第12話 対櫛山栄作
大石の視界に、黒のニット帽が映った。櫛山だ。指示した午後三時半、時間に合わせて姿を現した。
――来たっ。
大石の脳裏に、説明会翌日の櫛山の姿が蘇ってきた。目の色を変えて、天野と怒鳴り合った櫛山の姿が。シャープペンを握る手に汗が滲んできた。
――いけない、また自分を追い込んでいる。
高ぶってきた気分を落ち着かせようと、大きく息を吐き出した。
隣の小笠原も肘で軽く大石を突くと、「落ち着け、落ち着け」と囁いてきた。
「事前審査を、お願いしたい」
櫛山が事務局の入口に立った。
黒一色で身を固め、相も変わらない不気味さを漂わせた櫛山に、大石はぞくりと悪寒を感じた。
「どうぞ、こちらへ」
児玉は自席を立ち、櫛山を出迎えると、大石、小笠原が座る審査会場へ案内した。
櫛山は案内に従い、大石らの対面に着席した。下げていたショルダー・バッグを取り、中から封筒を取り出して机上に置くと、バッグは脇の床の上へ置いた。
「書類の審査、頼む」
櫛山はぶっきら棒に告げると、封筒を開き、中から書類を出した。
大石は書類を受け取ると、まず、必要な書類が揃っているかを確認した。候補者届出書、宣誓書、戸籍簿抄本、候補者氏名等字画、通称認定申請書……。
「所属党派証明書は、ありませんね。党派は無所属で間違いありませんね」
「あぁ」
「供託証明書は、ございませんか?」
選挙に立候補するためには、選挙の種類に応じた供託金を法務局へ供託する必要があった。冷やかしの候補者の乱立を、防ぐ目的だ。
供託金は、得票数が供託物没収点に達しなかった場合、没収される。市議会議員選挙の場合は、三十万円を供託する必要があった。
櫛山は、再びバッグを漁ると、クリア・ファイルに収めた用紙を取り出した。
「おっと、大事な書類だったので別にしていたんだ。これでいいか」
大石は供託証明書を受け取ると、ざっと目を通した。法務局の印も押されており、正規に供託手続はされているようだった。
「はい、確かに」
櫛山は、バッグを床に戻し、審査を始めた大石の姿を、じっと凝視していた。
櫛山の射抜くような視線を感じ、大石は背中に冷や汗をかいた。落ち着かない……。手が震えがちになった。
「候補者届出書、宣誓書、戸籍簿抄本、供託証明書は問題ありませんね」
大石の言葉に合わせ、小笠原は、チェック用紙に確認済みの印を入れ、各提出書類の右上に、『事前審査済』と書かれた赤いスタンプを押し、事務局控えとしてコピーを一部ずつとった。
――やはり、『皇帝』の通称を申請してきたか……。
大石が、通称認定申請書に目をやると、『呼称』欄にでかでかと『皇帝』と書かれていた。
また、一悶着起こりそうで、気が滅入る。
大石は心の内でため息をつきつつ、隣の小笠原に目配せをすると、小笠原は頷いた。
「櫛山さん、通称については先日も児玉から説明をさせていただきましたが、何か新たに証明する書類を、お持ちになったのですか」
じっと櫛山の顔を注視し、小笠原は淀みなく言葉を紡いだ。
――さすが先輩だ。自分ではきっと、言葉が震えるだろう。
櫛山は黙って一つ頷くと、封筒から何やら手紙のようなものを取り出し、小笠原に渡した。
小笠原は受け取ると、ざっと確認した。横目で大石も一緒に目を通すと、どうやら櫛山宛の手紙らしい。宛先が、『櫛山 英作 様方 皇帝 様』と書かれていた。
「オレ宛の手紙だ。確か、手紙、信書等も証明書類として例示していたよな」
「えぇ……。ですが、お渡しいただいた手紙では、駄目ですね」
櫛山の表情が険しくなった。
「あぁ? 何で駄目なんだよ。『皇帝』宛でちゃんと、オレの所へ届いているんだぞ」
気色ばみ、櫛山は語気を強めた。
大石は、額に浮かんだ脂汗を袖で拭った。胸の奥から込み上げてくる不安感を、シャープペンを持つ手をギュッと強く握り締めて、必死にごまかそうとした。
――落ち着け、落ち着け大石……。
いつまでも小笠原が一緒にいるわけではない。いちいち恐れをなさないよう、性格を変えていかなければならない。
「確かに『皇帝』宛になっていますね。しかし、宛名をよく見ると、櫛山さんの本名の方書付きじゃないですか。また、宛先の住所ですが、古島市の住所ではないですね。以前お住まいだった住所ですか?」
櫛山は、歯軋りをした。大石は、櫛山の顔が真っ赤に染まっていくのが手に取るようにわかった。
「手紙で証明する場合には、少なくとも二、三年以上は前からの消印があり、継続的に、『皇帝』の宛名で、古島宛の住所に届いている手紙を、ある程度の数ご用意いただかなければ、認められません。櫛山さんの場合、転入して間もないですから、難しいのではないですか」
「ぐぐっ……」
櫛山は言葉に詰まった。
「通称認定について、国から示された基準があるのですが、『当該選挙の行われる区域の全域にわたって』といった点を、提出いただいた資料から確認できなければならないのです。他市の住所宛に届いた手紙をもっての判断は、申し訳ないですが、できかねますね」
小笠原は、疑問点を次々に指摘していった。指摘を受けるたび、櫛山の顔が歪んでいった。
――まずい、かな。
暴発の予感がした。だが、指摘すべき事項は指摘しなければならない。小笠原は全く躊躇せず次々と駄目出しをしていった。今の大石には、淀みなく、躊躇せず、はっきりと言い切れるだけの度胸はなかった。
全身を震わせている櫛山は、突然すっくと立ち上がった。勢いで椅子が倒れたが、一切気に留めず、櫛山は声を張り上げた。
「何で、認めねぇんだよ! いいかげんにしろ!」
ビクッと大石は体を震わせ、背中の冷や汗がますます浮き出し、さらなる不安感が襲う。いや、恐怖感といっても、いいかもしれない。
横目で小笠原を見たが、顔色を変えず、全く平然としているようだった。つくづく頼りになる先輩だった。
堪らず、横から児玉が口を挟んできた。
「櫛山さん、先日も申し上げましたよね。我々が納得できる、客観的な証拠を提示してくださいと」
「だから! 『皇帝』宛の手紙を持ってきたじゃないか!」
櫛山は、机を両手で強く叩いた。同フロア中に響き渡ったのではないかと思われるほどの大きな音がし、大石は再び体を震わせた。
「お持ちいただいた手紙については、小笠原が今も説明したとおりです。ただの手紙一通だけ、しかも古島市内の住所宛ではないというお話では、古島の選挙区全域にわたって広く有権者に認められた通称と、考えられますか?」
児玉は、バッサリと切り捨てた。
櫛山は、後ろ足で倒れていた椅子を力任せに蹴飛ばすと、児玉の元へと向かった。
――何だ? どうするつもりだ。
大石の心に警鐘が鳴らされた。嫌な予感だ……。悪い予感は、だいたい当たる。
「ふざけんなよ……」
怒気を孕んだ強い口調で、櫛山は児玉を睨みつけ、不意に、児玉の胸倉を掴んだ。
「――櫛山さん、やめてください」
児玉は努めて冷静に、櫛山を諭した。
「このままでは、警察を呼ばなければならなくなりますよ」
櫛山は、『警察』という言葉に、胸倉を掴んでいた手の力を緩め、離した。
「クソッ」
櫛山は吐き捨てると、机上の書類を乱暴に引っ掴み、バッグに詰め込んだ。横顔は、怒りに震えていた。
「また、来るからな」
大石らの姿を睨みつけると、事務局を去っていった。
櫛山の姿が見えなくなり、大石は安堵のため、脱力した。小笠原も、ハンカチで額の汗を拭き取っていた。冷静に見えた小笠原も、実は相当に緊張していたのだろうか。
「係長、大丈夫ですか?」
胸倉を掴まれたために崩れたネクタイを直している児玉に、大石は声を掛けた。
「心配には及ばないよ」
児玉は、直したネクタイをキュッと締め上げた。落ち着いているようだった。
――さすがに、経験豊富な係長だ。
相手の暴力にも冷静な切り返しをした姿に、頼もしさすら感じた。
「今の調子だと、また来るだろう。今日のように、しっかり、毅然とした態度で臨もう」
児玉は、大石と小笠原を見つめた。
「もちろんです」
小笠原は大きく頷いた。
――不安だけど、先輩も、係長もいるし……。
大石も、胸に落ちる懸念を押し留め、頷いた。
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