第三章 無理難題
第11話 事前審査
三月も半ばに差し掛かった。今日から三日間の予定で、立候補予定者の届出書類の事前審査が始まる。大石は、初めての事前審査に、緊張のあまり手が強張ってしまった。
――落ち着け、落ち着け。
深く、どこまでも深く深呼吸をし、心を落ち着かせようとした。
「ほら、また、お前の悪い癖だ。自分を追い込みすぎるなよ」
小笠原が、手に持ったクリア・ファイルの角で、コツンと大石の頭を小突いた。
「でも、議員本人と直接ああだこうだと遣り合ったりする場合も、あるんですよね。緊張するなと言うほうが、無理ですよ」
大石は、思わず抗議の声を上げた。
事前審査には立候補予定者の支援者が訪れる例が多いが、中には議員本人が直接書類を作成している場合もあり、議員本人を相手に、書類のここが違う、そこも違うといった感じでズバズバと指摘をしていかなければならない場面もある。
新人職員で、議員に対峙し遣り合うような機会を持つなんて、なかなかないだろう。事前の勉強はしっかりとやったものの、やはり、何か誤った指摘をしてしまわないだろうかと、気がかりは尽きなかった。
事前審査とは、告示日に届け出る立候補のために必要な書類を予め審査しておき、告示日にスムーズに届出の受付事務が進むように行うものと、小笠原から聞いた。
選管側の都合で、候補者側の手間を取らせている、という意見もあるかもしれないが、候補者側にも、もちろんメリットはあるという。
一つには、選挙運動とは、告示日に、選挙長へ立候補の届出を済ませた瞬間から行える行為で、つまり、事前にしっかりと書類を審査し、告示日当日は審査済みの書類の授受だけという状態にしておけば、届出を早く済ませられ、貴重な選挙運動の時間を、より多く確保できるという。
もう一つは、事前審査なしに告示日当日に届出を行った場合、万が一にも書類が欠けており、すぐに修正不可能であった場合、立候補自体ができなくなる恐れもあるからだという。本籍地が遠隔地で、戸籍の抄本を用意し忘れたとなったら、目も当てられないだろう。
事前審査用のチェック・リストを用意し、大石は審査用に臨時に設けた机の上に書類を置き、着席した。立候補予定者説明会時に、誰をどの時間に審査をするか、指示をしてあり、複数の立候補予定者がバッティングしないよう予め調整をしていた。
大石の隣に小笠原も着席し、最初の立候補予定者の来訪を待った。小笠原が言うには、選挙の効力にも関わる大事な書類の審査なので、基本的に二人一組で審査を行うとの話だった。
横目で小笠原の様子を窺うと、いつも笑みを浮かべている小笠原も、いつになく真面目な顔つきをしていた。自然と、大石も気が引き締まってきた。
喉を潤そうとそばに置いたペットボトルを手に取り、蓋を外すと、口に含んだ。冷えたミネラルウォーターが緊張でカラカラに渇いた喉に染み渡る。ペットボトルを置くと、両手で頬を叩き、気合を入れた。
――よし、ドンと来い。
事務局入口を見つめ、大石は最初の事前審査者が来るのを待ち構えた。
順調に事前審査は進んでいった。
候補者届出書、供託証明書、宣誓書、戸籍抄本等々、必要書類を一つ一つチェック・リストに従って確認していった。
どの立候補予定者も、思いのほかきちんと準備をしてきてくれており、順調に審査は進んだ。ただ、選挙公報の原稿については、苦戦している候補者が多かった。原稿はきちんと枠内に収まっているか、写真は問題がないか、複数のチェック項目をしっかりと確認していった。
選挙公報は、新聞紙大の、候補者たちの政見を記した新聞の一種で、投票日前に各家庭に配布されるものである。選挙公報のための原稿については、事前審査時に完成版を出してもらい、あらかじめ選管で預かる形を取っていた。
本来であれば、告示日当日の午後五時までに原稿を提出すればよい。しかし、締め切り時間を待ってから作業に入っては、いち早く有権者に選挙公報を配るという要請には応えられなかった。
可能な限り遅れを防ぐため、早めに原稿を提出してもらい、印刷業者に校正を上げさせて確認をしておかなければならない。告示日の夜にくじを行い、選挙公報の掲載順序を決めるが、順番が決まったら即、印刷を開始できる状態に持っていっておかないと、刷り上るのが二日後、最悪の場合は三日後と、相当に遅くなる。
もし、原稿を事前に出してもらっていなければ、くじを行った後に一人一人の原稿の校正を行ったうえで印刷に入るという手順になり、致命的な遅れに繋がりかねなかった。市内一円への配布も一日から二日は掛かるため、選挙公報が届くのが投票日の前日、などという事態が起こらないとはいえなかった。
「確かに、原稿はお預かりいたしました」
選挙公報受領書を作成し、大石は預かった原稿と引き換えに立候補予定者に渡した。
「それでは、告示日当日は、今お渡しした封印済みの封筒ごと、会場にお持ちください」
小笠原は、立候補予定者に、審査済みの書類を入れ封印を施した封筒を渡した。告示日までに下手に中身をいじられたりされないようにするためであった。勝手に内容を改竄したり、必要な書類を引き抜いたりできないようにし、確実かつスムーズな受付ができるようにするための配慮である。
立候補予定者は封筒を受け取ると、退出していった。これで十二人目、残るは、あと一人だ。――残りの一人が、問題ではあるが。
「ふぅっ、十二人、終わったな」
小笠原は大きく伸びをした。大石も小笠原に倣うと、体が凝り固まっていたのか、あちこちからミシミシと音がしてきた。
「運動不足でどうしようもないんですよ、最近」
大石は、ぐるぐると腕を回し、苦笑いを浮かべた。
「ハハッ、実はオレもなんだ。選挙が終わるまでは全く休みが取れないしな。体が鈍って鈍って。選挙によっては、月の残業が二百時間を越える場合もある。体調には、せいぜい注意しろよ、大石」
小笠原は立ち上がると、血流を促すためか、屈伸を始めた。
――残業、二百時間……。
想像がつかなかった。大丈夫だろうか。ジワリと不安が襲ってきた。
「あとは、櫛山さんだけですけれど……。来ますかね?」
屈伸を止め、小笠原はニコニコしながら大石を見つめた。
「ほら、前にも言っただろう。なるようにしかならないって。来るなら来たで、粛々と対応するだけさ」
「ま、そうなんですけどね……」
櫛山が現れてから、ずっと心に引っ掛かりを感じていた。気にかけすぎだろうか。大石は、つい口ごもった。
「何だ、大石。もしかして、櫛山が怖いのか?」
図星を指され、顔がカッと熱くなってきた。いつも小笠原には心の内を読まれる。
――この人には敵わないな。
「ハハッ、正解か。やたらに怯える必要もないさ。いざとなったら、係長や局長が護ってくれる。っていっても、今日は局長、大島に出張で、いないけれど」
大口を開けて笑いながら、小笠原は大石の背中を何度も叩いた。
小笠原の心遣いのおかげで、大石は幾分胸の重石が取れた気がした。
残りは櫛山一人、事前審査を無事に終えられるだろうか。
――何もなければ、いいんだけど……。
大石は眉を曇らせつつ、来るか来ないか皆目わからない櫛山の姿を、選管事務局の入口に目を注ぎながら待った。
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