第四章 陣営、蠢動す
第14話 告示を待つ
四月に入り、告示日までいよいよあと二週間となった。大石たちは、順調に選挙の準備を進めていた。
今のところ、櫛山は借りてきた猫のようにおとなしくしているようだった。他の陣営も、告示日に向け準備に忙しいのか、事前審査前後の頃に比べると、事務局へ顔を見せる場面もほとんどなくなっており、大石たちは準備に大いに専念できた。
投票所で使用する投票記載台の最終チェックをしていた大石の耳に、出し抜けに電話のコール音が飛び込んできた。作業の手を止め、受話器を取った。
「櫛山と名乗る男が、スーパーの前の広場で、『櫛山 英作』と書かれたたすきを掛けて演説をしているぞ。演説の内容からして、市議選に出る予定の男のようだが、氏名入りのたすきは、違反じゃないのか?」
年配の男性らしき低い声だった。
告示日の前に、例えば駅などの街頭で本人の名前が入ったたすきを掛けて演説する行為は、公職選挙法違反だ。選挙運動期間外に、個人が政治活動のために氏名などを表示し掲示できる文書図画は、『事務所において掲示する立札・看板の類』『ポスター』『演説会等の会場において使用するもの』――に限られる。今回の通報の件は、演説会場等での演説ではなく、あくまで街頭に立っての行為であろう。好ましくない行為だった。知っている者は、例えば『本人』等のように、個人の名前が直接は入っていないたすきを掛けたりしていた。
「ご連絡ありがとうございます。失礼ですが、どちら様でしょうか?」
「一市民だ」
「わかりました。現場を確認してみます。また、我々からも連絡を入れますが、あなた様からも、警察へ一報を入れていただけると助かります。今、警察署では『選挙対策本部』という組織が立ち上がっておりますので、そちら宛にお願いできれば……」
「わかった」
市民を名乗る男は、電話を切った。大石は受話器を置くと、児玉へ件の通報について報告を行った。
――やはり、すんなりと告示日まで、なんて甘くはないか。
大石は苦笑いを浮かべた。事態は、大石に楽をさせてはくれないようだった。
選挙になると、たびたび違反に関する通報が選管へ入ってくる。今の通報も『一市民』と名乗っていたが、おそらく対立候補のいずれかの陣営の関係者であろう。一般の人が、そもそも本人の名前の入ったたすきの件について知っているとは、思えなかった。
「私から選対本部へ知らせておく。大石さんと小笠原さんは、現場を確認してきてくれないか」
児玉の指示を受け、大石は頷き、同じく投票記載台のチェックをしていた小笠原も、手を止めた。
「場所は、北地区のスーパーの前?」
小笠原の確認に、大石は首肯した。
小笠原は記載台を床に置くと、書棚から住宅地図を取り出した。大石も証拠を確認できるようにと、デジタルカメラを引っ張り出した。
「大石、行くぞ」
駆け出す小笠原の後を、大石も追った。現場確認は、早さが命であった。
選挙の前後は頻繁に外回りをする機会が多くなるため、選管専用にレンタカーを一台借用していた。また、レンタカーであれば、車の側面に市名が入っていないため、好都合な面もあった。例えば、今回の件のように、違反の通報を受けて、現場を確認しに行く場合だ。
大石と小笠原は、電話で通報を受けた件のスーパー付近へとやってきた。田舎のスーパーには珍しく、人垣ができていた。聞き慣れた――決して、聞き慣れたくはなかったが――男の声が、漏れ聞こえてきた。
――櫛山の声だな……。
この場所に違いないと確信し、車を一旦スーパーの駐車場へ入れると、大石らは人垣からやや離れた位置に陣取り、様子を窺った。
演説は、今の国政の問題点を述べているだけのようで、事前運動を問うような内容ではなさそうであった。
となると、問題は、やはりたすきであろう。確かに、遠目から見ても演説をしている櫛山が緑色のたすきを掛けているのが確認できた。
「大石、写真を頼む」
小笠原は目配せをしてきた。大石は頷き、持参したデジカメの電源を入れると、ズームを調整し、櫛山の姿を撮影範囲内に収めた。
ズームされたデジカメの画面を見ると、やはりたすきには『櫛山 英作』とはっきり書かれていた。シャッターを押し、櫛山の姿を撮影すると、大石たちは現場を後にした。
「間違いありません。櫛山さんの名前が入ったたすきを掛けていました」
大石は、デジカメで撮影した櫛山の写真をプリントアウトし、児玉に渡した。
「よし、警察の選対本部にFAXしておこう」
プリントアウトされた写真を受け取ると、児玉はFAXで警察へと送信した。
選挙時は、警察との連携が不可欠だった。こまめに連絡を取り合い、問題が大きくなる前に摘む必要がある。火種は、小さいうちに消すに限る。
FAX後、五分ほどで警察から連絡が入ってきた。児玉は、選対本部からの情報を逐一メモに取り、お互いの情報のすり合わせを行った。
「では、よろしくお願いします」
児玉は受話器を置き、取ったメモを通報情報経過記録書に転写した。
――大事にはならなそうなのかな。
ペンを走らせている児玉を覗き見ながら、大石は児玉の報告を待った。
記録を済ませた児玉は、大石らへ振り返り、警察からの情報を口に掛けた。
「選対本部も現場を確認したらしい。名前入りのたすきをしているのは間違いなかったため、警察から櫛山さん本人にまず警告を入れるそうだ。もちろん、何度も繰り返すようであれば、それなりの対応をするとも言っていた」
児玉は立ち上がり、通報情報記録書を、キャビネットに収められているファイルに閉じ込んだ。さすがの櫛山も、警察の警告であれば、聞かざるを得まい。
二時間後、再び選対本部から連絡があり、櫛山は反論してきたものの、警察も毅然と対応したためか、最後には諦めて身を引いた、との話だった。
今回は丸く収まった。しかし、告示日前ですでにこの調子だ、選挙本番に入れば、櫛山はまたいろいろと騒動を起こしそうな予感もした。
――なんだかなぁ……。でも、いい経験を積めたと思えばいいか。
櫛山に呆れつつも、大石はなるべく前向きに捉えようと気を取り直した。
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