第15話 告示日

 いよいよ告示日の四月十七日を迎えた。朝の七時半、大石たちは準備に忙しく走り回っていた。

 八時を回ると、ちらほらと各候補者陣営が集まってきた。

 届出会場の前に設置された仮受付簿に記帳し、胸章を受け取った関係者は、会場の横に設けられた控え室で八時半が訪れるのを待った。胸章は、届出会場に入れる関係者を識別するためのしるしだ。

 八時二十分には、櫛山を除く十二陣営の関係者が出揃ったため、児玉は届出の順番を決めるくじの説明を開始した。

 八時半前に仮受付簿に記帳している候補者は、くじによって届出の順番を決める必要がる。また、八時半以降に到着した候補者については、到着順によって届出を行う。

 くじは、まず、届出の順番を決めるための本くじを引くための順番を決める仮くじを行い、仮くじで決定した順番で本くじを引くという、二段階制になっていた。仮受付簿に記載された順に、くじ棒を引いていってもらい、くじ棒に書かれた数字の順によって、本くじを引く順番が決まる。

 次に、本くじで引いたくじ棒に書かれた数字の順に、実際の立候補届出が受け付けられる。本くじで決まる届出順が早いほど、立候補の受付が早く終わるため、選挙運動を開始できる時間が早まるのだ。

 大石は、会場内を横目で覗き、くじの結果に悲喜こもごもの反応を見せる関係者たちの姿を窺った。少しでも長く選挙運動をしたい、当然の思いだろう。

 また、ポスター掲示場には貼付区画に数字が書かれており、貼れる区画も届出受付順によって決められているので、一番くじを引く行為は、各陣営の重大事項であった。自治体によっては、貼付区画の数字をランダムに並べ替えているところもあったが、古島では昇順に並べていた。

 八時半を回り、くじが始まった。結局、開始時間までに現れたのは、十二陣営のままであった。櫛山の姿は、まだ見えない。


「櫛山さん、来ませんね」


 会場前の受付で、一緒に受付に立っていた小笠原へ、大石は声を掛けた。あの櫛山が来ないとは考えられず、首を捻った。

 小笠原は横目で大石を見やると、肩を竦めた。


「ま、来ないって事態はおこらないだろうさ。大方、最後に届出を行って、自分のポスターを目立たせようっていう魂胆だろ」


 小笠原の言うとおり、中には敢えて時間をずらして最後に届出を行い、ポスター掲示場に貼る自らのポスターを目立たせようと考える者もいるらしい。中途半端な位置よりは、最後のほうが目立ちやすいとの考えだ。


 ――選挙運動を早く始めるよりも、ポスター重視、か。知名度のない新人だし、有効な手段の一つなのだろう。


 届出会場内では、粛々と受付事務が進められていた。早い順番で届出を済ませた候補者の選挙カーから発せられる第一声が、大石たちの耳にも届き始めていた。


 ――始まったな。


 普段静かな古島も、一週間、騒がしくなる。特に、四十年ぶりの投票ともなれば……。

 未だ櫛山は現れない。各候補者陣営は、届出開始時間に十二陣営しかいなかったため、無投票の可能性も視野に入れるが、念のため、選挙運動を開始していた。

 万が一、届出締め切りの午後五時を待っても十三人目が現れなかった場合には、無投票が確定し、選管から各陣営の選挙事務所に一報を入れる手筈になっていた。したがって、選管からの無投票の連絡がない限りは、各候補者陣営は選挙運動を行わざるを得なかった。

 十時を回り、時間前に参集した候補者十二名の立候補届出の受付は滞りなく終了した。大石は、現時点での立候補受付状況を一覧に纏めると、都選管へ電子メールで報告した。

 すると、三十分後に都選管から電話が入った。島嶼担当の関口からだった。


「いただいた速報を見ますと、櫛山さんがまだ届け出られていないようですね。立候補しなさそうですか?」


「いえ、事前審査は済ませていますし、告示日前もいろいろと行動を起こしていたようですので、来ないだなんて、まず考えられません」


 小笠原の話を思い出し、単にポスターを目立たせたいといった理由だろう、と大石は付け加えた。



 一向に櫛山は現れず、時間は過ぎていった。間もなく届出受付締め切りの午後五時を迎えようとしていた。


「来ましたっ」


 エレベータを降りて会場へ向かってくる黒一色の男を認め、大石は天野らに報告した。天野らは、待ちくたびれ弛緩していた気持ちを引き締め直すかのように頷き合うと、各自の持ち場へと戻った。

 櫛山は小笠原に促され、受付簿に必要事項を記入し、届出会場へと足を踏み入れた。黒尽くめの櫛山の姿は異様に目立ち、届出を見守る天野らも、櫛山の服の色に釣られるかのように表情を暗くしていると、大石には感じられた。まるで、今後の選挙戦を暗示するかのような不吉な予感を、大石は覚えずにはいられなかった。鳥肌が立ってきた。

 届出自体は、事前審査を済ませていたためスムーズに進み、定刻の午後五時を回る前に、櫛山は足早に退出していった。大石らと特にやりあうつもりはないのか、余計な会話は交わさなかった。やはり、ポスター掲示場で目立ちたいといった理由で、わざと最後に届出を行ったのだろう。

 午後五時を回り、最終的に十三名の立候補で、投票が確定した。大石は、最終確定を都選管に報告した。

 大石が報告書を作成している間に、天野らは選挙管理委員会を開催し、選挙公報の掲載順序を決めるくじ、および、指名等掲示の掲載順序を決めるくじを行っていた。

 選挙公報と同様に、指名等掲示――投票所の記載台に貼られる、立候補者の党派名や氏名を記載した一覧表――の掲載順序もくじによって決められる。くじを行う委員会は、事前に場所と時間を告示しており、関係者の立会も可能であったが、どの陣営も選挙運動に必死なため、立会に来るような人はなかった。

 小笠原はさっそく、選挙公報の掲載順の確定を待って、印刷業者へ公報掲載順をFAX送信し、自らも最終校正を確認するため、印刷所へと向かっていった。

 大石も、指名等掲示の順序の確定が済むと、明日から始まる期日前投票所用の指名等掲示の作成に当たった。


 ――指名等掲示に、もし、誤記載があれば、選挙無効になりかねないって聞いたんだよね……。


 慎重に、慎重に、間違いのないようにとにかく慎重に。大石はノートパソコンの画面を凝視した。万が一にも誤った指名等掲示を張り出し、投票が始まってしまえば即新聞沙汰だ。慎重になりすぎたのか、かえって指が強張り、キーを打つ動きがぎこちなくなった。


 ――またいつもの悪い癖だ。落ち着け、大石。


 大石は頭を振り、追い込む自分を押さえ込んだ。

 出来上がった指名等掲示をプリンターから打ち出すと、児玉を呼び、読み合わせをお願いした。いくらしっかりと確認したとはいえ、一人の目では思い込みで誤りを見逃すおそれもある。念には念を入れなければ。

 一件一件、各候補者から提出されている『候補者氏名等字画』のとおりにプリントされているかどうかを、二人の目で確認した。


 ――間違いはなし、と。


 児玉も頷くのを確認すると、大石は期日前投票所の記載台分、コピーをとった。

 明日からは、いよいよ期日前投票が始まる。古島市の期日前投票所は、立候補予定者説明会や立候補届出の受付の会場となった会議室を使う手筈になっていた。

 大石と児玉は、立候補届出の受付のための配置になっていた机や椅子を撤去し、投票所用のレイアウトへの変更を準備していった。

 宣誓書を記載するための机と椅子、受付・名簿対照係用の受付システムが入ったノートパソコン、投票用紙交付係用の投票用紙交付機、有権者が投票用紙に記載を行うための投票用紙記載台をそれぞれ用意し、所定の場所に置いた。記載台には、念入りに確認した指名等掲示を貼付し、鉛筆を備え付けた。

 会議室の中央には小さな台が置かれ、上には投票箱を置く。投票箱はまだ施錠されていなかった。なぜなら、明日、最初に投票に来た有権者に、投票箱の中身が空になっているかどうかの確認を求めなければならないのだ。

 小笠原から聞いたが、有権者の中には、投票箱の空虚確認を楽しみにしている人がいるらしく、早朝から並んで投票所が開くのを待っているという。毎選挙ごとに欠かさず一番に並び、空虚確認の常連となるほど、好きな人もいるらしい。

 期日前投票所の設備の確認もほぼ終わった頃、印刷所へ出張校正に行っていた小笠原が戻ってきた。無事に選挙公報の印刷に入ったようだ。

 明日中の納品が期待できそうだと、小笠原が天野に報告している声が大石の耳に聞こえた。


 ――準備万端ってところだね。


「みんな、集まって」


 天野は手を数回ぱんぱん叩きながら、事務局職員の参集を求め、揃うと、天野は全員にざっと目を配った。


「明日からは、いよいよ期日前投票が始まります。遺漏のないよう、確実な事務を遂行するようにしてください。また、櫛山さんの件もあり、各陣営から選挙違反についての問い合わせが増える可能性もあります。疑わしい事例については、決して各自の判断を行うような真似はしないでください。必ず、事務局全員に報告し、また、都選管や警察とも連携しながら、確実な回答ができるよう、心がけてください。皆も承知していると思いますが、公選法の判断は、グレーゾーンが極めて多く、難しい面が多々あります。スピードよりも、確実性を重視しましょう」


 大石、児玉、小笠原ともに、天野の言葉を神妙に聞いていた。


「七日間、開票確定まで、長い道のりですが、頑張りましょう」


 大石は両手で頬を軽く叩き、気合を入れた。


 ――いよいよ、本番だ!


 長い長い七日間が始まろうとしていた。

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