第13話 櫛山再び
予定された事前審査三日間が終了した。櫛山以外は全員、審査を済ませ、告示日を待つだけとなっていた。
一方、櫛山は審査途中で退席したために審査が済んでおらず、今後の行動が気になる大石たちであった。立候補をあきらめるとは、とても思えない。
翌日、選管事務局の入口に、再び櫛山の姿が現れた。
「ちょっと、いいか」
相も変わらずのぶっきら棒な物言いだった。今日も、もちろん全身が黒尽くめ。
「昨日は頭に血が上ってしまって、すまなかった。事前審査の続きをお願いしたい」
櫛山は、意外にも謝罪の言葉を発し、事務局内へ足を踏み入れてきた。
特に拒む理由もないので、児玉は櫛山を来客対応用のテーブルへ案内し、着席を促した。櫛山も児玉の誘導に従って着席し、バッグから封筒を取り出した。
児玉の目配せに気付いた大石は、児玉の元へ向かい、一緒に、櫛山に対峙するように腰を下ろした。
「昨日は悪かったな。カッとなりやすい性質で、つい頭に血が上ってしまった」
どうやら昨日の怒りも治まり、落ち着いているようであった。ホッと胸をなでおろす。
「通称認定については、わかった。オレも立候補できないのは本意ではないので、通称は諦める。通称認定以外の書類の確認をしてくれ」
櫛山は封筒から、未審査の候補者氏名等字画、選挙公報関係書類などを出した。
大石は受け取ると、ざっと目を通した。
――特段、問題はなさそうだな。
チェックリストに確認済みの印を入れ、『事前審査済』のスタンプを押していった。
最後に、選挙公報の原稿用紙を確認し始めると、気になる記述を見つけた。自らの政策を述べている部分には問題はなかった。気になる記述は、最後の部分、現職市議会議長の小池について言及されている部分だ。
『現職市議会議長の小池栄作は、過去、数度にわたり、市議会議長の座を得る目的で、議員連中に賄賂を贈っていた。また、議員連中も、小池の賄賂を、さも当然のように受け取っていたのだ。市民の負託を受け、市議会という神聖な場所へ送り込まれたはずの議員が、このような恥ずべき行為を、果たして行ってもよいものだろうか。斯様な市議会に、私は一石を投じたい』
大石は、内容に目を剥いた。慌てて隣の児玉にも問題の部分を見せた。
児玉も仰天したのか、顔が強張ってきた。
――これ、事実か? もし事実でないとしたら、個人に対する誹謗・中傷だ。大問題になるぞ。
「く、櫛山さん。最後の一文は、いったい……」
「オレが極秘に調査した結果だ。どうだ、衝撃的な事実だろう」
青ざめ、戸惑う児玉に、櫛山は得意げに胸を張った。
「確かな証拠のある、事実なのですか? 初耳なのですが……。でたらめであれば、明らかな個人への誹謗・中傷ですよ」
「確かな証拠など、ない。だが、まぎれもない事実だ。間違いない。この一文で、いかに今の市議会が腐っているのかを、市民に伝えたい」
「あくまで、櫛山さんの独自調査の結果なんですよね。確実な証拠があるわけでもないのなら、名誉毀損で訴訟を起こされるおそれがあるんじゃないですか? おやめになられたほうがよいと思いますよ」
鼻腔を開きながら自説を興奮して喋っていた櫛山に、児玉はやんわりと釘を刺した。
「あぁん? 知ったこっちゃないな。構わないから、原文のまま載せろ」
高揚した気分を害されたためか、櫛山は顔を顰めた。
「しかし……」
「選管は、原文のまま公報を掲載しなければならないって規定されているんだろ。黙ってオレの出した原稿のまま印刷すればいいんだよ」
櫛山の指摘のとおり、市条例で、選挙公報は候補者の提出した原文どおりに掲載しなければならない旨を規定していた。
しかし、『掲載文の内容が甚だしく公序良俗に反し、一般通常人ならば公表を許し得ないものであることが一見して明白である場合でないかぎり』原文どおり掲載しなければならないと示した東京高裁の判例もあった。櫛山の一文は、どうだろうか。
「櫛山さん、公職選挙法第百六十八条第四項で準用する第百五十条の二で、候補者は選挙公報において、他人の名誉を傷つけるような行為を禁じています。櫛山さんの一文、該当するとお思いになりませんか?」
「ぐっ……」
櫛山は眉間に皺を寄せた。
「他にも、虚偽事項の公表罪という規定もあります。当選させない目的で候補者に関する虚偽の事項を公にしたりすると、懲役刑の可能性もありますよ。特に、政見放送や選挙公報を不法に利用して虚偽事項の公表をすると、より重い罪になる可能性があります」
児玉は、目を泳がせている櫛山を、凝視した。
「本当に、よろしいのですか?」
「わ、わかった。原稿は修正する。削れば、文句はないだろう!」
櫛山は乱暴に公報原稿を奪い取り、鼻息荒く事務局を立ち去った。
――なんでこう、次から次へと問題を起こすのかなぁ……。
大石はうなだれた。疲労感がどっと押し寄せ、思わず机に突っ伏した。櫛山の行動に、着いていけない。
「困った人だな」
児玉も大きな溜息をついた。
全く、気苦労が耐えなかった。
翌日、櫛山はおとなしく問題の一文を削除した公報原稿を提出、他に問題となる部分はなかったため、審査済とした。
てっきり、また揉めるのかと思っていたが、櫛山は意外にも素直に修正してきたため、大石は逆に不気味さを感じた。
櫛山の審査をもって、十三人全員の事前審査が、すべて終了した。後は、告示日を待つのみとなった。
――さすがにもう、告示日までは平穏無事だろう……。
何もないと思いたかった。小笠原や児玉も同じだろう。
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