花と罰



 つい昨日生けたばかりの薔薇が、早々に生気を失い、厚い花弁が重いのか、ぐったりとけだるげに俯いている。ラッセルが空調を効かせすぎるせいだと、男はぼんやり思っていた。

 多少萎びているくらいが、死を待つこの部屋にはおあつらえ向きかもしれない。生気にあふれる蕾の花たちは、今の自分にはまぶしすぎる。――もちろんそれは、主人の体調を気遣う家令ラッセルには言えない冗談だ。

 胃の腑にできた癌で死ぬことを決めたと言うと、周りの者は皆、正気を疑わんばかりの勢いで男を止めようとした。それはそうだろう。齢はまだ五十を過ぎたばかり。充分な医療を受けられる身分の彼にとって、それは死ぬべき病ではない。いくらだって治す手段はあるのだ。

 だが、男――セルジュ・カスタニエは、巡り来たこの病の季節を、己が死と定めたのだった。


 窓の外はうっすら曇り空で、雨は降らない。今年は冷夏で、秋に差し掛かると、さらに肌寒い日が増えてきたようだ。ラッセルがやたらと部屋の暖房をきつくするのはそのせいだろう。

 死の床にあるとはいえ、痛みもなく、食事を楽しみにできなくなった以外は安らかな日々を送っていたセルジュの元を、珍しい見舞客が訪れたのは、そんな日の午後のことだった。

「久しぶりですね」

 遠慮をする様子もなく部屋に入ってきたのは、美しい、若い女だった。

 ブルーグレイの禁欲的なドレスに身を包み、濃い茶色の髪を優雅に緩く結っている。滑らかな頬には赤みがなく、透き通るように白い。背筋をピンと伸ばして歩く姿は飾りがなく洗練されており――その容姿に似つかわしくない、修道女のように厳粛な雰囲気があった。

「……お越しくださるとは」

 言いながら、セルジュは重い身を起こして恭しく向き直った。

 寝台についた彼の腕が枯れ木のように細いのを目にして、女の瞳に僅かの翳りがさす。しかしすぐに気を取り直したように微笑んだ。

「それは、たまには帰りますよ、わたくしの家ですしね」

 読みかけの本が積まれた部屋を懐かしそうに部屋を見まわす女に、何も変わっていないでしょう、と、セルジュは頭を掻いた。

「ご無沙汰しております……母上」

 女の名はマイ=ブリット・カスタニエ。今はこの城を離れ、西の湖水地方にある小さな屋敷に一人で暮らしている、彼の母だった。


 人が己の命の長さについて決定権を持たなかったのは、今となっては遠い昔のこと。癒やせぬ病や不幸な事故、貧困などを理由に、未だ短い生を生きねばならぬ者が大勢いる一方、若い日の姿のまま、一世紀をゆうに超える長い時間を渡る者も少なからず存在する。彼女も、そんな人間の一人であった。

「母上、今日は……」

 セルジュの感じた嫌な予感が、思わず声ににじみ出てしまう。

 母からすれば、今の自分はただの自殺者に見えるだろう。きっと、止められるに違いない。幼い日の、涙もろく心配性だった母の姿も思い出され、居心地の悪さを感じた。彼女を悲しませることは本意ではないのだ。

 けれど、母の言葉は予想に反したものだった。

「何をしにきたわけでもありません。ただ、あなたの顔を見ておこうと思って」

 マイ=ブリットは微笑んだ。

 それは四十年前と同じ笑顔だったけれど、あの頃の母と目の前の女性では、まるで同じ顔をした別の人間のようだ。

「止めに来たとでも思いましたか?」

「……思いました」

「ふふふ、無理もありません。わたくしは、そういう母親でしたものね」

 そして、病みやつれた息子の手をとって、若いままの母は穏やかに告げた。

「あなたの決断を、わたくしは受け入れますよ、セルジュ」


 セルジュにとって母とは、優しいが心の弱い人だ、という印象が強い。

 悲しいことがあった時は、何日も部屋に籠もって泣いているような女性で、子供心に、彼女に辛い思いをさせてはいけないという義務感にかられたものだ。

 だが――父の死後、家族と離れひとりで暮らすこと選んだ母とは、あまりゆっくりと接する機会は無かったように思う。不仲だったわけではない。自分は居城に籠もって離れず、別宅に暮らす母もまた、めったにこの城に戻ることがなかった。

 そんな日々が続くうち、気付くと長い時間が経っていた。

「……カスタニエ家の当主として、生き続けることだけが私の義務だと思っていました」

 セルジュは、ゆっくりと語り始めた。

「父から受け継いだ家を、子へ引き継ぐことが役目。この命は、己のものではないのだと。不満をもっていたわけではありません。ただ、ずっとそんな風に考えていました。だけど……そうではなかったのです。母上」

 体は重く、以前のように明瞭に言葉を発するのが難しい。けれど、母に今の自分を知ってもらいたいと思っていた。

「死病を得たと知ったとき……不思議と、晴れ晴れとした気がしました。私も、庭の草木と同じものだと。生も、死も、役目ではなかった。たぶん……それに、ホッとしたのだと思います」

「……そう」

 マイ=ブリットは深く息をついた。寂寥の滲む声は、しかし、はっきりとした同意を息子に伝えていた。別れが近い。

「寂しくなるわね」

「すみません」

「いいのよ」

 笑う母はやはり美しい。人生のどこかの時点において、若いまま生き続けることを選んだのであろう彼女は、まるで枯れない花のようだ。けれどその、一見夢のように思える生に付きまとう孤独の影と、彼女がどうやって折り合いをつけているのか、セルジュにはわからなかった。

「母上はこれからもずっと……お一人でいられるおつもりなのですか?」

 ふと口をついて出た凡庸な問いに、母は少し驚いたように目を見開き、それから、しばらく考え込んで、ゆっくりと頷いた。

「ええ。これは……わたくしの、罰だから」

「罰……?」

「そう。罰なの」

 噛みしめるように呟くと、マイ=ブリットは瞼を閉じた。

「……あなたがまだ、お腹にいた頃の話よ。わたくしは、ある人に命を救われた。殆ど、知らない方だった。お名前くらいは聞いたことあったわ、というくらいの方。わたくしは、あの日一日の彼しか知らなけれど……とっても優しくて、素敵な方だった」

 この女性の子として生まれて半世紀も経つけれど、そういえば、生まれる前の話を聞いた記憶があまりない。だからそれは、初めて聞く話だった。

「わたくしを生かすために、その方は、命を落としてしまわれた。息を引き取る前、その方は言ったわ、リートは寂しがり屋だから、君はあいつより先に死なないでやってくれ、って」

 リートは亡き父の愛称だ。母以外に、父のことをそう呼ぶ人物がいたなんて、奇妙な感じがする。

「わたくし、その時はただ恐ろしくて……自分のことで精いっぱいで、何もできなかったし、わからなかったの。死んでしまうなんて……」

 彼女の声がほんの少し上ずり、不意に途切れる。セルジュには、言葉を挟むことはできなかった。

 やがて短く息を吐いて、苦しげに母は続けた。

「……あの方を、死なせてはいけなかった。彼の死が家族を変えてしまった。それなのに、わたくしはそれに、とても、とても長いこと気が付けなかった。気づかずに、ずっとただ恨んでいた」

 母が誰を恨んでいたか。

 それならば知っている。

 ――祖父だ。

「お義父様のことを、わたくしは何も知ろうとはしなかった。ただ恐ろしくて、情の無い方だと、そんな風に思っていたわ。口には出せなかったけれど……ずっと、憎かった」

 時の皇帝であった祖父に対して、セルジュも良い印象は持っていない。そもそも会う機会すら、数えるほどしかなかった。

「リートとわたくしが殺してしまったのは、アドルフ様の親友で、半身……アインという名の、優しい【剣】。彼が生きてさえいれば失われなかったものについて、やっと気づいたとき、大切な人はもう皆いなくなっていた。だからわたくしは――わたくし自身に罰を科すことにしたの」

「……孤独が、ですか?」

 だとしたら、なんと悲しい。

 だが、彼女の答えは違った。

「いいえ――祈りが」

 五十年間衰えないままの肉体を纏った女の孤独は、すり減らぬ記憶と悔恨に磨かれ、石英の結晶のように揺らぎなく澄んでいた。

 だから彼女は、孤独を祈りと呼べるのだろう。

「わたくしは、生きられる限り祈りに生きていくつもりです。それが、私自身の望みに一番近いことだと思うから」

 母の穏やかな横顔に、セルジュはなぜか安堵していた。

「……私は、親不孝者でしょうか」

 優しい否定が欲しくて、甘えた言葉が口をつく。子供だった頃は、こんなことは言えなかった。

 マイ=ブリットは、見透かすように微笑むと、息子の望み通りかぶりを振った。

「そんなこと、あるものですか。あなたはいい子、本当に。わたくしたち夫婦は、どれだけあなたに救われたかわかりません。だから……そうね、とても寂しいけれど、わたくしはあなたの生涯を肯定します。あなたが今、こうして暖かい寝室で、惜しまれて時を過ごしていることを誇りに思うわ、セルジュ」

 ああ、笑った顔が、本当に昔と変わらない。

 遠い記憶の果ての世界と、今この寝室が繋がって、過ぎ去った時間を全部抱えていられるような、不思議な満足。この人の永遠の中に、自分も含まれるのだ。

 亡き人との約束を果たしてなお、母が歩みを止めない理由が、少しだけわかった気がする。一人生き続ける彼女はもう何も失わない。孤独いのりと共に、すべてを記憶しているから。

「……感謝します。母上、止めないでくれて」

「わたくしこそ、あなたに会えてよかった」

 とても真似はできないな、と、セルジュは思った。

 窓辺に目を移すと、先ほど萎れそうだった薔薇が、再び水を吸い上げ、咲ききった花弁を大きく天へと広げている。

 花はその短い生涯の中で、散り際の一瞬に最も大きく咲く。

 思い返すと、大切なものがあまりに多い。今の自分は、やはりあの花と同じだなと思いつつ、セルジュは静かに目をとじた。

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