1+2(GC573)

 あの村が地球儀のどのあたりに存在した場所だったか、少年は知らない。

 思い出せるのは、気が遠くなるような飢えと、肺を焼く腐臭。

 LENSレンズと呼ばれるそのウイルスによって全滅した集落は、当時、少年の生まれた村を含めて、いくつもあったという。そして彼のように、感染地域から助け出された人間は少なかった。生存者には子供が多かったといわれるが、軽症で済んだ者達は皆、命と引き替えに生殖能力を奪われていた。

 大人はそれをまだ小さな彼に話さなかったが、食堂で時々流れるニュースを聞いて、幼いなりに彼は理解していた。

 『生還者は子供をつくれない』

 つまり、この先──家族を得ることはないのだと。


 朝食を食べてすぐ、服を着替えてホールに降りてくるようにと言われ、ああ、客が来るのだと察する。孤児院に貴族が慰問にやってくるのは、まぁ、珍しくはないイベントだ。急いで部屋に戻り、クローゼットからよそ行きの服を出して、ひとりで着替える。もう六歳だ。何だってひとりで出来る。

 施設から与えられた部屋は個室で、他の子供はよくそれを羨ましがったが、彼が誰かと同室になることはなかった。

 少年の体に潜むLENSウイルスが、今はもう他の人間に感染する可能性が限りなく低いということを、信じられない者は未だ多い。

 褐色の肌に、老人の白髪のような特異なホワイトブロンド。よく動く、大きな緑色の瞳。少年はいつも孤独だった。



「子爵様、この子が先ほど申し上げた……」

「ああ、君か。よく生き残ったな」

 職員の女に案内されて来たのは、二人連れの身なりの良い男だった。若そうに見えるのが少し意外だ。

 頭を撫でようとしたのだろうか、伸ばされた大きな手に、少年は思わず身を引く。男が色付の眼鏡をかけていたせいで、目が見えず、恐ろしかった。

「まぁ!」

 職員が非難めいた声をあげる。

「驚かせてしまったか? すまないな……ええと、名は……」

「…………」

 少年は口を開こうとしない。代わりに女は悲しそうに答えた。 

「申し訳ありません、この子、失語症で……こちらの言葉は、ちゃんと理解しているようなのですけれど……」

「それは……」

 男がかすかに眉を寄せるのが見える。顔色が読めない大人は嫌だ。

 少年は後ずさり、そして、男の前から逃げ出してしまった。



 孤児院の敷地は、小さな体には世界そのもののように広い。少年が身を隠す場所ならいくらでもあった。

 春の花が揺れる庭を兎のように駆けて、大きな楡の木の根元にうずくまる。ほうと息を吐いて、少年は口を開いた。

「……もう、だいじょうぶ」

 誰にも向けられない、自分自身を確かめるような、か細い声。

 彼の失語症が仮病であることを、大人も子供も、誰も知らない。


 自分の里親になりたいという人間が、おそらく現れないであろう現実を、彼は悟っていた。ワクチンの無い、恐ろしいウイルスを身の内に飼っている、あらかじめ未来を閉ざされた子供。

 そんな身を生かしてくれるもの──それは、同情だ。

 注意深く、大人の顔を観察して、憐憫の色が浮かぶと安堵した。うまくやれていると思った。従順にして、黙っている方が、大人はより哀れんでくれる。服や、菓子や、玩具をくれる。この場所に来る大人から引き出せる利益の中で、一番素晴らしいものだ。

 それは、優しくされるのと同じだった。だから少年は、自ら声を封印した。



「ああ、いたいた」

 唐突に、頭上から知らない声がした。ギクリとして顔を上げると、木の向こうから黒髪の男がひょいと顔を出していた。確か先ほど、眼鏡の男の隣に居た人物だ。追いかけてきたのだろうか。ここに来るまで、狭い抜け道をジグザグに走ってきたのに。

「なんで逃げんの?」

 男は人なつっこくそう言ってにかりと笑った。全然、大人らしくない表情だ。

「人見知り……は、してない顔だよなあ」

 なんだこいつは。大人のくせに子供の心を読まないでほしい。少年は苛立った。陽気そうな男の顔には、こちらに対する同情心が微塵も感じられない。とはいえ、よくある【病原菌】を見るような、嫌悪、もしくは恐怖に満ちた顔でもない。

「お前、名前はある? アドルフが知りたがってた」

「…………」

「ないのかあ。それか、覚えてない?」

「…………」

「まぁ、名前なんて自分ではどうでもいいよな。大事な人に、俺を認識してもらうための合い言葉みたいなもんだし」

 男は、少年が何も返事をしないのにお構いなしだった。勝手に隣に座り込んで、無遠慮に少年の目をのぞき込む。長い黒髪に、意志を秘めた瞳の色は鮮烈なディープブルー。黒ずくめの格好をした男なのに、眼差しが明るいせいか、なんとなく男の周りには光が集まっているような感じがする。

「でもさぁ、俺は思うんだけど」

 そして、男は言った。

「そーゆー嘘は、よくない」

 責めるような調子でなく、秘密は守るとでも言いたげに、唇の前で指を立てる。

 いや、これは、自分の声のことをさしているのか?

「…………」

 なぜ、ばれたのだろう。

 逃げ出したかったが、男に見つめられていると、なぜか身体が動かなかった。先ほどの独り言を聞かれていたのだろうか。

 もしそうだったら、言い訳はできない。

「…………聞いてたの?」

「何を?」

「さっきの……」

「知らないけど」

 男の腕が不意に伸びて、少年の頭をくしゃりと掴んだ。

「やっぱりお前、喋った方がいいな」

「あの……」

「堂々としている方がきれいだ」

頭に置かれた男の手が大きいのに、なぜかホッとする。なぜだか分からない。分からないけど、何か、自分が足下からドロドロと溶け出していくような、不安定で暖かくて、甘ったるい、何か。

「アイン」

 少年の心を知ってか知らずか、男はニコニコ笑いながら言った。どうやら、彼の名のようだった。

「な、お前の一番気に入ってる場所、教えてくれよ」

「気に入ってるって……」

「どっかないの?」

「ある……けど……」

「じゃあ、行こうぜ」

 パッと手を掴まれて、少年は驚いて手を引っ込める。

「どした?」

「その……ぼく、病気、うつる……」

 アインはきょとんとして首をかしげ、それからアハハとまた笑う。

「ばっか、うつるわけないだろ」

 こともなげにそう言った。


 訪れたのは、敷地の片隅に立つ、古い物置小屋だった。ここは良い場所だ。使われていない小屋なので大人は来ないし、子供達はオバケが出ると怖がって近寄らない。

「ほー、ここがお前の秘密基地か。やるな!」

「これ……」

 少年が見せたかったのは、小屋の壁一面に、絵画のように浮き出た雨染みだった。彼はこれが好きだった。薄く日が射す静かな場所に、細かい模様が無数に浮かぶ。美しくてずっと眺めていても飽きないし、見ているとだんだん、模様が人の顔のように見えて、そして、話が出来るような気がしてくる。

「お前、これが好きなのか」

 少年はコクリと頷く。そして、ひときわ大きく、力強い模様を指した。

「……おとうさん」

 模様につけた名だった。

「へぇ」

 アインは、短く答える。

「どうして、そんな名前をつけた?」

 分からないという代わりに、少年は首を振る。

 かつて、傍らで腐っていった両親を、恋しいと思っているつもりはない。失ったものは、取り戻せないと知っているから。だから、何故かは本当に分からなかった。

「わかんないなら、嘘をついてるんだよ。自分に」

 ぬっと伸びた手に、心臓を掴まれるような。嫌な感じ。

「違う!」

 少年は喚いた。

 哀れみが欲しいのは、その方が得をするからだ。本当に可哀想だからじゃない

「ぼくは……」

 この髪と肌の色も、身体の奥深く巣くう憎いウイルスも。全部が人と違うのだ。他の子供のようにただ家族がいないだけじゃなくて、これから先も決して家族は出来ない。親はいないし、親にもなれない。だからずっと、ひとりでいるのだ。そのために、上手くやららなければいけないのだ。誰もいなくても大丈夫なように。物言わぬ壁に友を作って。

 ひとりでいるために。ひとりでも寂しくないように。

 ──ああ、それは、つまり、僕は、ひとりで。

 それが、とても寂しい。

 目の奥が熱い。ぽろぽろ涙が溢れていることに、少年ははじめ気付かなかった。転んだって泣かないのに、寂しいのには、涙が出るのか。

 そんなこと、知りたくなかったのに。

「安心しろ。お前は小さいから、まだ知らないだけなんだよ」

 男は、やはり少しも憐憫を含まない声を放つ。

「家族っていうのは、血の絆だけじゃないんだぞ」

 意味が分からない。家族とは、親のことをいうのだろう?

「……なぁ、お前」

 瞳を揺らし、

「俺と来る?」

 僅かに迷うように、アインが訊ねた。それは、つまり、

「………僕の、さとおやに、なるの?」

 目を丸くして男を見たが、彼は違うと首を振る。

「親は俺には無理だなぁ。どっちかというと、先生?」

「せんせい?」

「そ」

「何の?」

「そりゃ、色々だよ」

 また笑う。そして、

「俺もさ、嘘をついてることがある」

 悪びれる様子もなく言った。

「嘘……何?」

「ひみつ。でも、俺と一緒に来るなら、教えてやるよ」

 だけど、と、アインは付け加える。

「来るなら、お前の全部をもらう。これは、そういう約束」

 まるで、絵本に出てくる悪魔のような言葉だ。

「けど、お前には、お前自身より大事なものができる。それは保証してやろう。

 何しろ、俺のを半分分けてやるんだから」

 ──笑う悪魔には、目が離せないような魅力があった。

 悪魔の誘いは、抗いがたいものだと相場が決まっている。だが、少年にとってもはや、ついていけば何がもらえるのかは問題でなかった。

 ただ、この、目の前の優しい手を取りたい。

 一緒にいてほしい。今だけじゃなくて、ずっと。


 その日、彼を連れ帰った若い貴族が、身分を隠した時の皇帝アドルフとその守護者であったことは、彼ら以外、誰も知ることのない事実であった。

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