第10話 対策会談

 森田は途方にくれ、天を仰いだ。


 ――困ったわ。


 まさか、小池が拒否をするとは思わなかった。森田は、溢れ出そうになった悔し涙を、目をじっと瞑って、どうにか堪えた。


「いい新人は、見つかりそうもないのか?」


 耳に入ってくる小池の言葉に、森田はゆっくりと頷いた。

 沈黙が流れた。森田も、小池も、しばらく無言を貫いた。交わす言葉がなかった。

 不意に、静寂を破るかのように電話のコール音が後援会事務所内に鳴り響いた。

 身に突き刺さる沈黙に耐えかねていた森田は、これ幸いと立ち上がり、電話の置かれた自席へと戻ると、受話器を取った。受話器から男の声が聞こえてくる。どうやら市長のようだった。


 ――いったい市長が、何の御用かしら。


「先ほど小池議長のご自宅に連絡を入れたところ、議長が、後援会事務所にいらっしゃっていると伺ったもので。議長に代わってもらえませんか」


 どうやら、市長は森田ではなく小池に用があるようだった。森田は、小池に市長から電話だと声を掛けた。


「市長から? わざわざ事務所に電話を掛けてくるとは、急ぎの用なのか」


 小池は、やおら立ち上がると、電話のそばへとやってきた。森田の手から受話器を受け取り、「小池に代わりました」と訝しがるような声を出した。

 森田は耳を欹てていたが、会話の内容までは聴けなかった。興味をそそられたが、聴こえないのでは、仕方がない。


「え? 今から、ですか?」


 ――何を話しているのかしら、市議会の運営の件?


「わかりました、一時間後、議長応接室にてお待ちしています」


 用件は済んだのか、小池は受話器を置き、そばに立つ森田に顔を向けた。何を考えているのか、いまいち読めない複雑な表情を浮かべている。


「市長が相談したい問題があると、一時間後に市役所の議長応接室で会う約束になった。どうやら市議選に関する話のようなので、悪いが、君も同席してくれないか」


 森田は頷いた。

 市長からの、市議選についての相談。森田は、いったいどういった話だろうか、と首を傾げた。



 市役所本庁舎の四階に設けられた議場のそばにある議長応接室。中には人影が四つあった。小池、森田、市長、副市長、以上の面々だ。

 森田は周囲を見渡した。いつ来ても、重厚感溢れる応接室には慣れず、背筋がぞわぞわする居心地の悪さを感じた。小池とは、なるべく後援会事務所か、小池の自宅で会うようにしており、応接室に出向く場面は少ない。堅苦しい場所は、好きにはなれなかった。

 正面には、ソファーに深く腰を掛けた市長、副市長の姿があった。四十を少し回った市長は、若さを前面に押し出して選挙戦を戦ってきただけあり、表情からはいつも生気が漲っている。また、決して勢い、パワーだけではなく、心のうちには計算高さをも持ち合わせている事実を、市長の選挙の応援をした森田は知っていた。

 若さだけでは、そうそう市長などは務まらない。やり手の男だった。


「お時間を取らせてしまって、すみません、議長」


 市長は頭を下げると、小池は首を横に振った。


「いえ、構いませんよ。一体全体、どうされたんです。市議選の問題、としか電話口では伺っていませんが」


「はい……。議長は、市議選の立候補予定者説明会に参加していた、櫛山という男を、ご存知ですか」


 小池は静かに頷いた。

 櫛山という単語に、森田は思わず体を震わせた。


 ――櫛山を、市長はご存知なのかしら。


 もしや、相談ごととは、櫛山の件なのだろうかと、森田は市長へ視線を移した。市長からも小池に出馬をお願いしたいという話であれば、大変ありがたかった。期待を込め、市長を凝視する。

 森田は、じっと市長の二の句を待った。


「ご存知であるなら、話は早い。議長にぜひもう一度、市議選に立候補していただき、櫛山の当選を阻止していただきたいのです」


 小池は渋い顔を浮かべた。


 ――やはり……。これは、先生の心変わりを期待できるかもしれないわ。


 市長という思いがけない強力な助っ人が現れ、森田は心強さを感じた。風向きが変わったかもしれない、と。

 小池は黙っていた。目を閉じ、腕を組んでいた。


 ――先生……。


 小池は、ゆっくりと目を開くと、静かに口を動かし始めた。


「市長。私のような老いぼれに期待してくださるのは、大変な光栄です。ですが、もう私も七十三。森田にも言ったのですが、あと四年、体の不調もなく無事に務め上げるだけの自信が、私にはないのですよ」


「先生!」


 市長まで頭を下げているのに、事ここに及んでも、まだ拒否をする小池に、森田は思わず声を上げた。


 ――年齢を理由に弱気になるなんて、先生らしくないわ!


 小池は、森田に一瞥をくれると、首をゆっくりと横に振った。


「私は、一度はっきりと引退を表明した身です。市民は、私はもう出馬しないと思っている。たとえ私が立ったところで、苦戦は免れないような気もします。もしそうであるならば、フレッシュな人材を探し出したほうが、結果的にはよいのではないですか」


「新人では、不確定要素が強すぎます。議長、古島のためです。もう一肌、脱いでいただけないでしょうか」


 脇で静かに聞いていた副市長も、小池に頭を下げた。


「議長……!」


 市長も再度、深々と頭を垂れた。森田は立ち上がり、上体を四十五度に折って小池に頭を下げた。


「先生……、市長も、副市長も、ここまで言ってくださっているんです。私からも、もう一度お願いします。出馬、してください」


 小池はじっと沈黙していた。長い静寂が続いた。張り詰めた空気が、鋭く身に突き刺さる。


 ――先生!


「――そうですか。そうまで強く請われるのであれば、私も覚悟を決めねばなりませんね。市長、副市長、顔を上げてください」


「議長!」「先生!」


 難しそうな顔を浮かべていた小池は、何かが吹っ切れたのだろうか、一転、笑顔を浮かべていた。


「最後のご奉公です。市議選、出ましょう」


 小池の言葉に、市長と副市長は顔を見合わせ、強く頷いた。

 森田も、思わず握った拳に力を込め、小さくガッツポーズを取った。


 ――これで、櫛山の当選は阻止できる。


「そうと決まったら、森田、準備を急ぐぞ」


 小池は、森田を振り返ると、力強い眼差しで見つめた。


「はい、先生!」


 森田は、満面の笑みで答えると、立ち上がり、勢いよく応接室を出た。

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