6.サラリーマンは既視感のある現実を見る

 冷や汗の粒を天井まで飛ばす勢いで跳ね起きた。


 息は荒く、体中嫌な汗にまみれ、動悸が止まらない。涙も流しているようで、嗚咽と呼吸と動悸が混ざり、吐きそうなほど辛い。

 台所まで走って、コップに水を注いで、水道水を飲み干す。まだ動悸は止まらないものの、少し落ち着いた。部屋に戻ってカーテンを開ける。

 充電していたスマホのホームボタンに触れると、『07:03』と時刻が表示された。


 ……水道水? カーテン? スマホ……?


「……帰ってきたのか」


 魔法ではなく、科学で動く電子機器。

 窓の外にはビル群。車道を走るのは馬車ではなく自動車。間違いなく、俺の知る現実の世界だ。


 ……あれは、ただの夢だったのだろうか。


 まだ思い出せる、聖剣の重み。モグラの咆哮が鼓膜を揺さぶる感覚。リザードの唐揚げの食感。イエローホップの苦味。

 ……マールの、血の温度。

 あんなにリアルな感覚の夢は、今まで見たことがない。ただの夢とは思えない。


 ぶんぶんと首を振る。


 異世界とか勇者とか、そんなことはありえないんだ。24にもなって何考えてんだ、深夜アニメに初めてハマった中学生か?

 現実離れした思考を振り払うため、俺はいつもよりテキパキした動作でパンをトースターに突っ込み、コップに牛乳を注ぎ、カバンに書類とノーパソ、予備バッテリーを入れ、朝の支度をする。


「……先日4連覇を成し遂げた横綱……が、批判を受けSNS上での失言を謝罪……」


 点けたテレビが、ニュースキャスターの声を届ける。


「指定暴力団涌井組の発砲事件を受け、大阪府警の……は、きのう夜声明を……」


 ありもしないファンタジーのことを考えている暇はない。そんな分かりきったことを脳内で自分に言い聞かせながら、焼き上がったパンにマーガリンを塗って齧り、テレビのニュース番組を流し見る。

 今日もいつも通り、重大ニュースとどうでもいいニュースの時間配分が入れ替わったような構成だ。


「……の愛称で親しまれる人気バンド、……のボーカル、……さん熱愛か。お相手は5歳年下の……」


 そういえば、1ヶ月後大阪に帰るわけだが、家賃がもったいないからしばらく実家暮しに戻ることになるけど、またオカンが結婚しろ結婚しろとうるさく詰めてくるのか。

 今回俺に大阪転勤の白羽の矢が立ったのは、俺が大阪出身だからということも関係しているのかなぁ。


 齧ったパンの最後のひときれは少しだけ焦げていて、うげっ、と声が漏れてしまうくらい苦かった。



「7時30分! お早め出勤の皆さん、いってらっ」


 テレビを切り、女子アナの挨拶をぶった切る。

 カッターシャツ、ネクタイ、ズボン、ネイビーのジャケットスーツ、高校時代からずっと使ってるベンチコート。

 いつも通り一切こだわりのない服装に着替え、定期、財布、予備バッテリーなど必要なものをカバンの中にぶち込み、家を出る。まずは快活寄ってシャワー浴びないと。


「…………」


 青く澄み渡る空が、夢の中の異世界と全く同じもののように見えてしまい、俺は頬を2度ぺちぺちと叩いて正気を取り戻した。



 カズラ文具株式会社東京支部。

 4年間に渡って務めている、名前の通りノートや鉛筆などの文房具・事務用品の開発販売を行う、業界最大手の老舗メーカーだ。

 俺は4年経っても、未だに開発にも販売にも直接的に携わることなく、データ整理や文書作成などの事務的雑務をこなす毎日。何十人いたか分からない同期の奴らは、俺ともう一人のを除いて全員、レベルアップしてしまったってのに。


 そんな半落ちこぼれの俺に、世界を救う勇者になった夢を見せるなんて、どんな皮肉だ。

 やさぐれた心をぶらさげながらいつものように出社し、今日の持ち場である会議室に向かう。ノーパソを4台乗せた長机とホワイトボードがきっちりとした角度で配置された、殺風景なだだっ広い作業部屋の真ん中で、見慣れない女性社員がちょこんと椅子に腰かけ、居心地悪そうに待っていた。

 女性は入室してきた俺を見て、少し安堵したような表情を浮かべて一礼する。


「大阪支部より出張して参りました、佐藤年さとう ねんです。こちらのチームをお手伝いさせていただくことになっています、よろしくお願いします」


 ……『ホーリーギルド・ラージスロープ支部より勇者様をお迎えに上がりました、二級魔術師のマールです』……。


 丁寧な挨拶と共に名刺を差し出してくる佐藤さんの顔と、あの夢で一番初めに見たマールの顔とが重なって、像がぶれる。

 ……突如として脳を襲う奇妙な違和感に頭痛を覚えながらも、俺はにこやかにそれを受け取って、自分の名刺を出した。


「なるほど。初めまして、文書作成チームの久住達也です。よろしく」

「……初めまして、か」

「え?」

「いや、何でも」


 愛想笑いを浮かべるでもなく、真顔で首を横に振る佐藤さん。

 俺としても、特に突っ込んで聞く理由もない。そのままもう少し来歴を話したところ、佐藤さんは俺と同い年で、大阪支部ではこれまた俺と同じような仕事をしている、ということを聞けた。

 今日の仕事のだいたいの流れは、ウチの課長から事前に聞いているらしい。俺はそれを前提に、着席し自分のパソコンを開きつつ話を進める。


「事前に聞いてる通り、今日は指示通りに膨大な文書を作るってだけの作業です。まぁ雑な言い方をすると下っ端仕事。細かい説明は必要?」

「いえ、大体の勝手は分かると思います」

「あぁ、同い年なんだし、そんなかしこまらなくていいよ」

「了解。私はどのパソコン使えばいいのかな?」


 人付き合いのフットワークの軽さも、マールに似てる……。

 ダメだ、仕事に集中しろ。俺は佐藤さんに不審がられない程度に首を振り、2度目の『違和感』を振り払う。


 佐藤さんに仕事上必要なことを教え終わり、最近出た狩猟ゲームのことなど雑談をし始めたところで、文書作成チームの残り2名が出社してきた。


「おはよーっす」

「おはようございます」


 先述した、俺の同期にして相棒・眞澄元ますみ げん

 入社時期は1年遅いが同い年の女性社員・倉承子くら しょうこ

 2人とも、ここ2年くらいはほぼ毎日のように同じチームで仕事をしている仲間だ。佐藤さんが2人と最低限の自己紹介をし終えたところで、業務を開始する。



「この程度の仕事に時間かけすぎ。率直に言って情けないね」


「……すません」


 時間の進みが異常に速く感じる。


 ワープロ作業をして、資料を整理して、書類にまとめて。

 俺が印刷ミスをして、想定の2倍時間がかかり、上司に怒られる。


「なんスか? 課長はなんもせず、本読んだりときどき立ってトイレ行ったりしてただけのくせに……!」

「眞澄さん!」


 なんだ? この違和感は。いや、既視感は。


 つい最近やったゲームを、はいはいと面倒臭がりながらもう一度やるような。

 一度聞いた会話をスキップして進めるような。


「……次はご期待に沿ってみせます。今回は本当に、申し訳ありませんでした」


 俺の口は、特に考えることもなく勝手に動いていた。


 一度見た映画をもう一度見るとき、名シーンで主人公と一緒に一言一句違わぬセリフを言えるような。

 数学の再テストで数字以外の条件がほぼ同じ問題が出て、特に思考することもなく勝手にすらすら手が動くような。


 課長の説教からようやく解放され、俺たちは一旦会議室に戻った。眞澄と倉が退社するのを見送り、さて俺も帰ろうとカバンを持って立ち上がる。

 まだ帰っていなかった佐藤さんの横に並んで、声をかける。


「今日は出張初日なのに、迷惑ばっかりかけてごめんな。駅まで一緒に帰らない?」


 ……既視感。


 思えば今日体験したことは、夢の中の異世界で経験したことと、酷似していた。


 ラージスロープから迎えに来たマール。

 大阪から出張してきた佐藤さん。


 俺を含めて男2人、女2人の合計4人で行った魔物討伐。

 俺を含めて男2人、女2人の合計4人で取り掛かった文書作成。


 俺が足を引っ張ったせいで魔物討伐にムダに時間がかかり、そのことで俺たちをネチネチと叱った司祭。

 俺が印刷サイズを間違えたせいで文書作成にムダに時間がかかり、そのことで俺たちをネチネチと叱った上司。


「久住さん」

「なに?」


 そして……俺に満面の笑みを向けてくる佐藤さんが次に言う言葉も、だいたい想像がつくんだ。


「久住さん。ちょっと飲みに行かない?」


 これはあくまでも仮定。仮定の話だ。

 もしも、あの夢とこの現実が連動しているのだとして。


 バッツ=眞澄。

 サンチャオ=倉。

 司祭=上司。

 勇者=俺。


 そして……マール=佐藤さん。


 ……あの血だまりが『正夢』となる瞬間は、刻一刻と近付いてきているのだった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る