第3話 櫛山現る
「昨日の男、来ると思うか?」
翌日、大石が立候補予定者説明会の受付表を整理していると、小笠原がいつになく真面目な顔つきで声を掛けてきた。
大石は手を止め、そばに立つ小笠原を見上げた。
週一回のジム通いを欠かさない小笠原は、すらりと引き締まっており、ただでさえ長身の体をいっそう高く見せていた。
顔は浅黒く日焼けをしており、口元に浮かぶ白い歯とのコントラストが眩しい。週末はよく海に出かけ、サーフィンやダイビングを楽しんでいるという話だった。ジムでのトレーニングも、マリンスポーツのためらしい。まさに独身貴族を謳歌している、といった感じであった。
日本人男性の平均身長程度しかない大石は、見事な長身をうらやましく思うも、ただ、小笠原本人に言わせれば、老後に体力が落ちたときを考えると、背の高さもいい話ばかりじゃないらしい。そういうものなのだろうか。
「来る、と思いますよ。最初はつまらなそうにしているので、単なる冷やかしかと思いましたが、わざわざ質問をしてくるくらいなんです。きっと来ますよ」
「そう、だよな……。ま、無投票も退屈だし、投票になったらなったで、大石にいい経験を積ませられる。悪くはないか。オレも、もう、選管五年目に入ったから、いつ異動してもおかしくない。引き継げるものは、どんどん引き継いでいきたいし、な」
「えーっ、先輩に抜けられると、事務局は回らなくなりますよ。このまま十年戦士を目指しませんか?」
小笠原が事務局の主力となっているのは、間違いなかった。今だ小笠原の半分以下程度の貢献しかできない大石は、小笠原が抜けた後の事務局を想像すると、情けない話だが、頭を悩ませてしまう。
小笠原は苦笑し、「ハハ、勘弁してくれ。もう選管はお腹いっぱいだよ」と顔の前で手を振った。
小笠原は椅子を引き、大石の隣に座ると、受付表の整理をし始めた。手伝ってもらえるようだ。
大石は、礼を言いつつ、休めていた手を動かし始め、残った受付表の整理を続けた。誰が立候補予定者説明会に来たのか、一覧にしてマスコミに流す必要があるためだ。
選挙管理委員会事務局は、普段は市役所の向かいにある分庁舎一階の小部屋を与えられているが、選挙直前は大量の資料、投開票用物品、啓発資材などを置く必要があるため、本庁舎三階の会議室を借り切って執務室としていた。昨日の立候補予定者説明会の会場となった会議室の向かいに当たる、収容人数五十名程度の一室である。
分庁舎から移動をして間もないため、会議室には荷物もほとんどなく、伽藍堂としていた。まぁ、あと一月も経てば、今の状況を思い出すのが難しいくらい荷物で溢れてくるが。
選挙時は来客も多くなるため、事務局の入口の扉は常時開け放っていた。入口脇にはのぼり旗を立て掛けており、『投票に行こう! 四月二十四日は古島市議会議員選挙!』と白地に青の文字で大きく印刷されていた。
壁には、毎年行われている、小中高生を対象とした『明るい選挙啓発ポスター・コンクール』で選ばれた作品を基に作成した啓発ポスターを貼り付けており、また、のぼり旗のすぐ脇の壁に立て掛けるように置かれた、高さ一メートルばかりの空気を入れるタイプのビニール製起き上がりこぼしには、投票箱をモチーフに作られた『めいすいくん』というキャラクターが大きく描かれ、存在を大いにアピールしていた。
投票日直前には、事務局職員が『めいすいくん』の着ぐるみに入り、啓発物資を配布するらしいが、選挙は夏場に行われる場面が多いため、なかなかの難行苦行らしい。間違いなく、次に中に入るのは最年少の大石だろう……。
しばらく小笠原と二人で作業を続けていると、事務局の入口に人影を認めた。大石たちからはのぼり旗と『めいすいくん』に阻まれ、はっきりとは見えない。
大石は、首を少し伸ばしてみるものの、『めいすいくん』たちの見事なコンビネーションが織り成す厚い壁には、敵わなかった。にこやかに微笑む『めいすいくん』が、実に小憎らしい。
すると、人影に気付いたらしい児玉が席を立ち、入口へ歩いていった。
「選管へ御用ですか?」
声を掛けられた人影は、事務局内へ一歩、足を踏み入れた。厚い壁に阻まれて見えなかった人影が誰なのか、大石たちの視界にも入ってきたために、ようやく確認できる状況になった。
――櫛山……。
黒いニット帽を目深に被り、濃いサングラスを掛けた怪しげな男は、間違いなく昨日の説明会に来ていた櫛山、その人だった。
大石は、ざわざわと背筋がうずいてきた。湧き上がる悪寒に、顔を顰めてしまう。
百八十センチ程度と思われる長身――小笠原よりは僅かに低いが――に、黒のパーカー、黒のカーゴ・パンツ、黒のブーツと、全身を黒一色で固め、肩にこれまた黒一色のショルダー・バッグを引っ掛けた櫛山は、声を掛けてきた児玉へ体を向けた。
「昨日の説明会で質問をした櫛山だ。少し話をしたいが、構わないか?」
児玉は応じ、応接用にセットしているテーブルに、櫛山を案内した。
背筋を伸ばし歩く姿は、だらしなく背凭れに凭れ掛かっていた昨日の姿とは、また違う印象を大石に与えた。しかし、黒尽くめの異様な風貌から感じられる気味の悪さは、拭いきれなかった。
テーブルを挟み、向かい合って児玉と櫛山は腰を下ろすと、すぐに天野も自席を立ち、児玉の隣へと着席した。櫛山は、肩に掛けていたショルダー・バッグを外すと、左脇の床に置いた。
大石は、手元の書類の整理をしつつも、じっと聞き耳を立てた。小笠原も同様にしている。いったい、何を聞きたいのだろうか。
「二ヶ月前に古島へ越してきたばかりで、まだ島の地理がよくわからない。早めの準備をしたいが、ポスター掲示場の設置箇所図は貰えないのか?」
「先日の説明会でお話したとおり、設置箇所図については、来月に行う事前審査の終了時にお渡しします。設置箇所図の取り扱いは全候補者共通ですので、櫛山さんにだけ特別に差し上げるわけにはいきません。どちらにしても、設置箇所図は、まだ印刷所から刷り上ってきていないので、差し上げられませんよ」
児玉は、きっぱりと申出を断った。
大石は、児玉からいつも言われている注意を思い出した。選管はあくまで中立な立場を貫かねばならない、特定の候補者だけに便宜を供与しないよう、特に注意を払え、と。また、肝心の設置箇所図はまだ印刷所から出来上がってきていないので、児玉も言っていたが、どちらにしても渡せない。
立候補予定者説明会の半月ほど前だっただろうか。なぜもっと早い段階で印刷発注を懸けないのかと、大石は疑問に思い、小笠原に尋ねた。
小笠原は笑いながら大石を小突くと、公職選挙法令集を取り出してきて、該当の条文を指し示した。
公職選挙法施行令第百十一条によると、どうやら投票区――投票所ごとに設定した区画で、古島市では四つ設けている――の面積と有権者数に応じて、必要なポスター掲示場の数が変わるらしい。
有権者数は、直近の直近の定時登録――三、六、九、十二月の年四回、条件を満たした有権者を、その市町村の選挙人名簿に登録する――での数字を使用するという。つまり、今回の古島市議選では、平成二十二年の十二月定時登録の数字だ。
十二月に数の確定をし、選定したポスター掲示場の現況の最終確認をした上で、地形図に落とし込み、業者と数度の校正をやり取りして印刷という手順を踏むため、どうしても二月頭の説明会には間に合わないという、ポスター掲示場を担当している小笠原の話だった。
最後に、小笠原に「次からはお前に任せるから、覚悟しておけよ」と脅された。私有地を借りている場所などは、開発等でたびたび使用不可能になり、代替地を探すのに苦労するそうだ。――正直、気が重い。
「チッ、地図の印刷ぐらい、さっさと終わらせておけよ」
舌打ちした櫛山に、天野がビクッと体を震わせた。
――まずい……。
大石は背中にべっとりと嫌な汗が滲み出るのを感じた。天野の表情を横目で窺うと、白い肌が見る間に赤く染まっていく様子が見て取れた。
――あーあ……、局長のヒステリック・スイッチが入っちゃったぞ、これは。
非常に沸点の低い天野は、些細な言動で市民や議員らと口論になる場面が、頻繁にあった。児玉はいざこざが起こるたびに尻拭いをしており、天野の感情の変化には非常に敏感になっていた。
「あのですね、地図の印刷ぐらいといいますけれど、場所の選定から――」
身を乗り出し、口角沫を飛ばそうとする天野を、児玉は慌てて片手で制した。
「櫛山さん、すみませんね。我々としても、もっと早く用意をして皆様にお配りしたいのは山々なんです。ただ、公職選挙法の絡みもありますし、また、最近は古島でも、あちこちで開発等があり、なかなか場所を確定できない事情もあるんです。その辺りを汲み取っていただければ、と」
天野の勢いにムッとした櫛山だったが、児玉の落ちついた口調での説明に頷いた。
「そうか。まぁ、地図は、ついでだったから、いいんだ」
児玉のフォローがうまくいったのか、櫛山も地図についてはもう突っかからず、また、天野も冷静さを取り戻したのか、何も言わなかった。
児玉は、不発弾を除去する爆発物処理班のような慎重さで、天野を扱っていた。心労も物凄いだろうに、嫌がる素振りを全く見せない児玉に大石は感謝していた。なにしろ、児玉がストッパーになってくれているおかげで、大石らに天野爆弾の直接被害が及ぶ事態は滅多に起きなかったのだから。
「ここからが、聞きたかった本題だ」
櫛山は一つ咳払いをした。
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