第2話 立候補予定者説明会
「わが古島市は、本土からの観光客の激減などにより市税収入が大幅に落ち込んだため、非常に財政が逼迫しており、今まさに破綻をするのではないかという危機的な状況に陥っております。皆さんは、この伊豆諸島に浮かぶ私たちの愛すべき故郷、美しい古島の将来を憂い、本気で考え、よりよい街づくりへと貢献をされることを望み、本日、平成二十三年四月二十四日執行、古島市議会議員選挙立候補予定者説明会にご参加くださっていることと存じます。さて――」
午後二時から始まった立候補予定者説明会。長谷川委員長の開会の挨拶が続いていた。
定数十二名のところに十三陣営が来場するという、誰も予想だにしていなかった状況に、各立候補予定者とも、投票の可能性を悟り、いつになく真剣な面持ちで聞き入っていた。各陣営いずれも、本格的な選挙運動の経験はない。気を入れるのも、当然だろう。
大石は視線を櫛山に向けて、様子をそっと窺った。黒のサングラスをしているために、表情は読みきれない。
輪郭は大きいが、低そうな赤鼻、威圧感を覚える高い頬骨、頬の豊麗線やたるみ具合、肌の艶からは、四十歳そこそこのように感じた。
櫛山は、椅子に浅く腰を下ろし背凭れにだらしなく凭れかかりながら、腕を組み、つまらなそうに人差し指で二の腕をしきりに叩いていた。
他の参加者がスーツ、もしくはカジュアル・ウェアでも、それなりに小奇麗な格好をしてきているために、櫛山のだらしなく着崩したダボダボのシャツにクラッシュ加工されたくたびれたジーンズという出立ちは、ひときわ異彩を放っていた。
第一印象のときに感じた気味の悪さ、嫌な感覚が再び大石の胸に蘇ってくる。
――正直、あまり係わり合いになりたくないな。
嘘偽りのない心境であった。
櫛山のやる気の感じられない素振りと出立ちから、単なる冷やかしではないかと思い、大石は胸に込み上げてくる気味の悪さを追い払おうとした。とても本気で市議会議員になりたいと思っているようには見えない、と。
委員長の挨拶の後、古島警察署の交通係による選挙運動用自動車の説明と、郵便事業株式会社古島支店による選挙運動用の通常葉書の説明がなされた。
いよいよ、次は大石が担当する立候補届出手続きの番だ。新卒として選挙管理委員会に配属以来、初めての選挙、初めての候補者を相手とした説明会、初めての説明者役。高鳴る動悸に合わせるように、強く握った手のひらにジワリと汗が滲んできた。
いよいよ本番だ。デビュー戦に恥じない戦いを見せつける、今まさに入庁一年の総決算を見せるときだ、と体を震わせた。
妙なところで追い込み、力みすぎるのは大石の悪い癖だが、幼い頃からの性格であり、どうしようもない。冷静になれなんて、全く無理な相談だ。
「あまり硬くなるな。気負いすぎても、いい結果にはならないぞ。十分に練習はしたんだ、自信を持っていけ」
がちがちになる大石を見かねたのか、横に座る小笠原が囁いてきた。大石は小笠原に軽く肩を叩かれると、激しく鼓動していた心臓の動きが少し収まってくるのを感じた。
危うくネガティブな自己暗示で、身動きが取れなくなるところだった。絶妙なタイミングでの小笠原のフォローに感謝をし、
――よし、やるぞ。
強く一息吐くと、心を落ち着かせ、大石は席を立ち、演台へと向かった。
演台に立ち、ぐるりと全体を見渡す。全員が大石に注目していた。いや、全員ではないか……。
櫛山だけは、窓の外に視線を向けていた。
大石は軽く咳払いをすると、握り締めているマイクのスイッチを入れた。
「皆様、お手元にご配布の『立候補届出の手引き』三ページをお開きください」
静まり返った会場に、部屋の四つ角それぞれに設置されたスピーカーから、大石の声が響き渡った。
だが、大石は緊張のあまり、スピーカーから流れる自分の声は、ほとんど耳には入らなかった。びしょびしょの汗で滑りがちのマイクに戸惑いながらも、説明を続けた。
「まず、立候補をするための資格、被選挙権について、説明をいたします。被選挙権は、公職選挙法第十条第五項の規定で『市町村の議会の議員については、その選挙権を有する者で年齢満二十五年以上の者』と定められております。また、市議会議員の選挙権を有する者とは、公職選挙法第九条第二項により『日本国民たる年齢満二十年以上の者で、引き続き三ヶ月以上、市町村の区域内に住所を有する者』とされております。以上の理由から、今、市議会議員選挙につきましては、昭和六十一年四月二十五日以前に出生した日本国籍を有する者で、選挙期日現在、古島市に引き続き三ヶ月以上居住している者が立候補可能となります。続いて、四ページをお開きください――」
ところどころ突っかえながらも、事前に用意した台本どおり、漏れのないように説明をしていった。マイクを持つ手が震え、喉も渇いてきた。早鐘を打つ心臓に、息苦しささえ感じた。
最後には声がかすれてくるも、何とか大石は自分の受け持ち範囲を説明し終えた。
マイクのスイッチを切り、演台に置くと、背中を一気に汗が流れ落ちていく。
肌に張り付いたシャツに若干の不快感を覚えるも、一仕事を終えた解放感から、大石は一つ息を吐いた。果たして、デビュー戦は勝利で飾れたのだろうか。
一礼をして演台を離れて自席へ着席すると、隣席の小笠原が小声で労ってくれた。
「お疲れ、上出来上出来。初めてで、今ぐらい滑らかに喋れれば、上等だ。オレの初めての説明会のときなんか――」
小笠原の目には、大石の勝利と映ったらしい。ほっと安堵する。
小笠原は天井を見上げ、目をうっすらと細めると、どうやら過去の自分の姿を頭に思い浮かべているようだった。
何事にも動じない頼れる兄貴といった感じの小笠原でも、初めてではやはり緊張するものなのか。なんだか急に親近感が湧いてきた。
大石が頬を緩めていると、「なんだ、気持ちが悪いな」と小笠原は苦笑した。
小笠原とのやり取りの間に、児玉による公費負担の経費請求、収支報告書の説明が終わり、今は天野が今後の日程についての説明をしていた。
最後に、質疑応答の時間となった。
「質疑はありませんか?」
天野が確認するも、特に挙手をする者はいなかった。
「それでは――」
「ちょっといいか?」
質問を打ち切ろうとする天野を遮るように、低くくぐもった男の声が響いた。櫛山だった。他の立候補予定者たちも振り向き、櫛山の姿を見やった。
「あ、はい。どうぞ」
天野が促すと、櫛山は、小笠原が持ってきたマイクを受け取り、立ち上がった。
「今この場で質問というわけではないが、明日以降、事務局へ個別に相談に行きたい。構わないか?」
冷たく、不機嫌そうな調子で、櫛山は質問をぶつけてきた。
追い払ったはずの気味の悪さが、再び頭を擡げてくる。おそらく島外の人間と思われる櫛山。湧き上がる不快感、違和感は、島の人間ではないがために込み上げてくる感情なのだろうか。それとも……。
「ええ、構いません」
天野は頷くと、櫛山は満足したのか、小笠原へマイクを返し、着席した。
他に質問がないかと天野は確認するが、結局櫛山の一件以外は出なかったため、立候補予定者説明会は閉会となった。
大石は控え室にある倉庫へしまうため、椅子を持ち上げた。立候補予定者たちが全員、会場を去り、大石と小笠原の二人は机や椅子の撤去を始めていた。
――あのニット帽の男、冷やかしじゃなかったのか……。
大石は片付けながら、ぼんやりと頭に浮かべた。
やる気のなさそうな様子を見せていた櫛山だが、質疑の様子だと、どうやらただの冷やかしというわけではなさそうだった。
換気のために開けた窓から、ひやりとした風が吹き込んで頬を撫で、同時に大石は、また背筋にぞくぞくとした寒気を感じた。
「おい、大石。あのニット帽の男――櫛山って言ったっけな。お前、どう思う?」
開け放っていた窓を閉める大石に、背後から小笠原が声を掛けてきた。窓を締め切り、振り返ると、大石は机を畳んでいる小笠原に視線を送った。
「気味が悪い、ですね。正直な感想としては」
小笠原は頷くと、「お前も、感じたか……」と呟いた。
大石は、異様とも思える櫛山の姿を、一瞬脳裏に浮かべてしまい、慌てて頭を振り消し去った。
「小汚い服装に、黒いサングラスですからね。確かに、人を見た目で判断してはいけないとは思います。でも、選挙という、社会的にも重要なイベントにかかわる説明会ですよ。TPOもわきまえない、見苦しい服装は、ちょっと……」
「服装だけじゃない、あの喋り方だ。冷たく、見下したような調子で、オレはまるで喧嘩を売っているのかと思った」
口調については大石も感じた。感情のこもっていない無愛想な声。まるで機械を思わせる声が、余計に櫛山の気味の悪さを強調しているように思われた。
「ま、係長の言葉じゃないけどさ、なるようにしかならないんだ。ドンと受けて立とうぜ」
小笠原はニッと微笑を浮かべながら、胸を叩いた。
大石も大きく頷き返した。そうだ、来るなら来い。新人で、怖いもの知らずの大石様が、受けて立つぞ。大石はギュッと手を強く握り締めた。
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