者の皆さん、私は、古島市のため、もう一度、立ち上がりました。今までと変わらぬ皆さんの熱いご声援を、ぜひとも小池栄作にお願いいたします」
小池自身もマイクを取り、声を張り上げた。手を振る小池に、振り返してくれる者もあったが、あまり手応えが掴めなかった。
夜八時になり、選挙カーを使えない時間となったため、森田らは選挙事務所へと戻ってきた。
「ふぅ、選挙戦二日目が終わったわね」
森田はソファーに腰を掛けると、冷えたお茶の入ったペットボトルの蓋を開き、喉へ流し込んだ。若林ら選挙運動員も同様に、冷えたお茶で一服をした。一息ついたところで、森田は他陣営の状況を確認した。
「どう、若林君。他の候補、特に櫛山の状況は、どうだった?」
「櫛山以外については、まぁ事前の予測どおりといいますか、特段これといって報告すべきような動向はありませんでした。ただ、問題は櫛山です。ヤツの街頭演説を聞いた我々の支援者からの報告では、想像以上に上手いと思わせる演説をしており、最初は余所者を見るような冷ややかな目を向けていた聴衆も、最後には真剣に聞いていた、という話です。何らかの対策を打たないと、まずいかもしれませんね」
若林の報告に、一同は危機感を募らせたようだった。
――まずいわね。皆の士気が、落ちているわ……。
「想定外だわ。てっきり、めちゃくちゃな主張を繰り返しているものとばかり思っていたのだけれど……」
しんと静まり返った選挙事務所。窓を打つ風の音が、妙にうるさく感じられた。
森田は、全員の顔をさっと見わたした。
「さて、明日からなんだけど、何かしら私たちも、手を打つ必要があると思うのよ」
運動員の中から、ごくりと生唾を飲み込む音が聞こえた。
「何か意見があれば、ぜひ聞かせてちょうだい」
若林は、アメリカの選挙のようにネガティブ・キャンペーンを張ってみたらどうか、と提案をしてきた。
他にこれといった案が出なかったため、一晩じっくり考えさせてほしいと、森田は若林の提案を一旦預かった。劇薬的な手法に思えたため、さすがに即断はできなかった。
運動員たちが帰宅した後も、森田は選挙事務所に残り残務を続けた。選挙後に提出する選挙運動費用収支報告書に添付する領収書の整理などを、行う必要があった。
森田は、領収書の整理を終えると、頬杖を突きながらぼんやりと天井を見つめ、若林が提案してきた作戦について思いを巡らせた。
――ネガティブ・キャンペーン、ね……。
アメリカの大統領選挙でよく耳にする手法だった。効果的に行えば、絶大な成果を上げる。しかし、使い方を誤ると、かえって不利になりかねない諸刃の剣だ。相手の失点をついて自らを相対的に有利な状況へと持っていく手段であり、取り扱いには細心の注意を要した。
――ネガティブ・キャンペーンはあまり日本人相手には向かない、とも言われているのよね。
アメリカと違い、直接的な批判合戦を好まない日本の風土で、果たして、ネガティブ・キャンペーンを行い吉と出るか、はたまた凶と出るか。危険な賭けではないのか?
だが、幸い、小池には市議を七期に亘って務め上げた実績が、また、櫛山には得体の知れない島外出身者というイメージがある。上手くギャップを突けば、風向きを変えられる可能性も、ないとはいえない。
――一週間しかない短い選挙戦、思い悩んでいても、目の前の道は開けないわ。
森田は、ハンドバッグから携帯電話を取り出すと、電話帳からすばやく目的の相手『若林保』を選び出し、電話をかけた。
「さっき提案してくれたネガティブ・キャンペーンを、採用しようと思うの。さっそく明日、動いてもらえるかしら」
電話口から若林の肯定の意思を確認すると、森田は電話を切り、ハンドバッグへ戻した。
――さて、どうなるかしら……。
伸びをして、凝り固まった体をほぐすと、森田はハンドバッグを手に持ち、帰路へ就いた。
「この線で、攻めてみましょうか」
翌日、火曜日の昼、森田らは昼食の合間に、若林がもたらした情報を整理すると、今後のネガティブ・キャンペーンの計画を練った。
「初穂市議会の傍聴席で何度も暴れ、退出させられた事件。たびたび市役所の窓口で不当な要求を繰り返し、事務の執行を混乱させていた事実。以上二点で、櫛山が市議会議員にはふさわしくない人物だとアピールする作戦で行きましょう」
若林以下、運動員たちは頷いた。
「よし、午後も引き続き、お願いするわね! 頑張ろう!」
森田の掛け声とともに、全員が拳を天へ振り上げた。
――やるわよ!
決意を新たに、森田も気合を入れ直し、小池とともに選挙カーに乗り込んだ。
選挙カーで市内を廻りつつ、今日の街頭演説予定のスーパーの前へとやってきた。
午後四時半、夕食の買い物に訪れている主婦の姿が、ちらほらと目に入った。森田は、同乗の若林に目配せをすると、街頭演説用の標記を準備させた。
「先生、準備ができました。一気に、流れを変えましょう」
小池は頷くと、車を降り、マイクを握った。
「ご通行中の皆様、しばしの喧騒をお許しください。私、市議会議員選挙立候補者、小池栄作は――」
小池の演説が始まった。スピーカーから流れる小池の声に惹かれるように、買い物客らは足を止め、徐々に人だかりができ始めた。
もちろん、人々の流れを止めさせるため、あらかじめ支援者にサクラもお願いはしていた。小池の演説に合わせ、買い物客を装った支援者が、さも演説に惹きつけられたかのように、足を止める。投票先をいまだ決めていない有権者の足を、うまい具合に止めさせられれば成功だ。
「櫛山という人物を、ご存知でしょうか。今、市議会議員選挙に立候補をしている、島外出身の男です。彼は、街頭演説の中で、耳障りのいい話をしていると、私の元にも届いてきております。しかし、皆さん、騙されてはいけません。彼は――」
小池の演説に熱がこもってきた。いよいよ本題に入る。今のところ、聴衆の反応はまずまずといったところだろうか。サクラには、しきりに頷くよう指示は送ってある。
――もし、今回の演説が不発するようであれば、何かまた新しい方法を考えなければならないわね。今のところは、必要なさそうだけれど。
「彼は、以前に住んでいた都下、初穂市の市議会を傍聴した折、何度も何度も暴れ、議長に退席を命じられた過去があります。自らの主張に正当性があると信じるのであれば、いくらでも賛同者を見つけられるはずですし、そうであれば、自らが市議会議員になればよいのです。しかし、彼は選挙に落選した。彼の主張は、市民に受け入れられなかったのです。すると、自らの意見が受け入れられなかった腹いせかは知りませんが、言論を武器に戦うべき市議会議員を目指す男が、暴力行為に及び、傍聴席から摘み出されるという、情けないとしか言いようのない結果を招いたのです。斯様な男が、わが古島市の議員に、果たして、ふさわしいといえるでしょうか」
スーパー前の広場に、小池の熱い主張が響き渡った。聴衆は、静かに、しかし固唾を呑んで小池の姿を見守っていた。予想外の主張を展開する小池に、聴衆はすっかり惹きつけられているようだった。サクラ以外の聴衆も、ぼつぼつ集まっており、反応も手ごたえがあった。
――作戦は成功のようね。
森田は、ほくそ笑んだ。
「さらに、彼は、たびたび市役所の窓口で――」
小池の演説はますますヒートアップしていき、どうやら大成功といっても過言ではないほど、聴衆の好反応を得られた。
演説を終え、選挙カーに戻った小池を森田は労うと、小池も満足そうに笑みを浮かべた。最初はネガティブ・キャンペーンに否定的だった小池も、どうやら考えを改めてくれたようだ。確かに、森田もあまり好んで使いたいと思う手段ではなかったが、今回ばかりは致し方ないとも思う。
「先生、有権者の反応は上々でした。次の演説会場も継続していきましょう」
若林は、顔中を汗で光らせていた小池に、汗拭き用のタオルを渡した。タオルを受け取ると、小池も「もちろんだ」と、頷いた。
「先生!」
街頭演説会場の標記などを片付け終えた支援者の一人が、声を掛けてきた。
「実は、聴衆の中に櫛山らしき人物を見かけました。どうやら、我々の偵察を行っていたようです。先生の演説の成功を見て、泡を食って立ち去っていきましたが」
――やはり、来たか……。
想定の範囲内ではあった。見られたところで問題はなかった。小池の演説の成功を見せ付ければ、プレッシャーを与えられるだろうし、演説が不発だったとしても、我々が不利な状況に焦っている姿を見せれば、逆に櫛山の油断を誘うような真似もできよう、と。
「想定の範囲内です。気にせず、私たちは、今できる最善の行動を続けるだけです。さ、次の演説会場へ向かいましょう。時間がもったいないわ」
森田の言葉を受け、運転手は選挙カーを動かし始めた。ウグイス嬢が高らかに連呼をし始めると、先ほどまで演説を聞いていた有権者が、小池に手を振っている光景が目に入った。小池は、満足そうに、有権者に応えていた。
今日は他に二ヶ所で街頭演説を行い、いずれも手応えを感じる反応を得られた。
――今、確かに私たちに風が向きかけているわ。
手繰り寄せた風を決して櫛山に渡してなるものか、勝つのは我々だ。森田は握り締めていた拳を、さらにギュッと強く締め直した。正義は我らにあり、と。
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