第5話 都選管
「あなたたちは、どっちの味方なのよ!」
天野は頬を膨らませながら大石たちを睨むと、わざと大きな足音を立てながら事務局を出て行った。
頭に血が上ると全く行動が子供じみてくる。大石は自分の上司の姿に頭を抱えた。
――落ち着いているときは、決して悪い人じゃないんだけどな。
「フンッ、気分が悪い。オレも、今日は帰る」
櫛山も吐き捨て、床のショルダー・バッグを乱暴に引っ掴むと、足早に事務局を後にした。
ホッと安堵すると、大石は全身に脱力感を感じ、椅子に腰を掛けた。足を投げ出し、背凭れに凭れ掛かりながら、だらんと腕を下へ垂らす。
今さら、書類整理をやる気力も起こらなかった。
「悪かったね、大石さん、小笠原さん。局長、すっかりヒートアップしちゃって」
児玉は、選管委員から差し入れで貰った缶コーヒーを、壁際に置かれたダンボールから取り出すと、大石、小笠原に投げてよこした。
「いえ……」
缶コーヒーを受け取ると、大石はプルタブを開き、一口ごくっと喉に流し込んだ。
冷やしていなかったので生ぬるかったが、息苦しいほどの緊張感でカラカラに渇いた喉に、サッと染み渡り心地よかった。
「ま、しょうがないっすよ。相手が相手でしたからね。局長の気持ちも、わからないでもないです」
グイッと一気に缶コーヒーを飲み干し、小笠原は息を吐いた。
確かに、最後は売り言葉に買い言葉になっていたけれど、天野が癇癪を起こす気持ちも理解はできた。
大石は、喚き散らしていた櫛山の姿を思い浮かべ、櫛山に抱いていた気味の悪さは、決して島外者だからといった理由ではなく、無意識に滲み出ていた風変わりな性格に由来していたに違いないと感じた。
「局長は、しばらく放っておけば、落ちつくだろう。問題は、あの男、櫛山だ」
児玉は、大石と小笠原を交互に見つめ、大きくため息をついた。困惑を隠しきれない表情だった。
「今日の様子だと、またトラブルを起こすぞ。どうしたものか……」
自分の納得のいく回答が得られなかった櫛山だ。児玉の言うとおり、また事務局へやってくるのは、ほぼ間違いないだろう。次は、うまく対処できるだろうか……。
「都選管に相談してみません?」
小笠原は飲み終えたコーヒーの缶をテーブルに置くと、児玉に提案をした。
都選管――東京都選挙管理委員会は市町村を包括する広域の地方公共団体たる東京都の組織として置かれており、都庁内に事務局を構えていた。都内各自治体の選挙管理委員会の職員の研修を受け持ったり、事務の執行について助言を与えたりと、指導的な役割を担っている。
「そうだな、そうするか」
児玉は頷くと、席を立ち自席へと戻っていった。
「東京都選挙管理委員会です」
電話口から若い男性の声が微かに漏れ聞こえてきた。
都選管へ電話を掛けている児玉のそばで、大石と小笠原は聞き耳を立てていた。児玉は二人の様子に気付き、二人にも会話が聞こえるようにと外部スピーカーに切り替えた。
「古島市選管の児玉です。島嶼担当の関口さんは、いらっしゃいますか?」
都選管は、古島市選管のようなこぢんまりとした組織とは違い、三十名前後を抱える大所帯であった。総務課と選挙課に分かれており、今、児玉が電話を掛けている相手は選挙課の指導係であった。
指導係は、都内各市区町村をいくつかのブロックに分け、ブロックごとに担当を置き、選挙事務に関する指導を行っていた。
「関口です。こんにちは。どうしましたか?」
女性の声が聞こえた。古島市を含めた島嶼部を担当している
昨年の春先、選管に配属されて間もないころ、大石は都選管が主催する選管職員の初級研修に参加するため、会場の文京区役所へ赴いたことがあった。
だが、このときは運悪く関口に会う機会を持てなかった。児玉が言うには、三十代後半の綺麗な方らしいが……。
「実は、四十年ぶりに、市議選が投票になりそうなんです」
「あら、十三人目が現れた、というお話ですか?」
微妙に声のトーンを落とした様子で、関口の回答が耳に入ってきた。
「えぇ……。それで、ですね。実は、その十三人目に少々問題がありまして――」
児玉は櫛山について掻い摘んで説明をした。
「あぁ……、櫛山さんですね。今度は古島に行きましたか……」
「え?」
関口は意外な言葉を口にした。櫛山を知っているかのようだ。実は、有名人だったのだろうか……。
児玉は、思いがけない関口の話に、大石たちを振り向くと首を竦めた。
「実は、ですね。櫛山さん、過去に複数の自治体で、やはり『皇帝』の通称で立候補をさせろと暴れた前科があるんですよ。最近ですと、一年前の南多摩の初穂市の市長選で、『皇帝』で出馬しようとして大揉めに揉めました。結局は本名で立候補、大差の落選で終わったんですが……」
どうやら都内選管の中では、悪い意味で相当な有名人らしい。いわゆる選挙マニア、というものだろう。古島が過去ずっと無投票だった点に目をつけ、狙い目だとでも思ったのだろうか。大赤字の自治体だってのに、いい迷惑だ。
「今後、どういった対応を採ればいいでしょうかね」
過去の事例があるのなら、何か適切な助言が貰えるだろうと、児玉は尋ねた。
「んー……。とりあえず、根拠を提示しつつ毅然とした態度で撥ね付ける、これしかないですね。櫛山さん、全然、話を聞かないでしょう? いくら言っても、暖簾に腕押し、馬耳東風、馬の耳に念仏なんですよね。うまいこと宥めすかして、あしらうしかないです。たいした助言ができなくて、ごめんなさい」
関口は申し訳なさそうに謝った。
「いえ、なんとか、うまいことやってみます。ありがとうございました」
児玉は電話を切ると、大きく一つ深呼吸をし、大石たちに振り返った。
「ま、聞いてのとおりだ。大石さん、小笠原さん、うまいことやろうや」
滅入ったような顔を児玉は浮かべ、大石と小笠原を交互に見つめた。
「仕方がないっすね。とりあえず、そういう人なんだなっていうのは、わかりました」
小笠原は苦笑を浮かべると、首を竦めた。
話のわかる人間なら、いい。粘り強く説明をしていけばよいのだから。だが、櫛山は、どうやら根本的に違うようだった。
大石はこれからの事務の進行に若干の不安を感じ、額に浮かんだ脂汗を手で拭った。果たして無事に、何事もなく選挙を執行し終えるられるのだろうか――。
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