シュガードロップ・ブレイクアウト関連
遠い糸
ゴチャゴチャと飾りの多い上着を脱いで、ジェラルドは息をついた。
窓の外は夕暮れの気配が射していて、官邸に姉の気配は無い。まだ戻っていないのだ。
ここのところそんな日が多かった。イヴァールと一緒に街の色々を見学して回っているというけれど、今日は一体どこへ行ってしまったのだろう。
直轄区に来てそろそろひと月半。ロディスは自分に軍での簡単な仕事を与えて、護衛として姉に付き添うことを禁じた。
ここは安全であり、姉にとっても自分にとっても新しい世界だ。『剣』としての自分は必要ない。ロディスの言うことは理解できるし、だからこそ従ってもいる。だけど、
「……はぁ」
全く、慣れない。特にこんな風に、一人きりで何もすることのない時間というのは困る。本でも読んで過ごせれば良いのだろうけれど、ここに居ない彼女のことが気になってとても集中できそうにない。
置く荷物が無いせいでぽかんと広いデスクの前で、座り心地の良い椅子に身体を預け、天井を仰ぐ。マーゴットからは晩餐までには戻るとテキストメールが届いていたから、別に心配をするべき場面ではない。それは分かっている。
だけど……新しい場所で自由な時間を与えられてみて改めて知ったのだ。
姉の側で、彼女の剣として在ることは楽だった。彼女のことは大好きだし、いつだって優先すべきことは決まっていて、悩んだり迷ったりする必要がない。
――自由というものは、存外孤独に近いものだった。
日が暮れる頃、ついに手持ち無沙汰に耐えられなくなって、卓上に放置されていたホロ通信機に手を伸ばした。久々に師に近況報告でもして落ち着こうと思ったのだ。
エリンからは姉の近況を知らせるようにと言われているので、今の状況を正直に伝えたら叱られるかもしれない。けれど、一人きりで寂しい思いをするよりはマシだろう。
宛先を選ぶと、まもなく薄暗い部屋に、ホログラフィの光が浮かぶ。
「……悪いが、エリンは出られない」
予想に反して、姿を見せたのはゲオルグだった。
「大公殿下!?」
驚きに弾かれて、思わず立ち上がる。
「急ぎの用か?」
ホログラフが映し出す映像はゲオルグの執務室で、デスクの前の彼は仕事中のようだ。
「あ、あの……」
長く同じ城で暮らして、血の繋がった父でもあるゲオルグ・アヴァロンであるが、これまで二人きりで話をするような機会はあまりなかった。
避けていたわけではなく、そんな立場でなかっただけ。だから――ジェラルドにとってゲオルグは、子供の頃から何となく近寄りがたい存在のままだ。
「あの……その、先生は……」
言葉に詰まりつつそれだけ口にすると、ゲオルグは呆れた様子で肩をすくめる。そして、再びの予想外が返ってきた。
「寝てる」
「……えっ!?」
驚いて時計を見るが、今ジュネーヴは昼前のはず。というか、そもそもどうしてエリンの通信機がゲオルグの執務室にあるのだろう。
「どういう……」
「私も聞きたいよ。執務を手伝わせているんだが、こいつ、飽きるとすぐに暗いところに行って寝る」
苦々しげに言って、ゲオルグはちょっと足下を見た。こちらからは見えないけれど、もしかするとそこで師が眠っているのかもしれない。長年の畏れの対象が思いのほか普通に話してくれたのと、エリンの状況がいまいちよく分からないのがないまぜになって、なぜか少しだけ笑えてしまった。
「先生は……その、寝て良いときはすぐ寝ます」
そういえば、エリンにはそういう所がある。子供の頃は寝ているところを見たことが無いような気すらしていたけれど、近年では時折、姉を自分に預けて休んでいた。そして、寝ると決めたら手品のように一瞬で眠ってしまうのだ。
「私の仕事の手伝いは寝て良い時間だと思っているのか」
「……たぶん。あと、起こすと怒ります」
「呆れた……」
「先生はどうして、大公殿下のお手伝いを?」
「お前達が居なくなって、やることが無くなったらそのまま死にそうだったから……なんだが、猫ほどにも役に立たん。どうにかしてくれ」
大げさに言って憤慨してみせるゲオルグの、言葉ほどには怒っている様子のない顔を見ていると、不思議と緊張が解けてくる。
「では、姉上に言いつけるとでも言ってみればいかがでしょうか」
「なるほど、効きそうだ」
「はい。きっとてきめんです」
ジェラルドが笑うと、ゲオルグも少し笑った。
彼の笑顔なんて記憶になかった。ずっと、難しい顔ばかりしている人だと思っていた。
「そういえばお前、その姿……共和国軍か?」
ジェラルドの軍服姿に目をとめたゲオルグが、不意に話題を変えた。
「えっ……あっ、はい。その……」
自分のことを話題にされると妙に緊張する、と、同時に、くすぐったいような気持ちになって、ほんの少し舞い上がってしまう。
「ロディス様に、軍務のお手伝いをするようにと言われて……」
「カスタニエ卿に?」
「はい。それで今日も先ほどまで軍に……」
「では、あの子とは一緒じゃないのか」
「え、あ、はい……すみません」
言ってしまってから後悔する。話せばきっとゲオルグは過剰に姉を案じてしまう。だけど、言いかけた話を引っ込める訳にもいかなかった。
「姉上は今、春から担当する総務省での仕事……を、ブライアース秘書官から教わっています……」
主人の側に居ないことを責められるかと思ったけれど、
「……そうか」
ゲオルグは落ち着いていて、怒ってもいないようだった。
「あの婚約者殿は、お前のことも考えてくれているんだな」
その台詞が自分を思いやって発せられたものであることに、ジェラルドははじめ気付かなかった。
けれど、ポツリと投げ込まれた言葉は心に落ち、やがて穏やかな波紋を広げる。
「あの……」
同意すれば良いのか、感謝の言葉を述べれば良いのか、わからない。その、ぬるい葡萄酒のような甘苦い感覚の正体を、ジェラルドは知らないから。
「しかし、案外似合うな」
「えっ」
「軍服」
ゲオルグは、慣れない会話に乗れないジェラルドに助け船を出したつもりだったらしいが、彼はますます混乱し、あたふたと自分の着ている勤務服を見回して、それから、椅子に放りだしてあった上着を慌てて着直す。
「別に着ろとは言ってないよ。楽にしていろ」
慌てる様子が可笑しいのか、ゲオルグはクスクス笑って首を振る。そういえば、最初にこれに袖を通したとき、姉からも似合うと褒められた。これはたぶん、それと同じだ。
「あ……ありがとう、ございます」
口にすると、ようやく嬉しさが広がった。そういえば、ずっと前もこんな風に身なりを褒めてもらったような気がする。
凜々しく成長した美しい顔で、恥ずかしそうにはにかむ青年が、その父と母両方の面影を備えていることを、本人はもちろん知る由もないし――彼らの間でそんな話が交わされる可能性は、とうの昔に潰えている。
「慣れないことが多かろうが、まず新しい仕事を頑張るように尽くしなさい。それと……」
ゲオルグは言いかけて言いよどみ、少し迷ってからコホンと咳払いをして続けた。
「私は軍のことが分かるわけではないが、役所仕事の話なら、少なくともエリンよりは把握している」
「え?」
きょとんとして目を丸くするジェラルドから、ゲオルグは目をそらす。
「……困ったことがあれば、相談して良い」
優しい言葉が、今度は迷わず喜びの火を灯した。
「はい……大公殿下」
遠く、あまりに遠く、星の裏側から細い糸を手繰るように、名前のつかない親愛を贈りあう。こんな日があるなんて思いもしなかった。
父が浮かぶホログラムの青い光が、すっかり大人になった青年の横顔を照らす。
いつの間にか日は暮れ、部屋は静かな夜の中にあった。
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