8.サラリーマンは血塗られた現実を見る

 ありがとうございました、と威勢のいい居酒屋の見送りを背に受け、暖簾をくぐって東京の寒空の下に出る。

 冷えた頭に、冷や汗が浮かぶ。


 もし俺の考えが合っているなら。

 今日の夢が遠回しな正夢だとすれば。

 ……この帰り道で、西澤は殺される。


「2軒目行こーう!」

「……今日はもう帰った方がええやろ」


 言って聞いてくれるかはともかく、俺はとにかく流れを変えようとしてみる。

 しかし殺されるかもしれないとも知らずに呑気な西澤は、俺の提案に口を尖らせてぶーたれた。


「えぇー? まだまだいけるってー」

「俺が無理やねんって。お前今日、出張初日やろ?」

「そんなん関係なくない? お酒なんて飲みたい時飲みたいだけ飲むもんやん?」

「全日本人がお前と同じ代謝持ってると思うなよ」

「うるっさいなぁー。ほな久住くんだけ帰ったら? 私は一人で満足するまで飲んでから帰るから」

「待て待て待て待て」


 すたすた歩いていこうとする西澤を必死に引き止める。

 それじゃあ意味がない。単に俺が西澤の死に立ち会わなくなるというだけで、状況が何も変わらないじゃないか。


「もう何なん!? ついて来んねんやったら引き止めんといてや!」

「明日の仕事に支障が出るとか、そういう話じゃなくて。いや、それもあるけど……お前が思ってるより夜の東京は危ないんやって」

「……別に、取って食われるわけちゃうねんから」

「いや食われるで。取って食われるで。ていうか俺食われたことあるで」

「あんの!?」


 ……咄嗟にとはいえ、普通の日常を過ごしていれば確実に吐くことのないレベルの嘘を吐いてしまった。しかも、自分の社会的地位が数ランク下がりそうな種類の。

 とにかく、何とかして西澤に直帰させ、今日これ以上の外出を控えてもらうしかない。不謹慎ではあるが、西澤がこの先の裏通りに面した路地へ歩いて行かなければ、通り魔は別の誰かを狙って殺すだろう。さすがに通り魔も、複数人連続で刺し殺したりはしないだろうし。

 俺としては、自分の周りの人間さえ被害を受けなければそれでいい。


「……なんかめっちゃ汗かいてるけど。嘘吐いてない?」

「えーと……取られたっていうのは本当で、食われたっていうのは半分嘘」

「いやどういう状態やねんそれ」


 まずい。このアル中女、今にも次の店に向かって走り出しそうだ。

 道を行く人は心なしか、俺たちのことを、面倒臭い喧嘩してる恥知らずなカップルだと思って見ているような気がするし……。

 言うか? いっそもう、夢でお前が指されるところを見たんだとか、電波なこと言っちゃうか?


「まぁ、本気で心配してくれてるのはありがたいけど……。でも、私もちゃんとした社会人やし、ちゃんとするから」

「……ああ、その……」

「ほな、また明日!」


 どう引き留めたものかとまごついている隙に、西澤は手を振り振り、『殺人ポイント』の方向へと走って行ってしまう。

 まずい。

 もつれそうになる足をなんとか回し、追いかける。いい大人が、東京のほぼど真ん中で、運動神経の悪さを露呈している。


「待てって! 西澤!」


 いい大人が、落ち着いた雰囲気の夜をぶち壊しにする音声で、恋人でもない女性を引き留めるために迷惑なほど叫んでいる。

 笑い話になればいい。

 何事もなく終われ。今日の絵日記を描くとしたら、刃物と血だまりなんて1ミリも登場しない、ただダサい男とサバサバした女が酒を食らうだけの死ぬほどつまらないものになる。そんなまんま、日付が変わってしまえ。

 ドン引きされてもいい、おかしな奴だと嫌われてもいい。最悪、ストーカー容疑で俺がタイホされたっていい。


 だって西澤、お前は……。


「えっ?」


 俺の声に驚いてこっちを振り返った西澤の背後に、街灯に照らされた不審な影が、吐きそうなほど気味悪く揺らめく。

 夢の光景がフラッシュバックし、目の前が赤く染まる。

 全身が熱くなる。肉が、骨が、皮膚が、体全体がちょっとずつ燃えて、普段絶対に出せない力を引き出すためのエネルギーに変わる。


 踏み込んだ足。


 跳躍する下半身。

 推進力のままに前に出る上半身。

 派手な動きに、ネクタイがスーツから飛び出して、俺の額に張り付く。


 ……ネクタイで隠れなかった右目で、今、ハッキリと見た。

 西澤を狙って、汚いポロシャツ、目深に野球帽を被った男が、ナイフを突き出しているのが。


 伸ばした手。

 掴んだ襟。

 ……西澤は刺させない。

 通り魔。お前のナイフが刺さるのは。


「俺だあああああああぁぁッ!!」


 襟を掴んだ拳を引き、西澤の体ごと手前へ引き戻す。


 そのままの勢いで前に飛び出た瞬間。驚きに目を見開いた通り魔の男――40か50くらいの、少し皺のある、特徴のない顔だ――の、素顔を見た。

 のと、同時に。



いったぁぁああぁぁぁあああぁぁぁああぁぁあああああづいぃぃぃいいいいいいいぃぃぃぃいいいいぁぁぁああああぁああああああ!!」



 痛みを感じるより先に、俺は叫んでいた。

 強烈な、ナニカの感覚。それが痛覚だということすら知覚できないまま、脳みその上をタイヤにトゲがびっしりついたミニ四駆で爆走されているような、暴力的な感覚の渦に飲まれる。


「い……いやぁぁああああぁあ!!」


 目の前が白黒だ。モノクロ写真の世界が、俺が頭を抱えて首をぐるぐると振るせいで、目まぐるしく狂って回って滲んでぼやける。

 何が起こったのか。自分が数秒前まで何をしていたのか。それを思い出すまでに5秒かかって、さらに、今自分が地面の上に倒れているということを理解するのに8秒かかった。


 さらにそこから2秒遅れて、俺の体はようやく冷静に、ありのままの痛覚を受け入れた。


いだい! いだぁぁああぁいぃぃいいぃい!!」

「久住くん! しっかりして、生きて!」


 ……ようやく、視界が、色を取り戻す。

 男の舌打ちと、慌ただしい足音が離れて行く。通り魔が去ってくれたようだ。

 仰向けに倒れる俺の顔を、悲痛な表情の西澤が覗き込んでいる。


 どく、どく、と、自分の心臓の鼓動に合わせて出ていく血。体を起こすことはできないが、おそらく、自分のスーツの背中をべっちょりと濡らしながら広がっているのだろう血だまり。

 俺は、そう時間をかけずに……自分の死を悟った。

 街灯が、かすんで、揺れる。光は溶け合い、夜の町の景色は像を結ばず、輪郭を持たないまま混ざり合う。ちゃんと視認できるのはもはや、電話を手に何かを叫んでいる西澤の顔だけだ。


 ……お前はすごいよな、マール。

 こんなクソ痛いのに、声もあげなかったもんな。


「いま、救急車呼んだから! 耐えてや、絶対!」


 無理だよ。

 そう言おうとして、口が爆発した。血が噴き出て、胸を濡らす。


「久住……くん……」

「にしざ……、ありがとな……愚痴聞いて、くれて……」

「一生聞いたるから! だから……!」


 雨が降り始めた。

 脚から、舌から、鼻から、少しずつ感覚が薄れゆく中でも、血まみれの体をぽつりぽつりと濡らす雨の感触だけは、正確に伝わってくる。

 夢の中では、雨なんか降らなかった……。よかった、降ってきて……。


 目が、閉まっていく。

 最期の力を振り絞って、手を伸ばし、西澤の頬を撫ぜる。

 ……手の感覚が無いのが、少し寂しかった。


「……西澤……」

「なに!? 久住くん!」



「おれ……ゆうしゃ、に……なれた……かな……」



 返答を聞けないまま……俺の視界と、思考と、現実は。

 永遠に、閉ざされた。

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