渡り鳥の門は遠く&鍵のない箱関連

枯れない花



本エピソードはStudio F#にて発行した短編ADV「鍵のない箱」のとあるエンディング後を描いた掌編となります。


「鍵のない箱」および「渡り鳥の門は遠く sing again」のクリティカルなネタバレを含みますので、未プレイで、ゲームを遊んでいただけるご予定がある場合は、クリア後に読まれることを強くおすすめいたします。













 



 必然とは運命を構成する最小単位であり、しかしそれらはみな、起きたときには偶然・・と呼称される。どの偶然が、後に必然であったと語られる出来事になるのか、あらかじめ知るすべはない。

 だから、その日、その夜、その男に出会ったのも、たぶん、そういう偶然のひとつだったのだろう。



「お前が……ハビ・エスピノサか!?」

 夜の酒場に、男の怒号――ではなく、悲鳴が響いた。

 賑やかな盛り場の喧噪が一瞬トーンダウンし、客達が驚いた顔でこちらを見る。

「ちょ……」

 トルドは焦った。今ちょうど、この店の主人と話をしていたところだ。振り返ると、今の声の主はすぐ隣の席に居たらしい。目をつり上げて詰め寄ってくる。

「ぼ、僕にはわかるぞ、ハビだろ! そうなんだろ!」

 清潔そうなシャツに、野暮ったいベスト、こぎれいな靴。焦げ茶色の髪をぴしりと真ん中分けにした、威勢良く声を荒げている割には地味な風体の、どちらかといえば大人しそうな男だ。

「や、だから、ちょ……」

「出て行け! この街でお前が飲む酒なんてないぞ!」

 何か言おうにも、言葉を選んでいる暇が無い。

 もちろん、ハビとは亡き友の名であって自分のことではないので、事実としてはすぐに否定できるのだが――

「この、ろくでなし!」

 怒る男の様子を、トルドは半笑いのまま素早く観察していた。今夜は事情があってここに来たのだ。変な騒ぎにはしたくない。

「よくも今ごろ、のこのこやって来られたもんだ! 分かってるのか!」

 男は喚く。少し酔っているようだが、彼の怒りはそのせいではないようだ。それに、今にも殴りかかってきそうな勢いではあるけれど、どうやら、暴力に訴えようというタイプでもないらしい。

「今年で……今年で……二十年だぞ!」

 二十年――改めて言われてみれば、なんとも気が遠くなりそうな年月だ。

 ここは、モスクワから北西に二時間ほどの場所にある、トヴェリという街である。楽団のトッカル公演を終えた後、トルド達はメジエールへ戻る団員達といったん別れ、寄り道をすることにしたのだ。

 トヴェリの、この酒場のある地区の名が、ハビの残したメモにあった。街までやって来たものの、詳しい番地までは書かれていなかったので、とりあえず土地のことに詳しそうな人を探してここに来た。

 ここは五年前、渡り鳥の門を超えたハビが、無事仕事を終えて金を手に入れたら、ラフィータを連れて訪ねるつもりだった場所である。ここにラフィータの母、セリアが暮らしているはずなのだ。



「なぁお前、名前は?」

 トルドは注意深く、けれど彼らしく馴れ馴れしい調子で口を開いた。

「は?」

「名前、あんだろ?」

「そ、それは……」

 人なつっこく笑ってみせると、男は怯んだように口ごもる。出会い頭に罵った相手が、気を悪くした様子も見せないことに気付くと、やはり、見た目通りの真面目な人物なのであろう、少しばつの悪いような顔で目を泳がせた。

「テムル……テムル・パーシンだ」

「そっか。じゃあ、テムル、ちょっと聞きたいことが……」

「ハビ! 頼む!」

 ようやく話が出来そうな様子だったテムルは、パッと顔を上げてトルドの腕を掴む。それから、

「このまま……帰ってくれ!」

 思い詰めた目で言い放った。

「……なんで、お前がそんなことを言う」

 トルドの目が、怪訝そうに細くなる。

「そっ……それは、もちろん、セリアのためだ!」

 トルドの目をまっすぐ見つめて、テムルは続けた。

「セリアが……彼女がやっと……僕のプロポーズを受けてくれたんだ!」

「……!」

 さすがに、予想外の台詞だった。言葉を失うトルドに、テムルはハッとした顔をして、それから、少しだけ申し訳なさそうに続ける。

「そ……そちらにも、何か事情があったのだとは思う……けど、けどさぁ、セリアをこれ以上振り回さないでくれよ……頼む。彼女、ずうっとひとりであんたを待ってて、それで、それで、この間ようやく……」

「ちょ、ちょ、ちょっと待てって、誤解だ!」

 だいたい事情を察したらしいトルドが慌てて口を挟む。

「は?」

「だから、誤解だ」

 勘違いさせたまま、探し人の情報を聞き出してやるつもりだったけれど、こういう事情では仕方がない。

「俺は……ハビじゃない」

「えっ……?」

 目を丸くしたテムルに、トルドは悲しげに笑った。

「ハビ・エスピノサは……友人なんだ」





 二十年前、酷く体調を崩した状態でトッカル入りしたセリア・バリエが、どのようにして暮らしていたのかは分からないが、とにかく彼女は、十五年ほど前にこの街に移り住んだのだという。それからずっと、エウロ系トッカル人の家で、住み込みの家政婦の仕事をしながら、ハビを待ち続けていたそうだ。

 酒場で会ったテムルという男は、その家の主人の甥にあたる人物で、家にやって来たセリアに、長いこと片思いをしていたらしい。

「で、二十年経って、セリアはようやくそいつのプロポーズを受け入れる気になったんだとさ」

 宿に戻ったトルドの話を、ラフィータは特に驚いた様子も見せず、楽器の手入れをしながら黙って聞いていた。涼やかな横顔にひとすじの影すら射さないので、トルドは眉を寄せ、伺うように言った。

「家の場所は聞いてきたけど……明日にでも行ってみるか?」

 相棒の言葉に、ラフィータは一瞬手を止める。けれど、

「行かない。帰ろう」

 すぐに素っ気なくそう答えた。

 すると、それまで口を挟む様子無く、タオルで髪を乾かしていたエイミーが、パッと顔を上げ突然立ち上がる。

「……だめよ! そんなの!」

「……どうして?」

 ラフィータは不思議そうに、彼女の、大きな傷の残る顔を見上げる。彼の翡翠のような瞳は、いつも通りにしんと澄んでいて、今聞かされた話に傷ついているようにも、怒っているようにも見えなかった。

「テムルっていう人、帰って欲しいって」

「……俺達じゃなくて、ハビに、だけどな」

「うん」

「そんなの勝手だわ、聞く必要ないわよ!」

「うん」

 二人の言葉に、ラフィータは薄く微笑んで何度も頷く。

 もともと、彼は母親に会いたがっていたわけではない。トルドはそれ以上何も言おうとしなかったけれど、エイミーは納得がいかないらしい。

「だめよ! 会いに行かないと! 絶対後悔するから」

「しない」

 エイミーは真剣だが、ラフィータは静かに笑ったままで、短く否定する。

「するの!」

「どうして?」

「そんなの……理屈じゃないに決まってるでしょ。会いたいに決まってるし、会うべきだって決まってるの!」

「決まって……?」

「そうよ!」

 しつこく食い下がるエイミーの言葉を、ラフィータはずっと笑顔で聞いていたが、やがて、不意打ちでエイミーの手を捕まえる。

「僕と、トルドと、一緒にメジエールに帰ろう?」

「ラフィータ……」

 まっすぐな目と甘ったるい声、エイミーは一瞬困ったように目を泳がせたが、すぐに気を取り直し、掴まれた手を引き剥がす。

「子供みたいなことを言わないの。大人になったんでしょ?」

 すらりと伸びた長い指は、今はすっかり、楽器の一部のような美しい形をしていて――在りし日のハビに、よく似ていた。

「あなたのお母さん、ハビのこと、ずっと待っていたんでしょう? もう二度と会えないんだって……伝えてあげなきゃ」

「…………」

「いつか彼が迎えに来るかも、って、思い続けるのはとても辛いから」

 ラフィータはエイミーの言葉を黙って聞いて、黙って考え込み――それから、名乗らずに、知り合いのふりをして、ハビが死んだことを伝える、ということを条件に、しぶしぶセリアに会いに行くことを承諾したのだった。





 移民は、故郷を離れた瞬間から、嫌われ者になる宿命を背負う。

 多くの人間は善人であるが、隣人がよそ者であることを恐怖するからだ。

 だからこそ移民同士は、お互いを助け合うためのネットワークを大切にした。エウロ移民たちだって例外ではない。多くはよりローカルな、出身地方を同じくする者同士が助け合う。しかし、エウロ自治区の困窮により、助ける者よりも、助けを求める者の数が圧倒的に多すぎるという状況が長く続いていた。

 だから、この街で同じエウロ人の助けを得ることができたセリアは、その点においては、非常に幸運であったといえる。

「ちょっとちょっと、ミミ、顔出しちゃだめ」

「何よ、隠れてるわけじゃないんだから……」

「それでも! だめだめ! ちょっと待って……」

「お前らな、探偵ごっこやってんじゃねーんだぞ」

 しゃがみこんで生け垣に身を隠し、押し合うエイミーとラフィータに、トルドが呆れた声をあげる。

 そこは、何代か前にトッカルに移り住んだ、学者の家系であるという。すみ込みの家政婦を雇っているという割には、いかにも金持ち風ではない、瀟洒な佇まいの小さな屋敷だった。

「ねぇっ、あれ、あの人じゃない?」 

 ここまで来てもまだ乗り気でないラフィータのかわりに、目を凝らして庭を観察していたエイミーが指差した。

 空は抜けるような青。長い冬を控えた僅かな時を黄金に染める、美しいトッカルの秋、刈り込まれた芝生の庭で、エプロン姿の女性が毛足の長いラグの埃を払っていた。ひとつに束ねられた髪は柔らかい亜麻色。ラフィータのそれと同じである。

「おい、ラフィータ」

「……うん」

 若い頃のセリアの写真は見たことがある。彼女と自分の外見的特徴が似通っていることを、ラフィータは知っていた。

「あの人だね」

 短く言って、静かに息をついて立ち上がり、上着のフードを目深にかぶる。陽光の下、突然現れた人影に、セリアも気がついたらしい。手をとめてラフィータの方を見て、彼が自分の方を見ていることを知ると、親切そうな微笑みを浮かべて歩み寄ってきた。

「何か、ご用かしら。ご主人と奥様なら今……」

 気がつかない母に、青年は唐突に口を開く。

「ヴァイオリン」

「え?」

「もう弾かないの?」

「な……えと……」

 言葉を途切れさせたセリアだったが、何を尋ねられているのかは理解したようだ。

「……時々、ご家族のために弾くことはあるけれど、もう、昔のようには弾けないわ。指がなまっちゃって」

 言って苦笑したセリアの相貌は、写真で見た少女とはもう違っていたけれど、今もなお美しく、そして、不幸の色は見えない。ラフィータは微笑んだ。

「そっか……僕ね、ある人に、頼まれて来たんだ」

 そして、後ろで見守っていたエイミーの手を掴んで、強引に引っ張り出す。

「わっ! ちょ、何……」

「この人、ハビのお嫁さん」

「!?」

 エイミーは驚き、それから怒ってラフィータの手を振りほどこうとしたが、手首を強く掴まれていて叶わなかった。

「幸せにしているかどうか、見てきてって。それから……迎えに来られなくて、ごめんなさい」

「…………」

 突然告げられた残酷な言葉を、セリアは微動だにせず聞いていた。最初は驚きに見開かれていた目は、やがて乾いたまま重く伏せられる。そのまま、彼女は何も言わなかった。ショックを受けているのか、それとも安堵しているのか。その心の中を知る手立てはない。

「ハビのこと、怒っていいと思うよ」

 青ざめた顔で睨むエイミーを無視して、ラフィータは言った。

「用事は、それだけ。じゃあ――」

 セリアの反応を待たずその場を立ち去ろうとする青年に、エイミーは掴まれたままの手のひらに爪をたてて抗議したが、ラフィータは立ち止まらなかった。終始黙って見つめていたトルドもそのまま二人に付いてその場を離れる。

 そして、真昼の高い空の下、一言も発さぬまま呆然と立ち尽くすセリアがただ一人残されたのだった。





「ばか! なんであんな嘘付いたの!」

 大通りまで戻ったところで、ラフィータの手を振り払って、エイミーは喚いた。

「お嫁さんって?」

「そこじゃなくて! って、ううん、そこもだけど!」

「ごめんなさい……」

 しおらしく詫びてみせる青年に、しかしエイミーは怒りの収まる様子がない。

「私じゃなくてハビにでしょ! ごめんなさいは!」

「ハビ……?」

「そうよ、でも、もうハビには謝れないのよ。あんな、ひどい嘘……」

「……」

 ラフィータは一瞬口を閉ざし、そして、悲しいのか嬉しいのかわからない顔で、少し笑った。

「ハビは、怒らない」

「え……」

「大事なのは、本当のことかどうかじゃなくて、セリアがもうハビを待たなくてもいいってこと。だったら……」

 優しい青年の微笑みはどこか寂しく、痛みを孕んだものにも見える。けれど、

「悲しくないほうがいい」

 言葉に迷いはなかった。

 口を挟めなくなってしまったエイミーは、唇を噛み締めてうつむいた。彼女が少しも納得していないのに、ラフィータは気づいていたけれど、そのことにはもう触れようとせず、黙って二人を見ていたトルドに目を向ける。

「今日の列車って、まだ乗れる?」

「あー……まぁ、席が空いてりゃ大丈夫だろ。今日、モスクワまで戻るつもりなのか?」

「うん」

「な……!」

 驚くエイミーを、ラフィータは見ない。

「……じゃ、宿に戻って荷造りだな」

「わかった」

 何か言いたそうな彼女に構わず、トルドとラフィータは淡々と話を進めながら宿へ向かって歩きだした。夕方の列車でモスクワに戻って、今晩の宿をそこでとれば、明日にはメジエールへの帰路につける。エウロへ戻れば、今は彼らの家族である、楽団の皆が待っている。



 のんびりとした地方都市で、人通りの多くない通りの風景は、どことなく、いつか訪れたキリエフの街に似ている。

 ずっと黙ったまま、すっかり背の伸びた、あの日の少年の背中を見ていたトルドだったが、やがて、不意に口を開いた。

「なぁ、ラフィータ、一応、言っとくけど」

「ん」

「本当にいいのか?」

「いい」

 何が、と言われなくても、ラフィータもちゃんと分かっているらしい。トルドは嘆息した。

「お前がよくても、お前以外の奴はそーじゃないかもしれないぜ? 後ろで怖い顔してる奴とか……あと、あの母親も」

「…………」

 底なしに優しいけれど、何にも執着することがない。一番大切だったはずの人の死さえ、砂浜に吸われていく水のようにただ受け入れた。

 弱者の死が足下を埋め、空だけが美しくて広い荒れ地で育ったラフィータ。もう随分長く一緒に暮らしているけれど、こういうときはやっぱり、何を考えているか分からないなと思う。

 けれど青年は、トルドの言葉に少し考え込んでいるように見えた。





 部屋に戻って荷物をまとめ、ロビーで待ち合わせをしていたはずが、エイミーが現れなかった。

「ミミ、どうしたって?」

「薬屋に寄ってから駅に行きたいから、先にチェックアウトしたって」

「具合わるい?」

「……大丈夫だろ。ほら、メモ」

 言って、トルドはフロントで受け取った書き置きを差し出した。そこには女性っぽい字で、列車の時間には間に合うように駅に行くとあった。

「わかった」

 トルドはこのとき、嘘をついた。

 エイミーからのメモは二枚あったのだ。

 けれど、彼はそれをラフィータには見せず、ポケットにしまった。そのことがもたらす小さな波紋を、やはり彼もまた、心のどこかで望んでいたのだろう。



「ねぇ、トルド、聞いていい?」

 ホテルを出てタクシーを捕まえ、目的地を告げて車が走り出した後、ラフィータが唐突に口を開いた。

「何だ」

「テムルさん、って、どんな人だった?」

「気になるのか?」

「ちょっとだけ」

「んー……そだな。地味な男だったけど、まぁ、真面目そうな奴だったかな」

「そっか」

 短く言うと、青年は気を取り直したように、窓の外の景色に目を戻した。





 夕刻のターミナルを、家路につく人々が行き交う。けれど、彼らが向かう先は、多くの人の流れとは逆の方向なので、モスクワ行きの特急乗り場は少しガランとして静かに感じられた。

「ミミ、まだかなぁ……」

 チェロケースを抱えて、少し心配そうに辺りを見回す。ホームにはすでに列車が停まっていて、発車までは少し間があり、二人のように人待ち顔の客もちらほら見えた。ラフィータは、そんな他の客たちの中にエイミーが紛れているのではないかと思っているようだった。

 女の声が届いたのは、そんな刹那のことであった。

 それは彼の名を呼んだ。

 エイミーの発した声でないことは、耳に届いた瞬間気づいていたはずだけれど、ラフィータは反射的にその声がした方向を振り返った。

「間に合った……ラフィータ」

 息を切らせて立っていたのは、セリアだった。

「え……?」

 彼女は、青年が自分を視認したことを知ると、ためらいがちに歩み寄る。

「来てくれてありがとう……会えるなんて、思ってなかった」

「あの……」

 泣き出しそうなセリアに、ラフィータは戸惑いを隠せず、じりと後ずさる。

「今……幸せ?」

 別々の世界で、交わらぬ生を生きてきた、二人の眼差しはしかし似ている。

 控えめに差し出された問いかけに、青年はしばし悩んで、それから、深く頷いた。

「……よかった」

 セリアは微笑んだが、ラフィータはうまく笑えない。二人は紛れもなく血を分けた親と子だけれど、家族ではないのだ。

 それでも、ハビがかつて、この人のために命を賭して渡り鳥の門を越えようとしたことを知っている。

 何も知らずにいてほしい気持ちと、今までの全部を聞いてほしい気持ちの両方が心を乱す。このまま口を開いたら、大切な何かを壊してしまう気がする。

「…………」

 だから、何も言えなかった。


「……ハビに、伝えて」

 しばらくの沈黙の後、やがて、旅立つ者たちのざわめきを縫って、言葉が響く。懐かしいはずのない声なのに、なぜか、泣きたいような郷愁を孕んでいた。

「ごめんなさい。それから――」

 こらえるように、かつて母となった彼女は告げる。

「――ありがとう」


 声と共にひとしずくこぼれた涙が、嘘つきの胸にズキリと刺さる。彼女の言葉はもう彼には届かない。

「……わかった」

 果たされなかった約束に、待ち続けた時間に、意味はあるのだろうか。

 それはセリアだけのもので、ラフィータには知りようがないことだ。けれど、この、曖昧で形のない思慕にはきっと、母という名がついている。

 だから、この街に来られてよかったと思った。




 傾いた赤い光が差し込むホームを、列車が離れてゆく。

 モスクワでもう一泊するつもりが、ちょうどよく夜行に乗り換えられることがわかったので、三人はこのまま、まっすぐエウロへ戻ることにした。

 ずっと、硬い表情で黙り込み、母の姿が見えなくなった方向を見つめていたラフィータだったが、やがて疲れたのか、エイミーの膝にうずくまって、猫のように眠りはじめた。

「……悪いことしちゃったかなぁ」

 柔らかい髪を撫でながら、エイミーが落とす。

「……や、これで良かっただろ。たぶん」

 トルドが軽率な口調で返す。

「俺だったらあそこで母親を連れ出しに走るとか恥ずかしいこと、できねぇし」

「わ……悪かったわね……」

「ばか、助かったって言ってんだ」

 意地の悪い顔で笑って、そして、眠る年下の相棒をチラリと見てから、彼方に光る星空に目をやる。

「約束は……あるってだけで、支えになる。けど、それだけじゃ先に進むことはできねぇからさ」


 セリア・バリエの長い待ち合わせは終わった。

 約束という枯れない花は、思い出の彼方に溶け、そして、彼女の手は新しい花束を受け取るだろう。

 眠るラフィータをのせた列車は、夜半に渡り鳥の門を西へ向けて超える。

 彼らも戻るのだ。新しい花の待つ街へ。

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