孤独のトライアド(GC573-577)

 日々を過ごす場所が、孤児院の寒い部屋から、突然、絵本の世界に迷い込んだかのように豪奢な皇帝アドルフ=サリム・アヴァロンの居室に変わり、そして、いくつかの季節が通り過ぎた。



「ツーヴァーイーっ!」

 名を呼ばれ、少年は振り返った。熱の無い真冬の日差しが、広々とした裏庭の白銀に乱反射して眩しい。今ちょうど、先刻から建設にいそしんでいた大きなスノーマンに頭を乗せて仕上げるところだったのに。

 仕方なく手を止め目をこらすと、軋む雪を踏んで、こちらに駆けてくる者がいる。

「かくごー!」

 そして、訪問者は玩具の剣を振りかざすと、問答無用で襲いかかってくる。

「わっ、皇子……っ!?」

「とりゃ!」

 少年――ツヴァイは面食らったが、わんぱくな友人の突飛な行動には最近だいぶ慣れてもいた。身をかがめてぴょんと斜めに跳ねると、脳天めがけて無邪気に振り下ろされた剣(おもちゃとはいえ、当たると無事ではすまないだろう)を器用に避ける。

 自分より一回り身体が小さい相手の幼い太刀筋は、いつも稽古で相手にしている師匠アインとは比べるべくもないもので、つまり、ちょっとくらい驚いていてもかわすくらいは容易い。

「皇子……あたまをねらうのはなしだよ」

 うっかり落としそうになった雪玉を踏まれないように脇に置いて、ツヴァイは振り返った。

「アインのまね!」

 皇子と呼ばれた襲撃者は、悪びれる様子も無くワハハと笑った。

 子供らしく紅潮した丸い頬に、くりくりした青い瞳。金色の巻き毛は少し父親に似ているような気もする。ひとつ年下の彼は主人アドルフの息子で、名はエーベルハルト。このアヴァロン城で大切に育てられている二人の皇子のひとりである。

「アインのまねは、しない方がいいと思うよ……」

「どうして? かっこいい!」

「あぶないもん。普通にしなよ」

「つまんない!」

「おもしろいって」

「むーん、これでどうだ!」

「わわっ」

 言い合いを一方的に切り上げて遊びの続きをはじめたエーベルハルトに、慌てて体勢を整える少年のゆったりとした黒衣の袖が、白い景色の中でふわりと膨らんで揺れる。

 ほぼ白に近い髪に、褐色の肌、ひときわ鮮やかに映える緑色の瞳。ツヴァイは特異な容姿を持った、神秘的な雰囲気の少年だ。皇帝の【剣】アインによって孤児院で見いだされ、その日のうちに城に引き取られると、彼はそのままアインの弟子となった。それが、去年の春のことである。

「こらーっ! エーベルハルト!」

 やがて、雪の中を歩きづらそうに、二人目の皇子が追いかけてきた。

「しんぱんがいないのにかってに試合をはじめるな!」

 色が白くて線の細い、優しげな容貌。軽い体を雪にとられて、ヨタヨタと頼りなくこちらへ駆けてくる。サラサラしたプラチナブロンドを肩の下でぴしりと髪を切りそろえた姿は、まるで男装の少女のようにも見えるが、彼はエーベルハルトの兄、フリートヘルム。れっきとした少年だ。

「ツヴァイ、大丈夫……?」

「うん」

 気遣わしげに声をかける優しいフリートヘルムに、ツヴァイは笑顔で頷いた。

 二人の皇子とはすぐに仲良くなった。

 孤児院にいた頃は誰とも話さずに過ごすのが当たり前だったのに、不思議なものだ。幼い皇子達はツヴァイが孤児であることは理解していたが、そのことが三人の友情に影を落とすことはなかった。ただ、兄弟の他に子供のいなかった城に、新しくやって来た友人として彼を受け入れた。



「よーし、じゃあ、もう一回だ!」

 エーベルハルトが張り切って剣を構え直す。こういう決闘ごっこは、皇子達の最近のお気に入りなのだ。

「では……コホン」

 フリートヘルムがわざとらしく咳払いをすると、エーベルハルトは慌てて背筋を伸ばす。ツヴァイも、同じ玩具を受け取って向き合った。

「まいった、って言ったら負け。転んでも負け。泣いても負け。そうほう、よろしいか」

 いつもの作法にしたがって、二人で向き合って礼をする。

「ツヴァイ、てかげんは無しだぞ!」

 兄の合図を待って、エーベルハルトは刃のない剣で威勢良く斬りかかった。

 ツヴァイは、皇子達の遊び相手として城に引き取られたわけではない。彼は今、この城で皇帝アドルフを守護する【二本目の剣】となるべく教育を受けているのだ。 強い一本目のアインは皇子達のヒーローだった。

 エーベルハルトは、同じ子供でありながらアインに教えを受けているツヴァイのことを、兄と同じくらい尊敬しているようなのだ。

「えいっ!」

「っ!」

「とりゃ!」

「わわっ」

 弟分に何とか格好の良いところを見せたいが、エーベルハルトの期待は過大すぎて、今のツヴァイでは少々実力が追いつかない。

 すばしっこくて、その上むちゃくちゃに打ち込んでくる攻撃に、だんだん余裕のあるフリも出来なくなってくる。怪我をさせるわけにはいかないのに、アインの真似をするのに熱心なエーベルハルトは、時々まぐれあたりで急所を狙ってくるのだ。危なくて仕方がない。

 フカフカの新雪だった場所が子供達の足跡で踏み固められ、今にも滑って転んでしまいそうだ。転んで試合終了になったら、エーベルハルトはきっと落胆するだろう。けれど……転ばせて皇子に怪我でもさせたらもっと大変だ。

 どうしよう、と、思った刹那のことだった。

 ふいに大きな雪の塊が飛んできて、見事に顔に命中する。と、視界がばっと白く冷たくなって――動転してそのまま足が雪の上を滑る。

「皇子の勝ちぃ!」

 おどけた声、アインだ。見てたんだ。

 少年は慌てて身を起こし、決闘妨害の犯人を探す。周囲はぐるりと浅い林だ。どこかの木の上にでも身を隠しているのだろうと思ったけれど、アインは既に皇子達とじゃれ合っているところだった。

「アイン! じゃましないで」

 抗議の声をあげながら走り寄ってきたツヴァイの雪だらけの頭を、アインの大きな手のひらが雑に撫でた。

「よけるしか能が無いくせにカッコつけるから、皇子に加勢してやったまでだよ」

 こちらを見下ろす、太陽のような笑顔と、夜みたいに真っ黒な長い髪。彼は優しくて、気まぐれで、圧倒的で、いつでも少年を翻弄する。この一年で、ツヴァイの身長もだいぶ伸びたけれど、まだまだ大人の彼にはほど遠くて、こういうときはちょっと悔しい。

「アインの教え方が悪いの」

「ほーお、言ってくれんじゃねぇの」

 言葉と同時に足が地面から離れ、今まで見上げていた人なつっこい笑い顔が近くなる。

「じゃ、今日から稽古のやり方を考えなおそっかなー」

 二番目ツヴァイ、なんていう投げやりな名前を少年につけたのはアインだ。以来、毎日いろんなことを教えられてきたけれど、彼はツヴァイを子供扱いしないかわり、自分も全然大人らしく振る舞わない。だから、今もってアインが先生なんだか友達なんだか分からないのだ。

「アイン! ずるい! 僕も!」

「僕も……!」

 ツヴァイが言葉を返すより先に、皇子達がアインの足にとりついて、自分も抱っこしてくれとせがむ。

「うわっ、三人は無理だって……」

 エーベルハルトが有無を言わせずよじ登ってきたので、アインはツヴァイを下ろして、その代わり二人の皇子を両腕で抱き上げた。

「うっわぁ、お前ら一段と重くなったな。そろそろ二人一緒は無理だぞ」

「だいじょうぶだよ!」

 目線が高くなって、二人は歓声をあげ、声を揃える。

「いやいやいや、さすがにもう来年あたり赤ん坊は卒業してもらわねぇとなぁ」

「僕は赤ちゃんじゃないよ!」

 フリートヘルムはパッと赤くなって抗議する。彼は最近、兄としての自覚を確立しつつあるらしい。

「だよなぁ。ルーティは?」

 アインは満足そうに頷いて、黙り込んだままの弟皇子をのぞき込む。

「やだ!」

 てっきり、兄に対抗心を燃やすものだと思われたエーベルハルトだったが、彼はブンブンとかぶりを振って、ぎゅうと青年の首根っこにしがみつく。そして、らしくない弱々しい声でつぶやいた。

「……僕にも剣おしえて」

 エーベルハルトの声はいつになく神妙だ。アインはそれに気付いているようだったが、冗談めかしてはぐらかす。

「皇子様にはそーゆーのはいらないんだぞ。勉強しろよルーティ」

 幼い皇子は、顔を上げようとはしなかった。

「……僕もツヴァイみたいに……父上のおへやにすみたい」

 アドルフの二人の息子が、父と触れ合う機会は少ない。そして、アインとツヴァイは、主人であるアドルフの居室をすみかにしていた。

「そっかぁ……」

 皇子の気持ちを察したらしいアインは、一瞬考え込んで、すぐまた笑顔に戻る。

「一人部屋は寂しい?」

「寂しい」

 すっかり拗ねてしまったらしいエーベルハルトは、やっぱりアインの肩に顔を埋めたまま頷いた。

「素直だなぁ。じゃあ、リートは?」

「えっ……」

 フリートヘルムが目を丸くする。ここで自分に話を振られるなんて思っていなかったらしい。

「僕は……」

 ツヴァイは、三人のやりとりを黙って見つめていた。

 日頃なかなか会えない父を慕うエーベルハルトが、自分がそのアドルフの部屋で暮らしていることを日頃から羨ましく思っているのには気付いていた。自分でもちょっと申し訳なく思うことがあるくらいだ。

 フリートヘルムの気持ちを聞いたことは無いが、彼らは仲良しの兄弟だ。たぶん、彼も弟と同じことを言うだろ――

「僕は、寂しくない」

 兄の口から零れたのは、意外な言葉だった。

「おっ、さすが兄さんだな」

「でも……」

 言いよどみ、フリートヘルムは目を伏せ、唇を噛む。

「……母上にあいたい」

 震える声でそうつぶやいた、兄皇子の白くすべらかな頬に、長い睫毛の影が落ちる。アインとアドルフにこの城に連れてこられてから随分経つ。けれど……今ではすっかり仲良くなったこの二人の皇子の母親には、会ったことがない。



 その後、皇子達を乳母に托し、アインと二人で裏庭の森へ向かった。日々の日課である、剣の稽古のためである。

 皇帝の剣は、その名前の通り、刀剣の類を得物とする戦士である。

 けれど平穏な日々の中で、主人を守って戦うのが役目なのだと言われても、ツヴァイにはいまひとつピンとこない。一体、誰と戦うというのだ。

 とはいえ、拾われた身で贅沢もいえない。使い物にならないと思われて孤児院に戻されでもしたら恐ろしいので、言われた通りに日々努めている。

 ――とはいえ今はまだ、稽古中アインがヘラヘラ笑いながら斬りかかってくるのから、必死に逃げ回っているだけのような状態だ。

 森の中をサクサク歩いていく、隙だらけのアインの後ろ姿を見上げて、ツヴァイは少し考えて、口を開く。 

「あの……アイン」

 これから稽古をしなければいけないのだから、気になることは早めに聞いてしまった方がいい。

「何だ?」

「皇子達のお母さまは、しんでしまったの?」

「んー……」

 アインはいつもの明るい調子を崩さずに、振り返り、ニッと笑った。

「俺が殺したよ」




 結局、その日の稽古は上の空で、随分と痛い目に遭わされる羽目になった。

 アインは手加減してくれるが、こちらが集中力を欠いた瞬間には容赦なくなまくらの刀でえぐられる。おかげでいつも体中痣だらけで、これだけ見ると随分哀れな子供みたいだ。

 けれど――今日は、身体の痛みはあまり気にならない。だって、大変なことを聞いてしまった。

 皇子達の母といえば、アドルフの妻のはず。それがとても重要な人物であることくらいは、幼いツヴァイにも理解できる。

 だって、アインにとって誰よりも大切なのは、主人であり、親友でもあるアドルフなのだから。

(アドルフは、知らないのかな……)

 知っていたら、アインと親友でいられるはずがないだろう。もしかしたら、聞いてはいけないことを聞いてしまったのではないだろうか。

 心臓が早鐘を打って、不安で眠れない。

 暗くて高い天井を睨み、寝台の中で何度も寝返りをうって、どうにかやり過ごそうとするが、うまくいかない。

 この部屋は皇帝の寝室で、そこにアインとツヴァイのベッドも置いてある。

 アインが言うには、昔は部屋がアイン用の場所とで二つに区切られていたのだけれど、面倒なので壁を壊して、大きなひとつの部屋に改造して暮らすようになったのだという。

 隣のベッドは空だった。夜中にアインが部屋に居ないのはよくあることだ。大抵、自分が眠っている間に部屋に戻ってきて、朝はアドルフに怒られるまで寝ていることが多い。

 自分が今ここにいられるのは、二人がいるからだ。彼らの間に秘密があるかもしれないなんて、今まで考えたこともないことだった。

 秘密は嫌だ。嘘も。

 安心できる場所を手に入れた幸福がぐらぐらと揺らいで、足下が溶けていくような気がする。

 どうしよう。

「……眠れないのか?」

 部屋の奥から、静かなアドルフの声がした。

「あっ……」

 驚いた拍子に思わず声をあげてしまう。これでは寝たふりはできない。

「あの……大丈夫です。アドルフ……」

 明かりの落ちた部屋は暗く、アドルフの姿はよく見えないけれど、彼が闇の中で苦笑する気配がふわりと伝わってくる。

 少年をここに連れてきた二人の保護者のうち、アインは師であると同時に友達だけど、アドルフのふるまいはまるで――主人である前に、優しい父親のように思えるのだ。

「おいで、ツヴァイ」

 優しい声に、抗うことは難しい。言われるまま、裸足のつま先がフカフカした絨毯に触れる。ベッドを抜け出して、広い部屋を向こう岸まで渡って、皇帝の寝台によじ登る。

 時折いろいろな理由で訪れる、不安になってしまう夜を、アインにはからかわれるけれど、アドルフは笑わない。黙っていつも一緒に眠ってくれた。

「アドルフ……」

 あたたかい腕の中に滑り込むと、アインとちょっと違う甘い匂いがする。穏やかで落ち着く、大好きなアドルフ。

「どうした、何か困ったことでもあったか?」

 長い指がゆっくりと髪の間を滑る。頭を撫でられるのは心地よいものだということを、孤児院にいた頃は忘れていた。

「あのね……」

「なんだ、言ってみなさい」

 無条件に甘やかされる幸福感の中、幼い少年が沈黙を貫くことはできない。

「皇子たちのお母さまは、死んでしまったの?」

「え……?」

 たぶん、予想外の問いだったのだろう、アドルフは少し驚いたようだった。悪いことを言ってしまったかなと思ったけれど、彼は気を取り直したように言った。

「二人が……何か言っていたか?」

 怒っても、悲しんでもいない声音に、安心してツヴァイは顔を上げる。

「母上にあいたいって、リートが」

「フリートヘルムが言ったのか? 母が死んだと」

「ううん……アインが……」

「アインが?」

「……殺した、って」

 震える声で告白した少年に、アドルフは嘆息する。

「あいつ……」

 小さく呟いた声に含まれる感情はツヴァイには分からない。ただ、アドルフがすぐに微笑んでくれたので、絶望せずにすんだ。

「心配ないよ、ツヴァイ。妻は生きている」

「えっ……」

 嘘だったんだ、と思うと同時に、怒り半分、安堵半分。

「だから、お前が気に病むことはない」

「じゃあ、リートはお母さまに会える?」

「それは……」

 会える、と、言ってくれるはずだと思って訊ねたのに、アドルフは黙り込んだ。「……彼女はこの城にもう住んでいないから、難しいんだ」

 返ってきた言葉は寂しいものだったけれど、希望はあった。

「遠くにすんでるから?」

「……そうだな」

「会いに行けないくらい遠い?」

「ああ」

「でも――」

「ツヴァイ、お喋りはおしまいだ。もう眠りなさい」

 アドルフの手が目を覆って、夜に慣れた目があたたかな暗闇に包まれると、緊張が緩んだ身体にどっと疲れが押し寄せた。

 そういえば、稽古でアインにやられた場所もズキズキと痛む。アドルフの言うとおりだ。

「今日、ここで寝ていいの?」   

「ああ、構わない」

 優しい声。

 嬉しい。これは自分に向けられたものだ。

『僕もツヴァイみたいに……父上のお部屋にすみたい』

 昼間聞いた皇子の台詞が、頭の奥の方に響いた。

 罪悪感に心臓がズキンと痛む。

「おやすみ、ツヴァイ」

 ごめんねルーティ。

 今はアドルフを独占させて。




 窓の外の空はどんよりと重く、無数の粉雪が音も無く舞い落ちる。

 今年は大雪で、ツヴァイは、こんな大量の雪を見たことがなかった。

「あー 外であそびたいなぁ」

 子供達にそれぞれの課題を与え、家庭教師が席を外したのを見計らって、暖かな部屋の中からおそらく極寒であろう窓の外を見やり、それでもエーベルハルトは残念そうにこぼす。

「今日は庭はむりだよ、ルーティ」

 皇子達と一緒に教育を受けているツヴァイが小声でなだめる。今が勉強の時間でなくとも、今日は外で遊ぶのは無理そうだ。雪が全然やまない。

「そり遊びがしたい」

「怒られるよ」

「うー……」

「べんきょうが終わったら、渡りろうかで遊べばいい」

 静かに算数の問題集を解いていたフリートヘルムが、ちょっとだけ顔を上げて言った。

「そり!」

 弟が食いつくと、すぐに彼が喜ぶ解決策を提示する。

「アインに頼んでみよう」

「やった!」

「ちゃんとべんきょうを終わらせないと、遊べないからな」

「はぁい!」

 さすがに一緒に育ってきただけあって、ツヴァイよりフリートヘルムの方が随分弟の扱いが上手い。エーベルハルトはまもなくウキウキとドリルに向かいはじめ――しばらくするとフリートヘルムの方はペンを置いた。

 彼が課題を終えたことに気付いたツヴァイは、少し考えて、ちょっと椅子を寄せる。

「ねぇ、リート」

 小声で呼びかけると、フリートヘルムは振り返る。まっすぐな金髪がサラッと揺れて、こちらを見る目の表情がちょっとアドルフみたいだ。エーベルハルトはこんな顔はしないから、皇子たちは、それぞれ父から別々の特徴をもらったのだろう。

「なんだい、ツヴァイ。分からないところある?」

「ううん、今日はだいじょうぶ」

 彼は子供なのにいつも落ち着いていて感心する。フリートヘルムとは同じ年だけれど、彼と話すと、兄と話しているような気持ちになるのだ。

「あのね、昨日、アドルフに聞いたんだけど……」

 ツヴァイは嬉しそうに意気込んでそう切り出す。

 皇子達が父に会える時間が少ないし、たぶんアドルフはこういうことを彼らにいちいち伝えないと思うから、ここは是非、自分から彼らに伝えてやらなければと思ったのだ。

「リートのお母さま、お元気だって」

 遠くに住んでいても、生きているなら会いに行ける。きっと、皇子は喜ぶと思ったのだ。けれど、

「…………うそだ」

 少年の期待に反し、フリートヘルムは、父の面影を持つ優しい微笑みを凍り付かせ、震える声で呟いた。

「う、うそじゃないよ」

 慌てて否定する。だって、昨日アドルフにちゃんと聞いたもの。

「うそだ! 母上は死んだ!」

 兄が突然大きな声を出したので、隣のエーベルハルトがギクリと固まって、それから、そろりと目だけで様子を伺う。彼の性格なら何か口を出しそうなものだったけれど、弟皇子はそのまま何も言わず、聞こえないふりをした。

「母上は……母上は……」

 フリートヘルムは小さな肩をふるわせて、しばらく耐えていたが、やがて瞳を潤ませ、涙と共に言葉が漏れ出る。

「父上が……殺したんだ」

 か細い声が告げた、予想もしない言葉。

「な……にを、アドルフがそんなこと、するわけが」

「するよ」

 言いかけた言葉を、フリートヘルムが遮る。

「ツヴァイは父上の剣だから分からないんだ……あの方は、ごじぶんの剣だけは大事にするから。けど……父上のご不興をかったら、誰も生きてはいられないんだぞ。だから、母上は死んだんだ」

 嫌に断定的な物言い。アドルフは彼の父親なのに?

「ちがう……どうして、そんなこと……」

「僕、知ってるんだ。父上は母上のことが嫌いなんだ。僕のことだって……」

 ぽたり、ぽたりと大粒の涙が、課題を解いたノートに落ちる。隣で知らないふりをするエーベルハルトも、青い顔でじっと手を止めたままだ。皇子達にとってこれが、触れてはいけない話題だったことに、ツヴァイはその時ようやく気付いた。

 けれど――おかしい。そんなのはおかしい。

 アドルフが息子達と過ごす時間が少ないのは、彼が皇帝という立場で、とても忙しいからだ。

 自分は確かにアドルフには優しくしてもらっているし、彼らよりアドルフの側に長くいる。けれど、それは、そういう役目なのだし、単に同じ部屋で寝起きしているからという部分が大きい。アドルフが息子を避けているわけではないんだ。

「リート、僕は……」

 分かってないのはフリートヘルムの方だ。アドルフが皇子達きみらを愛してないわけがない。

 そう言いたいはずなのだけれど、上手く言葉がまとまらない。

「父上は……僕のことだって、きっとお嫌いだ。僕は……僕は、長男なのに、紫がないし……」

 幼い声に、暗い絶望が滲む。

 紫、とは、彼ら一族の持つ瞳の色のことだ。アドルフの目は、菫の花のように鮮やかな紫色で、青い目の皇子達とは違う。

 この、『目の色が紫かそうでないか』が、アヴァロン家の人々には重要なことなのだと、いつかアインから聞かされた気がする。それ以上難しいことは、その時のツヴァイにはよく理解出来なかったけれど。

「リート……」

 けど、君は勘違いしてる。

 アドルフは優しい。僕はよく知ってる。

 その主張が声にならなかったのは、皇子達以外にも、城内の多くの者が、皇帝アドルフに少なからず畏怖の念を抱いているらしいことに、ツヴァイ自身、気付きつつあったからかもしれない。

 広いアヴァロン城で暮らしているのは、アドルフと彼の二人の息子、アインと自分、家令のジェームズに、皇子の乳母達。それから、色々な仕事で帝室に使えている兵士や使用人達だ。そして、城で暮らす者の多くは、この城の主であるアドルフを、どことなく恐れているように見えた。

 あんなに優しいアドルフなのに、どうして皆は怖がるんだろう。ツヴァイにはさっぱり理解出来ないことだった。


 アドルフと息子達は、同じ城の中で暮らしながら、まるで別々の家族のように、異なるリズムで生活をしていた。別の区画で生活し、食事も共にすることはない。時々、勉強の成果の発表だとか、日々の報告だとかで親子の面会の場はあるのだけれど、それだってよそから来た貴族達が皇帝に謁見するのとさほど変わらない。

 ツヴァイがこの城に来た時からずっとそうだったし、皇子達も日頃そのことに不満を表すことも無かったから、それがここのなんだろうと思っていたのだけれど。

 フリートヘルムが父のことをそんな風に思っていたなんて、ショックだった。

 アドルフは、もっと皇子達に近く暮らして、子供達に伝えるべきなんじゃないだろうか。

 彼らが、ちゃんと愛されていることを。

「……ツヴァイ、起きなさい」

「ん……」

 いつの間にかまぶたが落ちていたことに、目を開いて気付いた。部屋に差し込む日が深い。夕方だ。

「そろそろアインが迎えに来るぞ」

 勉強を終えてアドルフの元に戻って、執務をする彼の隣で考え事をするうち、眠ってしまっていたらしい。

「ごめんなさい……」

 日が落ちたらまた少しアインと稽古がある。頭をはっきりさせておかなければ。

「少し、無理をしているのではないか」

 アドルフは少し心配そうに覗き込む。

「アインはやりすぎだ。お前はまだ幼いのだし、勉学を優先させるように言っておこう」

「だ、だいじょうぶ。ちゃんとできる……」

「なぁ、ツヴァイ」

 執務の手を止め、少し改まった調子で語りかける。

「ひとつ、言っておきたいのだが」

「はい」

「アインは、お前を私のもう一人の剣に育てるつもりみたいだが、私は、必ずしもそうじゃなくてもいいと思っているよ」

「えっ……」

突き放すような言葉に聞こえて、少年は驚いて主を見上げた。孤児であるツヴァイにとって、怖いのは再び一人になることだ。彼の不安を感じ取ったらしいアドルフは、苦笑して付け加える。

「もちろん、大人になるまで面倒は見る。好きなだけここで暮らしていて良いから、安心しなさい」

「僕は……いてもいなくてもいいってこと?」

「違う。もちろん側にいて欲しいよ、ツヴァイ」

 言って、あくまで不安そうな少年の額を、アドルフの白くて長い指が、慈しむようにちょんと小突く。

「でも、どんな道を選ぼうとも、もうお前は私の家族だから、無理に私のものである必要はないんだ。わかるか?」

 皇帝の剣は、人ではなく主人のであるとされる。つまりツヴァイは、この部屋に置いてある家具調度品の類と、極端にいえば同じ扱いだということだ。

「僕は……」

 戸惑う少年を膝の上に抱き上げて、囁く声は低くて甘い。

「お前は自由なんだよ。覚えておきなさい」

 未来のない孤児の自分を引き取って、全てをくれたアドルフ。こんな自分を家族だと言ってくれる人。なのに――どうして。

「……ねぇ」

 皇子達が、そんなアドルフを誤解するのは我慢がならない。知らず知らずのうちに、言葉が口をついて出ていた。

「リートと、ルーティと……もっと一緒にいてあげて」

 一緒に過ごす時間さえ充分あれば、彼らもアドルフが本当は恐ろしくなんかない、優しい人なんだって分かるはずだ。

 そうしたら、フリートヘルムはあんな悲しい涙を流すことはないし、エーベルハルトだって自分にやきもちを焼く必要はなくなる。

「……お前は優しい子だな、ツヴァイ」

 怒りも、驚きもせず、アドルフは静かに言った。

「二人には、乳母達がついているから、大丈夫だ。立派に育つよ」

 まるでそこに、父親である自分が含まれていないかのような物言い。

「……優しくしてあげないの?」

「それは……」

 アドルフの菫色の瞳がきらりと輝いて、揺らめく。

「……出来ないんだ」

「どうして……」

「私には……あの子らに愛される資格がないんんだよ」

 若い皇帝は、微笑みを口元に貼り付けたまま、独り言のようにポツリと落とす。

「これ以上妻……アレキサンドリーヌを、裏切りたくない」

 乾いた瞳に、まぼろしの涙を見た気がした。

 親子でいることにどんな資格がいるのか、幼いツヴァイには分からない。けれど、ああ、悲しい顔をさせてしまった。こんなこと、言い出さなければよかった。一番大切にしなければいけない人なのに。

 後悔の気持ちでいっぱいになって、少年は主の腕の中でもがき、身をよじって白い首筋に飛びついた。

「ごめんなさい」

「お前は悪くないよ、あの子達も。悪いのは……私だから」

「アドルフ、泣かないで」

「大丈夫だよ」

 大げさだな、と、皇帝は苦笑して、震える少年の背をさする。

「お前は私の分も、皇子達と仲良くしてやっておくれ」

 ここにいない皇子達の母親がどんな人物であれ、少なくとも皇子達は、彼の言葉や、温もりを欲している。そんなに難しいことなのだろうか。

 愛してないはずがないのに。

 ――けれどもう、アドルフにそのことを尋ねることは出来なかった。




 北風が雪雲を吹き飛ばして、冴えた大きな月が照らす夜だった。

 月明かりを頼りに、細い足場をそろりそろりと歩く。

 ここはアヴァロン城の大屋根の上。今ツヴァイが渡ろうとしているのは通路ではなく、小さな足がギリギリ乗せられるくらいの、長い棟の上である。

「ほらほら、もっと早く」

 屋根の向こう側で、アインが手招きする。ここまで来いと言うのだ。

 雪の残る庭がやたら遠く見える。ここで足を滑らして落ちたら、どうなってしまうのだろう。

 アインは、アヴァロン城の中に他の者とは違う道を持っている。屋根の上とか、窓枠、外壁の飾り、渡り廊下の天井裏……普通に考えれば通れそうにない場所を移動に使うのだ。隠れて動き回ることができるように、ということが理由らしい。

 城中のあらゆる場所にその道は通じていて、そのおかげで、アインなんていつもどこから現れるか見当もつかない。

 夜はそんな、城内に張り巡らされたの使い方を教わることが多かった。

「……っと……とと……」

 こういう危ない道は、集中しなければいけない。己の身体の軸を、この屋根にまっすぐ立てて、それを揺らさず前に進む感じ。

 少年が身につけているブーツはアインと同じ特殊な加工が施されたもので、普通の靴で歩くよりずっと不安定な足場を捉えやすい装備である。こういう場所を歩くのに適したものではあるけれど、それもしっかりした身体能力が伴ってはじめて力を発揮するものだ。実際、アインは拳ひとつ分の足場があればいつまででも立っていられるし、この細い棟の上を風のように駆け抜けることも容易だ。

「おぉい、バランス悪ぃ。落ちたら死ぬぞ?」

 アインの雑な叱咤が飛ぶ。そんなこと自分が一番分かっている。話しかけないで欲しいと、細切れの集中の狭間でツヴァイは思う。

「こないだはもうちょっと出来てたろ」

 アインの言うとおりだった。今夜はどうしても他のことを考えてしまう。フリートヘルムのことを。エーベルハルトのことを。そして、アドルフのことを。

 孤児院にいた頃は、自分に大切な人ができるなんて思ってもみなかった。大して昔のことではないはずなのに、今はもう大昔のことのようだ。

 何か、自分にできることは無いのだろうか。

 刹那、風もないのに身体が揺れる。

「あっ……」

 ぐるりと視界が巡り、目に飛び込んできたのは――白く輝く満月。

 慌てて踏もうとした場所に、足場は無かった。

「………――っ!?」

 しまったと思うのと同時に、肩口に衝撃と痛みが走る。バランスを崩して横倒しに屋根に落ち、したたか打ち付けたのだ。衝撃に何も考えられず、弾んだ身体は動かない。

 落ちたら――――

「おいっ!」

 声と共に、ガクンと身体にブレーキがかかって、静止する。

 足は宙に浮いたままで、首が苦しい。

 慌てて屋根を駆け下りてきたアインの手が、すんでのところで滑落する身体に届いたらしい。屋根の途切れる寸前で、猫の子でもつまむように襟首を掴んで吊されていた。

「お前なあ。こんな時によそ事を考える馬鹿がいるか」

 呆れた声とうらはらに、ホッとした顔でこちらを見る。何だか妙に安心してしまって……少年の唇は、謝罪と言い訳と感謝の言葉を飛ばして、別の言葉を紡いでいた。

「……どうして、お妃さまを殺したの?」

 びゅう、と、低い音がして、大屋根を突風が走った。月を背にしたアインの長い黒髪が激しくたなびく。

「お前……それ信じてたの?」

「ううん。アドルフは生きてるって」

「だったら――」

「リートは、アドルフが殺したって」

 ツヴァイの不安に、アインは気付いたようだった。短く嘆息して、軽い体を担いだまま、トン、トン、と軽やかに下った屋根を上っていく。

「皇子、そんなことを言ったんだ」

「……うん」

「アドルフに言った?」

「いってないけど……アドルフは、皇子たちに優しくできないって」

「…………」

 アインは黙り込んで、ツヴァイを少し広い場所に下ろして座らせる。

「肩、動くか?」

「ん……」

「じゃ、大丈夫だな」

「……ごめんなさい」

 俯くツヴァイの髪を、大きな手がぐしゃりと撫でた。

「そーゆー悩みがあるときは、先に言え」

 月光に照らされた笑顔は、心なしか悲しそうに見える。そして、アインは少年の隣に腰を下ろすと、夜を見上げて言った。

「アレクサンドリーヌは、アドルフを殺そうとしたんだよ」

「えっ……」

「だから俺は確かに、あいつを殺そうとした」

 満月に溶ける告白。いつも気軽に嘘をつくアインだけど、これはたぶん、そうじゃない。少年は黙って彼の昔語りに耳を傾けた。


 曰く、皇后アレクサンドリーヌは、二人の皇子を産んだ後、夫アドルフを二度襲ったのだという。アドルフは妻に刺され、そのことをアインに隠そうとした。けれど、結局その事実は明るみに出ることになり――

 最終的には、アドルフが妻を城から追放する形で決着したのだという。

 二人の皇子と会うことはその時に禁じたらしい。婚姻関係は継続しており、対外的には別居という形で伝わっている。

「アドルフは、あいつなりに彼女をすごく大事にしてたからな。守りたかったんだと思う。けど……リートとルーティは、アレクサンドリーヌがどうして城からいなくなったのかを知らないからな。色々……誤解するのは仕方ないんだけど……」

 話す調子はいつもと変わらないのに、彼の痛みが流れ込んでくるような気がして悲しい。そっと手を伸ばして冷たい指に触れると、アインは少し迷ってから、少年の手を、すがるように握りしめた。

「アドルフは――悪くないんだ」

 二人の他には誰もいない夜の下、彼らしくない心細さを含んだ声は、少年の知らない傷跡をぼんやりと縁取って、消えていった。

 同じ屋根の下で、彼らは互いを想い合いながら、別々の孤独を見つめている。

 それはとても、寂しいことだと、少年は思った。






 時は流れ、城で過ごす幾度目かの春が訪れていた。

「ツヴァイ、おみやげは何がいい?」

 集中して課題を解いているところに差し込まれた、エーベルハルトの浮かれた声に、我に返る。手にしたベリス自治区の観光案内を眺めて、彼はどうやら勉強が全く手についていない様子だ。

「パンフレットは後にしろよ、ルーティ」

 フリートヘルムが呆れた顔で睨むが、弟皇子は相変わらず懲りずに上機嫌で笑っている。

「兄上も一緒に来れば良いのに」

 エーベルハルトは来月から、乳母と共にベリスに旅行に出かける予定だ。何でも、あちこち行ってみたい場所があるらしく、家庭教師を連れて行くという離れ業を思いついて、勉学が滞ると渋る家令を黙らせた。

「僕はお前ほど暇じゃないんだよ」

「えー、学校に入るのってそんなに準備がいるの?」

「そりゃあ、そうだよ」

「真面目ですなぁ!」

「普通だよ……」

 フリートヘルムは、年度が改まったら、城を出てローザンヌの寄宿舎学校に入るという。大学を卒業したらまた城に戻ってくるという話だが、それは随分と先のことである。

「とにかくお前、旅行先でもきちんと勉強するんだぞ。全部父上に報告が行くんだからな」

「わーかってるって……」

「どうだか。せめて僕の代わりにツヴァイが一緒に行ければ良いんだけど……」

「兄上、ツヴァイは父上のだもん。無理だよー……あっ、このモスクには絶対行ってみたい!」

 エーベルハルトは、いつの間にか、ツヴァイが父の側にいることを羨ましがらなくなった。彼はいつも新しい遊びと、城の外の世界のことで頭が一杯で、父のことも母のことも口にしない。

 子供達は日ごとに変化を続ける。ツヴァイも、はじめの頃に比べると随分たくましく、アインとの稽古にもついていけるようになりつつある。今日のように二人の皇子と一緒に勉強時間を過ごすのも、きっともうじき終わりだろう。

 日々は穏やかで、皇帝と皇子達の関係だって悪くはない。けれど――

 あの夜心に刺さった棘が抜けない。あれから、アドルフとも、アインとも、皇子達とその母親の話をしたことはなかった。

 それは僕の知らない、過ぎた時の過ちの物語。

 もはや手は届かず、取り返しもつかない。何も出来ないのだ。だけど、いや、だからこそ。

 少年は既に、心に決めていることがあった。




「アドルフ、そっち行ってもいい?」

「……ああ。構わないよ」

 いつしか、部屋に二人だけの夜は、何となく隣で眠ることが多くなった。

 もともと、大人に添い寝してもらわないと眠れないような子供ではないのだけれど、この部屋もアドルフの寝台も広すぎて、何となく彼を一人にしてはいけないような気がする。

「甘やかしすぎだと、アインに怒られるんだけどな」

「僕が一緒の方が、安全だからいいでしょ」

「ほう、それはそれは」

 苦笑するアドルフの温もりの中に滑り込んで、仔猫のように丸くなる。優しい気配に胸が満たされる。最近慣れたような気がしていたけれど、それはやっぱり、少年にとっては暴力的な幸福感だった。甘えてやっているつもりだけれど、やっぱり甘やかしてもらっているのかもしれない。

「また少し大きくなったな」

「そう?」

「背が伸びただろ」

「うん」

「全く、あっという間に成長するな、子供というものは」

「子供だったことがないみたい」

 笑い合い、かわされる言葉に大切じゃないものなんてひとつもない。

「……確かに、遠すぎて忘れてしまったよ」

「年寄りっぽい」

「お前よりはな」

「ふふふ、だけど僕、すぐに大人になるよ。二人に追いつくように」

 僕の知らない、悲しいことをいっぱい隠し持って生きているこの人が、せめて寂しい夜を過ごすことがないように。

「あのね、アドルフ、ひとつ言っておきたいんだけど」

 少年は、小さな身体に見合わない、大人びた顔で囁く。

「大きくなっても、僕はどこへも行かないから」

 静かに、けれどキッパリと。

 いつの間にか、道は自ずから見えていたのだ。

「ずっとここにいる」

 迷いのない言葉が何を意味するかを悟り、皇帝の孤独な菫色に、喜びと戸惑いの光がよぎる。

 いつか皇子が己に受け継がれなかったことを恐れて泣いた、この紫はエウロを治める権力者の印。始祖の血を確かに受け継ぎ、皇帝となる資格と正当性を示すものだ。この色を持つのは、アヴァロンにアドルフただ一人。

 だから、これは、彼の孤独の証でもある。

「……私と?」

 おずおずと差し出された問いかけに、黙って頷く。

「アインと二人で。あなたを守るものになる」

 生まれた村が消滅して縁ある者が全て死に絶えた時、自分の生は一度終わっている。だから今ここにいる自分は、幸せな終わりの続き。こうして、心から守りたい人の側にいるのだから、不確かな自由なんていらない。

「それでいいのか? ……本当に」

「うん」

「お前はいくらでも、他の人生を歩んでも構わないのだぞ?」

「他の道なんてないよ。アドルフ」

「生涯、私に縛られることになってもか?」

「いいよ」

「ツヴァイ……」

 主人なんだからもっと命令してくれてもいいのに、困り顔のアドルフは何だか不安げで、自信なさそうで、あとやっぱり、皇子達に似てる。

 ――もう、そんなことは言わないけれど。

「僕には、ここの他に居場所はないから」

 悲しい思いをしないでほしい。僕を必要としてほしい。何もかもあなたにあげるから。

「それなら……私と同じだ」

 求め合う孤独な心が繋がって溶け合い、大切な約束に形を変えてゆく。

「お前が生き延びてくれたこと、神に感謝せねばならないな」

 菫色の目を伏せて、アドルフの唇が嬉しそうな微笑みの形に変わる。

「お前が剣となってくれるなら、私は生涯、お前を愛そう。もう決して、一人にはしない」

 遠い場所から来た、不幸な少年は、こうして皇帝アドルフの二本目の剣となった。この夜の誓いは破られることはなく――彼はその後、その命の最後の一瞬までを、孤独な主に捧げることになる。

 これはその記憶の、最初の一ページである。

 

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