第二章 再登板工作
第6話 小池陣営
「――え? 『皇帝』?」
支援者の一人の報告に、森田愛は耳を疑った。
「ごめんなさい、私は、冗談を聞きたいわけではないのよ?」
森田は努めて穏やかな口調で語りかけたが、眉根をやや顰めた。
「森田さん、それが、冗談じゃないんですよ。説明会に来ていた櫛山って言う男、どうやら、相当いわく付きらしいんです」
森田は生唾を一つ飲み込んだ。
――若林君の情報なら、まず間違ってはいないわね。面倒な事態になったわ……。
目の前の男――
若林は、ネットで見つけ出した櫛山の情報を頼りに、櫛山が以前居を構えていたと思われる本土の初穂市近辺に住んでいる若林の大学時代の友人たちから、情報をいろいろと聞き出したという話だった。
「報告ありがとう。あとは、私のほうで調べてみるわ。もし、何か新しい事実がわかったら、また知らせてちょうだい」
若林を労うと、森田は自身に与えられている事務机に戻り、椅子に腰を下ろした。若林はこれから食事だろうか、背を向け、事務所を出て行った。
小池栄作後援会事務所は、市役所から東に五百メートル、海岸線に沿った市道の脇の風防林のそばにあった。プレハブ二階建てで、かつては一階に個人の雑貨屋があったが、今は空き店舗となっており、二階が後援会事務所となっていた。風防林に遮られ、海を一望、というわけにはいかないのが、残念なところであった。
森田は、すっかり冷めた飲み残しのお茶を啜りながら、事務所内に視線を送った。選挙戦二ヶ月前、森田たちは小池の後継となる新人の抜擢に難航しており、候補者のポスターの印刷はまだ終わっていなかった。
白地が剥き出しになっている壁を見やると、ふんだんに色を使った選挙ポスターで壁一面が埋め尽くされていた四年前の光景を、ふと思い出す。
――赤く大きな達磨の白い目に、墨で大きく瞳を入れた小池と、万歳三唱をしている支援者たち。
無投票ではあったが、多くの支援者が駆けつけ、今期を最後と決めている小池に熱い視線を送っていた。支援者の滾る想いに応えるよう、小池も筆を持つ手に力を込めた――
森田は今でも鮮明に思い出せた。後援会会長として、また、選挙が始まれば選挙参謀として、右に左に小池のために動き回った。あれから、四年。小池は引退なのだ。
「現状のまま、新人候補を立ててもいいものかしら……」
森田の胸に落ちる暗い影。櫛山だ。
――私たちが、まだ知名度のない新人を立てて、万が一にも櫛山に負けるような事態があると……。
若林の話では、櫛山は意味があるとは思えない文書開示請求を繰り返すなど、初穂市の行政をだいぶ混乱させていたらしい。
森田は腰を上げると、背後にある窓の前へ立った。窓に映り込む自身の姿を見つめながら、今後の展望を思う。目を閉じ、最善の一手は何かと、森田は思考の海へと飛び込んでいった。
――万が一にも、櫛山の当選は阻止しないと……。
当然、古島の人間は、櫛山の人となりなんて、知っているはずはない。櫛山の主張しだいでは、知名度の薄い新人は食われるおそれがある。櫛山有利の状況で選挙戦に突入する事態は、どうしても避けたかった。
――知名度のある新人、か。
思い浮かばなかった。森田は、もう一度、自身の脳内にインプットされた新人候補者リストを検索していった。
検索を懸けつつ森田は窓の外に目を移すと、厚い雲に覆われた空が視界に入ってきた。
しばらくぼうっと空を見つめていると、雲の切れ間からスッと陽の光が漏れ出し、一条の筋を描き出した。
――あっ。
森田の脳裏に、一人の男の顔が浮かんできた。
「もう一度、立ってもらうしかないわね……」
小池栄作……、この人しかいない。下手な新人を出すよりも、今回は小池に引退を撤回してもらい、もう一期やってもらうしかないだろう。
「古島のためですもの。先生はきっと、わかってくださるはずよ」
心が決まったら、急に気分が楽になってきた。
森田は、窓を開くと、サッシに手を掛けて身を大きく外へ乗り出した。肺いっぱいに外気を取り込むと、磯の香りが微かに鼻につく。
しばし海風を全身に浴びていると、眼下に若林の姿が見えた。
「若林君! これから、お昼なの?」
声に気付いた若林は見上げて、森田に顔を向けた。
「市役所の食堂で、軽く食べてきます」
「そう、じゃ、悪いけれど、帰りに冷たいお茶を買ってきてくれないかしら」
森田は机の脇に置いたハンドバッグから小銭入れを取り出すと、五百円硬貨を一枚取り出し、指で弾いて若林に投げた。
放物線を描きながら落下をしてくる硬貨を、若林は両手でキャッチした。
「わかりました」
若林は片手を大きく上げて森田に応えると、振り返り、市役所方面へ歩き去った。
海風に煽られて顔にまとわりついてきた黒髪を、森田は片手で払った。手櫛で整え直して窓を閉め、椅子に腰を掛ける。
――忙しくなるわね……
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