一般小説が小説投稿サイトで成功しにくく、なろう系がWEB小説の主流になってしまった理由は『一般小説の現代アート化』
WEB小説が生まれてからもう20年ぐらい経つ。
ケータイ小説も入れるともっとだろうか。
そのWEB小説と呼ばれているジャンルも初期のケータイ小説ブームの頃は恋愛系やら文学的な作品もあったと思うし、その頃に書籍化されて社会現象になった作品は恋愛小説だったと思うが、それから10年20年と時が経って今になってみると多くの人が『WEB小説』という単語を聞いて思い浮かべるのは『なろう系』、もっと広く言うと異世界ファンタジー系が中心になってしまっているはずだ。
どうしてそうなってしまったのか。
結論から先に言うと、
『WEB小説は娯楽小説だが、一般小説は現代アートになってきてるから』
だと思うのだ。
適切な単語が思いつかないので『一般小説』という言い方をしたが、もう少し具体的に言うなら商業小説とでも言うか……WEBを経ずに出版された小説と言ってもいいかもしれないが、とにかく現時点では大部分の小説は芸術というカテゴリに方足を踏み入れてきていると思うわけ。
◆◆◆
以前、某有名芸術家が『現代におけるアーティストの定義は芸術系の大学を卒業する事が最低条件』と言った、という話を聞いた。
賛否ありそうな主張であるけど現代アートについて掘り下げて考えていくと納得がいく部分が多い。
大昔の芸術作品とは写実主義(現実をそのまま写し取る)的な作品が主流で、つまり写真のように見たままをいかに人の手で再現するかが基本だった。
当時はカメラもなかったので正確に人物や風景を切り取ることは出来なかったわけで、だからこそ物事を正確に描くスキルが必要とされ、それが芸術となったのだけど。
しかし当然のごとくカメラの登場によってそういった作品の需要はなくなっていく。
なので芸術家はカメラには出来ない表現を目指して芸術を別のモノに昇華させる必要が出来てきた。
その結果、現実より美しく描くとか、見たままの現実とはまったく違うモノを描くような表現が評価されるようになり印象派とかピカソとかゴッホとかみたいな作風が評価されるようになっていくと。
で、現代アートにとって1つの転機となったのはデュシャンの『泉』という作品で、これはデュシャンが工務店でただ買ってきただけの男性用小便器にサインを入れて芸術品として展覧会に送ったもので、ただの小便器でしかないのでこの時はアートとはみなされず展示されなかった。
(デュシャンの証言によると展示されなかったのではなく衝立の裏に隠されて見えなくされていた? とかなんとか)
が、これで芸術の概念が崩れたと。
もう少し説明すると、この時に作品が送られたのはニューヨーク・アンデパンダン展で、この展覧会は本来は無審査で誰でも参加費を払えば何でも作品を展示出来る場であり。その場に本人が『アート』だと考えたモノを送ったならそれがどんなモノでも誰が作ったモノでも展示するのがルールであるのに、それがただの便器だからという理由で展示されないのはおかしいと。誰でも何でもアートとして発表していい場なのに実際は誰かがアートの枠組み定義を決めていた、という事情を白日の下にさらした。だから既存のアートの枠組みを壊した。それそのものがアートであると。
そんな感じと愚考するが。
とにかくこれ以降、美術界ではいかに既存の概念を打ち破って新しいモノを作るかという要素が重要視されるようになっていき、それこそが現代アートとなっていく。
でも問題なのが『便器にサイン入れるだけなら誰でも出来るじゃん』という部分なわけ。
工務店で便器買ってきて名前書くだけなんだから誰にでも出来るのは当然。
そんな誰にでも作れる作品がどうしてアートになるのか?
……結局のところ、それを分けるのが『権威』ではないか、と考える。
『泉』という作品は後年になってデュシャンが自ら作成したと明かしたが発表時は『R. Mutt』という偽名であったと。
これ、R. Muttという謎の人物が送ってきたモノだったから展示されなかったけどデュシャンが本名で送ってたら(当時から有名なアーティストだったので)展示されていたのではないか。
しかしデュシャンの名で展示されたとしてもインパクトは弱くて問題提起にはなりにくい。
この泉という作品は展示されずに『展示されなかったことを批判されてこそ価値があった』のではないか。と思うわけ。
だからニューヨーク・アンデパンダン展の実行委員長だったデュシャンが偽名で小便器を送りつけ、それが展示されなかったことを自ら告発して騒動化したことに意味があったと。
数年前にバレンシアガがボロボロのスニーカーを22万円で発売したが。ハイブラ企業があえてボロボロのスニーカーを高額で販売するから芸術的なのであって、それを買って着用する側も『そんなボロボロのスニーカーを着用するような人ではない』と多くの人が当たり前に知っているような有名人があえて着用するから成立するわけだ。
普通のアパレル企業がボロボロのスニーカーを販売しても普通にボロボロのスニーカーとしか思われないし、一般人がそんなボロボロの高級スニーカーを着用してもただボロボロのスニーカーをはいている人としか見られない。
つまり現代アートに関しても、芸術に関する造詣が深い一流のアーティストが『あえて』誰にでも出来るようなことをしたり、レベルの低いことをするからアートになると。
誰がやってもアートになるわけじゃない。
『あえて』が重要なのだろう。
そしてその『あえてやっている』と思わせるためには分かりやすい『権威』が必要になってくる。
ではその権威を得るためにはどうすればいいのか?
それを考えていくと『芸術系の大学を卒業するぐらい最低限必要』ってのも理解出来てくる気がする。
アーティストには別に資格なんてないのだから、自分がアーティストだと証明出来そうな客観的な最低限の証拠・根拠がそれぐらいしか恐らくないわけだ。
昔の画家の場合は人や風景をそのまま正確に写し取る能力が必要で、それは描いた絵を見れば誰にでも作家のレベルをある程度は判別出来たので証拠などいらなかったかもしれないが、今の現代アートではそんな写実的な作品をあまり作らないから美大卒という最低限の権威の証拠が必要になるのではないかと想像する。
(個人の想像です)
権威のあるアーティストが『あえて』おかしなことをするから芸術になるわけ。
なのでその権威をどこから持ってくるかと言うと、現代美術家の場合はそれを客観的に証明するモノがないからそれの最低限の基準として『芸術系の大学を卒業』という部分になってしまうのではないだろうか。
権威の証明として学位が必要になるのではないか。
そしてその上にコンテストの受賞履歴とかメディア露出で権威を補強していくことになるのではないか。
◆◆◆
というところで最初の小説の話に戻るが。
元々、小説というモノは娯楽だったと思うんですよね。
純文学とかにしても最初はそう。
それがいつしか権威を得て『芸術』になっていった。
これは純文学だけでなく大衆文学と呼ばれている大ジャンルでも今はそうなってきている。
所謂『なろう系』と呼ばれる系統とかその周辺、WEB周辺以外は大体は芸術に足を踏み入れてきていると思う。
なので、今の一般小説って単純に小説として面白いから良いとか、多くの人に読まれたから良いとか、実はそういったところから評価点が地味にズレてきていて潜在的に『アートとして良いかどうか』というところが大前提としてかなり大きな要素になってきているんじゃないかと思うんですよね。
勿論、それは意図してそうなっているわけではなく、人々の間で無意識下で自然とそうなっているのだろう、という話。
では小説の場合、どうやって作品の芸術性を判断されるのか。
恐らくだがその第一歩が『出版社に認められて出版した』というところなんだと感じる。
これは現代美術家における『芸術系の大学を卒業』の部分に当たるはずだ。
これが最低限の基準になっている気がする。
つまり現代美術家が芸術系の大学を卒業して得る『最低限の権威』を小説家は出版社からの出版によって得るのではないかと。
そこがまず最低限のラインであって、そこが『芸術家として小説家』のスタートラインになっているのではないか。
そして次に重要になってくるのが大賞の受賞。
小説で言えば直木賞や芥川賞などの有名な賞を受賞することで作家が大きな権威を得る。
それらの大きな権威があるから小説に芸術作品としての側面が大きくなっている。
これは現代アートに関しても同じではないだろうか、と想像する。
少しおかしな話に聞こえるかもしれないが、例えばスーパーマーケットにバナナが並んでいても誰も気にしないが、美術館の壁にバナナがダクトテープで貼り付けられていたら『その作品』の意図や意味について多くの人々が議論するわけ。
実際、そうやって美術館の壁に貼り付けられただけの市販のバナナが約10億円で落札された例もある。
つまりその作品に関する様々な背景や権威の方が重要であり、作品そのものには実は意味はないと。
上記のバナナの例から言うとバナナそのものには意味も価値もないけど、それを作ったアーティストの名前と意図とそれを展示した美術館の権威によってアートとして成立していると。
これを小説で考えると――流石にバナナと小説では色々と違う部分があって単純に比較は難しいが――小説の内容そのものより、実はそれを『誰が書いたか』と『誰が評価しているか』と『どういう意図で書いたか』が重要になっているのではなかろうか? と考える。
◆◆◆
と、ここまで書いていけば結論はもう見えたようなモノだろうが。
上記のように紙の一般小説はほぼアート化されてきている……と、考えている。
しかしWEB小説は現時点ではほぼ完全に娯楽小説であって、小説投稿サイトは完全に娯楽の場で、単純に面白いから読者が見に来て、それぞれ思い思いに評価しているだけであると。
今はまだWEB小説はアートとしては認識されていないように思う。
そういった権威がまだ小説投稿サイトにはないのだ。
しかし一般小説――定義が難しいが商業出版前提で最初から作られているほとんどの小説に関しては、評価軸の根本の大前提の部分に芸術性という要素が(恐らく多くの人が意識しないまま)ひっそりと存在しているのだと思う。
最近ではラノベですらその傾向があるのではないかと感じる。
つまり単純に面白いから見るというだけでなく『◯◯文学賞を受賞した作品だから』とか『◯◯賞を受賞した作家の作品だから』とか『ドラマ化した作品だから』『◯◯出版が出版した』『◯◯が評価してた作品だから』みたいな権威のプレミアムが乗っかっている状態だと思うのだ。
これを今読んでいるあなたも多少なりとも小説に興味をもっている人だと思うけど『◯◯賞受賞!』みたいなのが出ると、それまでまったくその作品に興味がなかったのに「読んでみるか」ってなってませんか?
恐らくそれが権威のプレミアムだと思うわけですよ。
で、恐らくだけど、この10年とか20年とかで小説の販売数が下がっていってる理由もこれなんじゃないかと思うと。
つまり小説がどんどん芸術化してきたので上記の『権威のプレミアム』があまり乗っかってないものが評価されなくなってるんじゃないか、という予想がある。
娯楽なら個人が面白いと思ったモノが売れるが、アートは権威のプレミアムがないと価値が認められなくなっていく。
出版点数が増えすぎて読者が全てを買えなくなってる(そして出版数の増加で出版社から出版する権威も薄められて下がっている)ってのも相まって、ちゃんとした大きな権威があると証明されたモノしか買わなくなっているのではないだろうか。
業界の権威化の恐ろしく、そして困ったところは、権威を得ていないモノの評価が著しく落とされる点であり。
つまり自分が面白いと思ったモノが権威から否定されると『自分が見る目ない』という残念な結果になってしまうわけで、最終的に『だったらすでに権威を得たモノしか見ない』ということに落ち着いてしまう。
これが娯楽であるなら自分が好きなモノは好きでいいし、他人が好きなモノはそれはそれでしかない、という話で終わるはず。
とにかく、現代アートで言えば路上の落書きがバンクシー作なのか酔っ払いのおふざけなのかで価値が変わるように、芸術作品化している現代の小説に関しても権威があることで価値が変わっているのではないか。
……と思うと。
そしてそうなってきた理由にはWEBの存在も大きいのではないか、と考える。
例えば、絵画の世界では写真の登場によって誰でも写真を撮れるので写実的な表現が一般化してしまい、画家は見えた形それ以上のモノを描くしかなくなってきた結果、素人には絵の上手さが判別しにくくなってきてアートに権威が必要になってきたと考えるが。
小説においても携帯小説を含めたWEB小説(WEBライティングとかも含め)によって小説(文章)の発表が一般化、大衆化した結果、単純に『小説を書いて発表する』という行為そのものには価値がなくなったのだと思う。
なので小説(恐らく書籍全般でも)においても、その作品に権威があるかがより重要視されるようになっているのではないか。
これはブログとかSNSもそうだけど、もうWEBで誰もが文章を発表出来るようになってしまった今は『文章を発表する』という行為そのものには大きな価値がなくなった(昔は文章の発表には出版社を通すしかなかった)から『誰が』『どういった意図で』『誰に評価された』などの権威がなければ価値がなくなってきていると考える。
だからもっと言えば新聞とか雑誌とかの価値も薄まったのだとも言えるはず。
ちなみに最近見た記事で面白かったのが、スマホとInstagramの普及によりアートとしての写真の価格がどんどん下落しているという内容だった。
つまりキレイな写真を撮って公開するというのはプロのカメラマンの領域だったのにスマホで誰でも持ち歩ける高性能カメラが大衆化し、Instagramにより誰でも写真を公開出来るようになったために写真が大衆化してアーティストが撮った写真の価値が失われていっているということだろう。
これも似た話だと思う。
◆◆◆
で、問題なのが、今の小説投稿サイトには『小説投稿サイト単体では』権威を得られるようなシステムがほぼ存在していないのだろうと思うわけ。
『小説投稿サイトで◯◯ポイント獲得』『小説投稿サイトで◯位』みたいなモノとか、小説投稿サイトで行われている大賞も有名文学賞なんかと比較すると知名度も注目度も圧倒的に低くて現時点では権威を作り上げられていない。
そもそも『素人』が『小説投稿サイトにただ投稿しただけ』では、当然ながらその時点では権威性がゼロなわけだ。
一般小説が単純な面白さだけではなく芸術性が大前提として評価点化されるようになっているのだと仮定すると、どれだけ素晴らしい小説を小説投稿サイトに投稿したとしてもその場にも作者にも権威性がないから多くの人はその作品を評価しないのではないか。
もう少し具体的に話していくけど。
例えばミステリー作品だとしたら、その作品の評価って最後のオチまで見ないと出来ないじゃないですか?
ミステリーの重要部分って最後をどう上手く落とすかなんだから。
最後まで読んで、やっと『面白かった!』or『しょうもな』の択を選ぶのがミステリー。
途中までではその作品の評価は完全にはしきれない。
僕が思うに、だからこそ作者への信頼が必要になると思うんですよね。
それを書いている作者が『面白い作品を書く作者である』という信頼があるからとりあえず最後まで作品を読もうという原動力になる。
WEBではそれがないからミステリーは最後まで読むためのコストが高すぎて読まれにくい。
そこを読ませるには『これは読む価値があるんだ』という信頼が必要で、それがなにかしらの権威が必要であると。
これをWEB小説全体で考えてみてほしいんですけど、誰でも作品を投稿出来る小説投稿サイトでは、はっきり言えば大部分の作品は商業レベルの面白さなんてない作品であるわけで、その中からマトモな作品を自力で探し出せるモノなんですか? という話なんです。
これがファンタジーとか娯楽小説なら序盤部分だけでもある程度の面白さを判断可能だから判別出来るけど、オチまで見ないと判別しにくいミステリーというジャンルでは難しいわけ。
だからミステリーはWEBには向いていないのではないかと感じる。
同じように純文学に関しても恐らく序盤だけではガツンと来る面白さを作りにくい。
ある程度の作者への信頼がないと読み続けられないジャンルなのではないか。
ファンタジー、恋愛、SFなんかは比較的序盤で世界観を提示しやすいからWEB小説に向いている気がする。
(個人の意見です)
で、どんな作者も最初は一般人なわけで、誰かに読んでもらって信頼されていかないとだめだが、その『信頼』は出版社に作ってもらうぐらいしか現状はないように感じると。
そしてその信頼が権威になる。
他にもインフルエンサーに紹介されたりWEBメディアに紹介されたりとか、色々あるっちゃあるが、それはただの拡散であって権威にはなれてないのだ。
カクヨムでは少し前にカクヨム編集部が作品をピックアップして紹介するコーナーを作っていたが、あれも1つの権威の授与方法なのではと思ってる。
それを意図してやっているのかは分からないが。
でも、やっぱりこれではまだWEB小説の場では権威は与えられていない。
恐らくイメージ的に『カクヨム編集部』と『小説編集部』では印象的にまだ差が大きい気がするわけ。
少し失礼かもしれないが、カクヨム編集部と聞くとやっぱり単純にWEBメディアの運営グループ的な印象が強いわけ。それこそWEBサイトの運営開発者のような印象がまだ強く『小説編集者』というイメージより権威性が低い気がする。
なので文学やミステリーや大衆文学とか、まぁそういった感じの小難しそうなジャンルの小説に関しては芸術としての評価を得るための権威が必要なのにWEBの世界ではそれを与えられてないから評価されにくいのだと考える。
それにプラスして少し別視点から言うと。
やっぱりアートは物理的な物が必要なのでは? という疑いも現時点ではあったりするわけ。
現時点では『WEB上に存在する文章』をアートとして認識する感性が人類にはまだない気がする。
つまり小説なら紙という物理的な存在になっていないとアートとして認識されてない感がするわけ。
これは完全に僕個人の感覚の話だけど。
カクヨムとかnote等で書かれたWEB上の『本』と物理的な書籍として出された『本』とでは影響力が違う感じがある……みたいな。
例えば「WEBで本を書いてます」と「出版社から本で出してます」では受ける印象が違うようなものがある気がしてる。
◆◆◆
話をまとめると……。
まぁとにかく、今のWEBには権威が足りてないわけ。
だからアート化されていない。良くも悪くも。
既存の一般小説の文学賞を分解して考えてみると。あれって有名作家が審査員として入っていて、その人らが審査して発表して『この小説は読む価値あります』というお墨付きをくれるわけで、それが権威になっているわけ。
「◯◯先生が押すなら読んでみよう」的な感じで。
漫画に関しても雑誌の新人賞とかにはその雑誌出身漫画家が審査に関わっていて評価を書いていて、それが権威になっている気がするのだけど。
そういうのが小説投稿サイトではない。
(まぁWEB小説の場合、読者に近いせいか普通の作家より格下に思われているような感じがプンプンして、それをやると『てめぇが偉そうに評価すんなや』とか言われそうな雰囲気があるし、それがアート化していかない1つの理由な気もするが)
しかし、ここまで書いてきて、ここに来て全てをひっくり返すような話をするけど。このアート化をWEB小説業界が目指すべきなのかは1つ議論が必要な項目だと思われる。
権威化、アート化が本当に正しいのか? というのは疑問には思う。
単純に個人が面白いから読むだけの娯楽としての作品という道の方が正しいような気もするわけ。
だからどれが正解か、という話は現時点では難しい。
ただ、これまで多くの小説投稿サイトがやろうとしてあまり成功していない『なろう系からの脱却』を成し遂げるには、恐らく現状では『小説投稿サイトの権威化』とか権威の醸成が必要なのだと考えている。
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