第4話 通称認定

「通称認定について、確認したい」


 鋭い目つきで天野と児玉を見やり、櫛山は本題を切り出してきた。


 ――通称認定……。


 大石は、はっと目を見張った。


 ちょうど立候補予定者説明会で大石が説明した範囲に含まれている分野だった。説明するからには、自分でもよく理解をしていなければと、大石は小笠原に確認をしつつ資料に当たっていた。

 選挙には、戸籍簿に書かれているとおりの戸籍名――旧字体を常用漢字に修正する程度は可能だが――で立候補するのが原則だ。だが、過去の他の選挙で立候補した人物を見れば、明らかに戸籍名ではない、芸名などを使っている者がいるのに気付くだろう。誰でも、好き勝手な名前で立候補ができるのであろうか。

 ……いや、できない。戸籍名以外で立候補するためには、使用を希望する呼称が、戸籍上の氏名に代わるものとして広く通用している状況を説明し、かつ、証明するに足りる資料を提示しなければならない――ただし、戸籍名を通常の読みに従って、ひらがなやカタカナに直すだけであれば、申請のみで可能だ――。


「通称認定を受けたい、というお話でしょうか?」


 櫛山は頷く。


「『こうてい』の名で、立候補をしたい」


 ――え? 今なんて言った?


 自分の聞き間違いかと、大石は隣の小笠原の顔を窺った。小笠原も聞き取れなかったのか、しきりに首を傾げていた。


「え? あ、あの、すみません、もう一度」

「だから、『こうてい』だ。皇帝陛下の『皇帝』だよ。何度も言わせるな」


 天野と児玉は困惑し、顔を見合わせた。


 ――確かに、『皇帝』と言っていたよな……。


 わけが、わからなかった。


「今、『皇帝』って言ってましたよね?」


 櫛山に聞こえないよう、大石は隣の小笠原に囁くと、「あぁ……」と小笠原も頷いた。櫛山はいったい、どういうつもりなんだろうか。


「あの……、昨日の我々の説明はお聞きになっていましたよね。通称の認定には広く通用している状況を証明する必要がありますよ」


 児玉は訝しがりながら櫛山に確認をした。櫛山は当然だとばかりに鼻を鳴らすと、


「そんな話、百も承知だ。もちろん、証明するに足る資料は用意している」


 櫛山は脇に置いたショルダー・バッグを手に取ると、中を漁り出した。


「見てくれ」


 櫛山は、テーブルの上に一冊の本を置いた。


 児玉は櫛山の差し出した本を手に取ると、さっと表紙を確認した。

 大石からは遠目のため、はっきりとは確認できないが、一面の黒地にどぎつい赤色で、タイトルらしきものが書かれているようだった。


「タイトルは……、『皇帝、大統領、首相 今、日本に求められるものとは』ですか。著者名は、『皇帝』となっていますね」


「オレの著書だ。確か、説明会のときに証明書類の例として『著書、新聞雑誌の記事等』と説明をしていたよな」


 櫛山はショルダー・バッグを床に戻すと、児玉に鋭い視線を送った。


 確かに、大石は説明会の中で証明書類の例として挙げた。ちなみに、他には公の機関の発行した書類や、送達された手紙または葉書等の信書も例示した。

 児玉は本をひっくり返し、裏表紙を見、奥付を確認すると、パラパラとページを捲り、ざっと中身の確認をした。


「櫛山さん、私はこの本を拝見するのは初めてなのですが、全国的に流通しているものなのですか? 特に、ここ、古島の書店でも取り扱っているものなのでしょうか?」


 答えられない櫛山は一瞬、顔を歪めた。



「すみません、お見せいただいた資料では、とても通称を認定するわけには――」


 児玉が申し訳なさそうに言うや、突然がばっと櫛山は立ち上がると、目前のテーブルを両手で大きく叩きつけた。

 事務局内に響き渡る大きな音に、大石は思わず飛び上がりそうになった。作業の手を止め、櫛山たちに体を向けると、何事かと目を凝らした。

 心臓がバクバクしてきた。嫌な予感がする……。


「あぁ? なんで駄目なんだよ! オレの著書だ、ちゃんと証明できるだろう、ふざけんな!」


 櫛山は気色ばみ、児玉を睨みつけた。怒声を上げる櫛山の勢いに面食らいつつも、児玉は、あくまで冷静に、諭すように静かな声を出した。


「櫛山さん、大声を出さないでください。あなたの仰りたい話もわかります。ですが、あくまでも名前は戸籍名が原則なんです。大原則の例外を認めるというわけなんですから、それなりの証明が必要となるのは避けられないんですよ。無制限に何でも認めてしまっては、インパクトだけを狙った『ポチ』だの『タマ』だの、挙句は『神』だなどといってくる人が、必ず出てきます。通称というものは、戸籍名よりも通称で広く一般の人に認知されているため、戸籍名のまま立候補すると著しく不利になるような事態を回避するために設けられたものなんです。櫛山さんの著書が、古島の書店で扱いが全くないのであれば、『皇帝』が櫛山さんの通称として古島の有権者に広く認知されているかどうかを我々は判断できませんよね。申し訳ないのですが、ご理解ください」


「だから! 持ってきた本で証明ができると言っているだろう!」


 納得のいかない櫛山は、さらに声を荒げ怒鳴りつけた。


「確かに、著書を証明書類の例として出しました。ただ、著書、刊行物などは『候補者本人等の意志に基づいて作成又は刊行されるものであるため、これらの資料のみによって通称認定をすることは適当ではない』との判例もあります。少なくとも、古島の書店に一冊も置かれた実績がないという話であれば、認定は難しいと言わざるを得ません」


「アマゾンとか楽天とか、ネット書店経由で購入した古島の住民も、いるかもしれないじゃないか!」


 櫛山は、なおも食い下がってきた。


「確かに、ネット書店経由で購入した者がいるかもしれません。ですが、櫛山さん、我々にわかるように証明できますか? とにかく、我々は、櫛山さん個人の主観的なお話だけではなく、客観的な証拠に基づいて『皇帝』という通称が広く認知されているという事実を、証明していただきたいのです」


 櫛山の目をじっと見据えながら、児玉は淡々と続けた。


「申し訳ないですが、証明を補強するための資料を、他にご用意いただくしかありませんね」


 きっぱりと言い切った。


 ――今の自分には、果たして係長のようにはっきりと断れるだけの勇気があるかな……。


 毅然と対応する児玉に、大石は心強さ、頼もしさを感じた。


「そんなことは、知らん! お前たちは、ただ『皇帝』を認めればいいんだよ!」


 聞く耳を持たず、櫛山は吼えた。強く握り締めている腕がプルプルと震えているのが大石の目に映った。相当かっかと頭に血が上ってきているのだろうか。

 大石は、大声で喚くような客にはまだ不慣れなため、櫛山の一言一言に体をビクッと震わせ、臆病風に吹かれてしまう。


「おい、そんなにびくつく必要はないぞ」


 小笠原が耳元で囁いてきた。どうやら大石は、自分で思っている以上におどおどとしていたようだ。

 大石はカァッと顔が熱くなり、羞恥が込み上げてくると、慌ててごまかすように、「び、びくついてなんか、いないですよ」と虚勢を張った。

 ただ、小笠原は見透かしているようで、ニヤニヤと笑っていた。


「いい加減にしてください!」


 怒鳴り散らす櫛山を見上げ、天野は声を張り上げた。


「児玉も説明したでしょう! 認められないものは、認められないんです!」


 天野は立ち上がると、興奮して顔を赤くしている櫛山を睨みつけた。


「あぁ? 婆さんは引っ込んでろよ、うるせーな」


「ばっ、婆――」


 絶句する天野の顔も、見る見るドス赤く染まっていく様子が見て取れた。


 ――あぁ……、こりゃ、駄目だ。


 大石は力なく首を横に振った。天野のスイッチが完全に入ったようだ、もう止められないだろう。隣の小笠原も首を竦め、苦笑いを浮かべていた。


「とにかく、認められないものは、認められません!」


 少し離れている大石たちからも確認できるほどの勢いで、口から唾を飛ばし、天野は怒髪が束子化して天を衝くほどの形相をしていた。婆さん呼ばわりが相当に頭に来たのだろう。天野は妙にプライドの高い人でもあるから。


「認めろ」

「認めません」

「み、と、め、ろ」

「み、と、め、ま、せ、ん」


 ――おいおい、まるで子供の喧嘩だよ……。


 堂々巡りに延々と繰り返されそうな天野と櫛山のやり取りに、大石も小笠原も呆れ返った。


「いいから、認めろ、婆ぁ」

「何度も言いますよ。み、と、め、ま、せ、ん」


 最後には掴みかからんばかりの勢いになり、さすがに児玉が止めに入った。


「局長、落ちついてください」

「彰ちゃんは黙ってて!」


 制止しようとする児玉を天野は怒鳴りつけた。天野の口から飛び散る唾を、児玉は上手いことのけぞりながら躱し、顔を顰めた。

 一人ではどうしようもないと悟ったのか、児玉は大石らに顔を向けると、目配せをしてきた。

 大石と小笠原は顔を見合わせて頷くと、立ち上がり、天野を止めに入った。

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