第8話 後継と再登板
森田の耳に、受話器からの規則的なコール音が聞こえてくる。
六回、七回、八回……。
――いらっしゃらないのかしら……。
森田は諦めて受話器を置こうとした。
「小池です」
コール十回目にして、男性の声が受話器からこぼれてきた。小池の声だ。
連絡が取れて、森田はホッと安堵した。
「お忙しいところ、すみません、森田です。実は、お耳に入れておきたいお話がありまして」
森田はすこし間を置いた。これから、古島の今後を占う重大な任務を、森田はこなさなければならない。受話器を握る手にも自然と力がこもってくる。覚悟はできているかと、自問自答をし、自らの決心を再度確かめた。
「今から、お伺いしたいと思うのですが、よろしいですか?」
「いや、それには及ばん。私の後継の件で、後援会事務所へ向かう予定だったんだ。事務所で待っていてくれ」
「わかりました。お待ちしております」
小池が電話を切るのを確認すると、森田も静かに受話器を置いた。
――さて、先生は説得に応じてくれるかしら。
椅子の背凭れに凭れ掛かると、机上に置かれたお茶のペットボトルを手に取った。
昼食に出た若林に頼んで買ってきてもらったお茶だ。口にすると、グイッと喉に流し込んだ。冷えた液体が、渇き気味だった森田の喉を潤していく。
――もし、私の説得が失敗したら……。
森田は頭を振った。考えてはいけない、と。前向きに、前向きに、ポジティブ・シンキングを心がけねば。森田が長年に亘って信頼し、頼りにしてきた小池だ。よもや、期待を裏切るような回答はすまい。
――まさか、ね。
ついネガティブになった森田は、自嘲した。
「十三人目の櫛山という男に、問題があると言うのだな」
事務所へやってきた小池に、森田は櫛山に関する情報を報告した。
「ええ、本土でだいぶ問題を起こした人物のようです」
森田は頷いた。小池の顔を覗き見ると、眉を顰めている様子がわかった。
「そう、か……。今日は、私の後継は決まったかどうか、確認をしたかったんだが、どうやら、後継を決めているような余裕は、なかったみたいだな」
応接用のソファーに腰を掛けた小池は、テーブルに置かれた森田の入れたコーヒーに手を伸ばすと、一口そっと啜った。
正面に向かい合って座っている森田も、小池に倣ってコーヒーを手に取り、啜った。コーヒーの香りが、森田の思考を鮮明に覚醒させる。
コーヒーカップをテーブルに戻すと、森田は意を決して、「先生、本題なのですが」と声量を絞りつつ切り出し、小池の顔を凝視した。
齢七十三の小池は、しかし、年齢を感じさせない男であった。すっと伸ばした背筋、常に体にフィットしたスーツを洒落に着こなした、戦前の紳士然とした貫禄ある姿は、実年齢よりも十歳は若く見えた。それだけに、森田は小池の引退宣言が残念でならなかったが。
――やはり、この方しかいないわ。
改めて森田は思った。もはや、他には考えられない、と。
白くはなったが、決して薄いとはいえない髪を両手で整えながら、小池は、森田の言葉を黙って聞いていた。
「櫛山がどのくらいの支持を集められるか、正直、読みきれません。何しろ、古島市議選は四十年間に亘って無投票でしたので。法定得票数、いや、供託物没収点にすら達しないかもしれません。しかし、逆に、新し物好きや、変化を好む者たちに思いのほか支持されたりすれば、上位を食う状況も、あるかもしれません」
小池を注視しながら、森田は言葉を紡ぎ続けた。大腿に置いた手にも、自然と力が入る。
「不確定要素の多い今の状況ですと、無名の新人候補を立てるのは非常に危険です。古島の将来を考えれば、万が一にも、櫛山を当選させるわけにはいかないのです」
森田は、ソファーから少し腰を浮かすと、テーブルに両手をつき、体を前へ投げ出した。
「先生! もう一期、お願いできないでしょうか」
森田は、頭を深く垂れた。
――先生、お願いします。
頭を下げながら、森田は小池の返事をひたすら待った。想いは伝わったのか。果たして、答は是か、否か……。
「森田……」
小池は、静かに、ゆっくりと口を開いた。
森田は顔を上げると、まじまじと小池の顔を見つめ、続く言葉をじっと待つ。
小池も、目を逸らさず、見つめ返してきた。
「今はまだ、こうやって体に不調はなく、何の不自由もなく動ける。実年齢よりも若く見られる機会も、非常に多い。だが、な」
コーヒーを手に取り、もう一口ゆっくりと小池は口に含み、飲み干した。しんとした室内に、小池の喉の音がいやにはっきりと響く。
「私も、もう七十三。あと四年、任期満了する頃には、七十七だ。この年齢になると、いつ何時、突然の体調不良に見舞われるかわからない。私は、自分の体調不良を理由に大切な職務に穴を空けるような恥ずべき真似は、したくないんだ。市民の負託を受け、職務に就く以上、きちんと全うしたい。万が一にも欠員という事態になれば、選挙期日から三ヶ月以内であれば、櫛山が繰り上げ当選という残念な状況にならないともいえない。また、三ヶ月が経過していたとしても、市議会に長期間の欠員が生じ、市民に対して極めて申し訳ない話になる。欠員の時期によっては、市長選との便乗補欠選挙となろうが、選挙となれば、苦しい市の財政をさらに圧迫しかねない」
森田は、目の前が真っ暗になるかのような衝撃を受けた。まさか、断られるのか、と。
「古島のためにも、私のような老いぼれではなく、若く新しい血を議会に入れるべきだ。私は断固、新人を立てるべきと思っている」
小池は大きく息を吐いた。
「すまない。私が出るわけにはいかない」
小池は、森田に深く頭を垂れた。
小池に拒否をされた。納得のいかない森田は、なおも食い下がった。ここで引き下がったら、古島の将来はどうなる、と。
「古島のため、どうか、お考えを改めてください」
再度、森田は頭を下げた。
諦めるわけにはいかない。小池以外に、適任者はいないから。
「本当に、すまない……」
森田は、悔し涙がこらえ切れなかった。小池を説得し切れない自分が、恨めしかった。
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