タイガーリリィ・ファントム
強い光を感じて、わたしはのそりと目をさました。
いちめんのあお色、空だろう。
雨は遠そうだが、これだけ太陽のあたる場所はなかなかのものだ。しかし、満足しつつ下を向いてまもなく、わたしは絶望することになった。
(ああ、これはいけない)
足元はゴツゴツとした岩場だった。そして、周囲はぐるりと海に囲まれていて、どこにも土が見えない。
何という場所に根付いてしまったのだろう。生まれる
己が不運を呪いつつも、さんさんと照り付ける陽光に、抗いがたい心地のよさを感じてしまう。
仕方がない。このまま咲けるだけ咲いて、さっさと散って消えてしまおう。我々にとって、存在の価値というものは、根付いた場所によって、おおよそ決まってしまうものなのだ。それもまた、仕方のないこと。
空虚な気持ちで対岸を見やると、わたしの生える岩場から磯を挟んだ向かいに、真っ白な砂浜があった。
妙に静かな浜辺で、三日月が横たわったような形をしている。何だか、とても美しい場所のように感じられ、それからわたしは、飽きもせず長い時間、その砂浜を眺めて過ごした。
時折上空をかもめが横切る以外、訪れる者のない場所かと思われたが、太陽が水平線に引き寄せられ赤く輝く頃、不意に大きな生き物が現れた。
人間だった。砂よりも白いワンピースを身に着けた、髪の長い女の子だ。風になびく豊かな髪が、わたしの花びらと同じ鮮やかなあか色なので、なんとなく親近感をおぼえる。きっと、わたしと同じように、美しい少女に違いない。
彼女はしばし海を眺め、それから砂浜をひと回り散歩して、波打ち際に少し近づき、やがてそそくさとどこかへ去っていった。
なんだ、あのきれいな髪をもっと見ていたかったのに。
少女がいなくなってからも、わたしは無人のビーチを眺め続け――一晩眠って、薄明の頃、ふと目を覚ました。
また人間がいた。あの少女かなと思ったが、どうやらそうではないらしい。髪は赤ではなく漆黒で、女の子ではなく若い男だった。
大きな籠を背負って、せわしなく動き回っている。何をしているのだろうと観察していると、昨日のうちに浜辺に流れ着いたものを拾っているようだ。あの砂浜には少しも雑然としたところがなく、しんと澄み渡るように美しいのは奇跡だと思っていたが、それは彼の働きによるところが大きいのかもしれない。
曙の光が、彼のおかげで清らかに保たれている浜を照らす。
そして、新しい朝の中でわたしは、その出会いを目撃したのだった。
くず拾いをしていた青年が、赤い髪の女の子を見つけ――それに、少女が気付いた。 青年は、背負っていた籠をトッと砂上に置くと、まっすぐ彼女の元へ駆けていく。
『ここのお屋敷はお姫様の別荘だっていうのは、本当だったんだ』
青年が発した明るい音が潮風と共にわたしの元まで届き、大きく広げた葉の上で跳ねる。
『お、お姫様ではない……皇帝陛下だ!』
怒ったような、困ったような少女の音は、自慢の花びらの上でくるくると踊る。
『皇帝? 君が?』
『違う! ばか者!』
『じゃあ、君は何なの?』
『わたしは……』
少女は何かを口にしたようだったが、囁きは小さすぎて風にのらない。すぐに彼女は逃げ出してしまった。
一人残された浜辺で、青年は長いこと立尽くし、彼女が走っていった方向を見つめていた。
風が、彼の浮ついた心の形を撫でて運ぶ。
それは、
つまり、恋だ。
翌日から、青年は果敢に少女にアタックしはじめた。
世間話を持ち出しては首を傾げられ、食事に行かないかと誘っては断られ、名前を教えてくれと頼んでは黙り込まれる。けれど、図太い性格なのか、袖にされても気にする様子はなく、何度でも陽気に話しかけた。
日に焼けた肌に、伸びっぱなしの黒い髪、大らかで人なつっこい笑顔。少女を本当に怒らせてしまわない程度には距離を保ちつつ、しきりに周りをウロウロし続ける様子は、人間というより大きな犬に近い。
当初は迷惑そうな顔をしていた少女だったが、彼のまっすぐさは彼女を不快にはしなかったようだ。
つり上がった眉が少しだけ下がり、への字口から漏れる言葉の数が僅かずつ増えていく。彼女はポツリ、ポツリと、自身のことを話した。
海を初めて見ただとか、長い髪を大事にしているとか、朝がちょっと苦手だとか、他愛ない話ばかりだったけれど、青年がいちいち素っ頓狂な声を上げてほめたり喜んだりするので、最後には可笑しくなってきたようで――やがて、不器用に笑顔を見せた。
白い砂浜に、二人分の足跡が続く。
青年と少女は、並んで散歩をした。
昨日まで饒舌だった青年は、今頃になって緊張してきたのか、口数が少ない。元々無口なタイプであろう少女は、話しかけられないと何も言わないので、二人が並んで歩く姿は、なんとも奇妙でぎこちない。
風は踊るのをやめ、草木はじっと彼らの様子にみみをすませる。
二人は時々口を開いて一言、二言語り、少し笑って、また口を閉ざす。波が少女のサンダルを濡らしそうになって、慌てて逃げる。慌てたついでに手と手が触れる。少女が驚いて引っ込めそうになった手のひらを、勇気を出して捕まえる。――手は、振りほどかれることはなかった。
生き物同士が惹かれあうのは、いつだって単純明快だ。花粉を抱えたミツバチが、ふと目にとまった花に何気なく舞い降りるのと同じ。そこに理由や計画はない。
彼と彼女も、きっと、そうして――
――深夜。
葉が塩辛い水をパタパタと弾いて、異変に気付いた。
「……やっぱり、百合だ」
潮風に痛み始めていた身体が揺れる。
二十六夜の月の下、青年の顔があった。
夕方までとは違う切羽詰まった様子で、闇の中ここまで泳いできたのだろう。
黒い髪から水が滴る。先ほどから葉を塗らすそれが花弁に落ちそうになって、慌てて彼は顔を引っ込めると、懐から何かを取り出した。小さなナイフだった。
あっと思う暇もなく、もちろん逃げることもできず。
わたしは茎の途中から切り取られ――次に気がついたとき、青年の手の中で海を渡っていた。乱暴な行為に、不思議と怒りは沸かなかった。むしろ、岩を掴む根の感覚がなくなると、身体が綿のように軽い。
青年はわたしを大切に抱えて、少女の住む屋敷のドアを叩いた。
そして、しばらくして姿を見せた少女の顔を、わたしは彼女の真正面に捕らえていた。彼が無言でわたしを彼女に差し出したのだ。
最初に感じたとおりの美しい少女だったが、目を赤く腫らしている。泣いていたらしい。
「これは……」
「岩場に一輪だけ咲いてたのを見つけて。君に……きっと似合うと思って」
「わたしに……花など」
「似合うよ。だから……お願いだよ、名前が知りたい」
「だめだ」
「好きだ」
「……だめだったら」
届きそうな心と心が、わたしを挟んで軋み、求め合う。
理屈ではない。抗えないから、彼はここに来たし、彼女は扉を開けた。
「ここにいる間だけ……名前以外なら……」
俯く少女の指がするりと伸びて、わたしを支える青年の手にそっと重なる。
「何でも――」
触れた場所から火がつくようだ。わたしもこのまま燃えてしまうのではないかと思われるほど。
「何でも……お前にやる」
ぶっきらぼうな囁きは、けれど隠しようもなく甘い。
「だったら――今ここにいる君が、ぜんぶ欲しい」
わたしのあたまの上で、言葉を失った二人の気配が近づき、重なり――溶けあった。
蝋燭の揺らめく光が、異なる二つの色の肌を仄かに浮かび上がらせる。
彼の情熱と、少女の不安が繋がり、境界線を失って、眩く、熱く、昏く光を放つ。過去も未来もない、今この刹那の歓喜。
二人の恋が成就する瞬間に立ち会ったのは、世界でわたしだけだった。
窓の外が白んで、最初の光が静寂を切り裂く。
夢から覚めた少女はひとりだった。
彼女はのろのろと辺りを見回し、枕元に置かれた紙切れを見つけた。夜明け前に部屋を抜け出した青年が残したものだ。
少女は寝台に腰掛けて、手にしたメモに目を落とす。彼女の脇腹から背にかけて、引き攣れた赤黒い跡が、蛇のように横たわっていた。白い肌は、よく見ると傷だらけだ。彼女はしばらく微動だにせずそれを見つめ、やがてゆらりと立ち上がって、鍛え抜かれた剣のように引き締まった肢体を、無造作にサマードレスで隠した。
日が暮れるまで、少女は窓の外を見つめていたが、青年が姿を見せることはなかった。彼女はわたしを花瓶から引き抜き、浜辺へ連れ出した。
新月の近い空は、無数の星々に埋め尽くされている。
彼女はひとり、暗い波打ち際へ向かって歩みを進めた。サンダルを脱ぎ捨て、素足は波に洗われる。足は止めない。スカートが濡れても気にする様子はない。
そして、真夏のぬるい海に腰まで浸した彼女は、握りしめていた青年のメモを広げて、しばし見つめ――そっと水に浮かべた。
『もしも、もう一度会ってくれるなら――』
一縷の願いを刻んだ文字が闇に滲み、波に捕らわれて、水中へ消えていく。
少女はわたしをのぞき込んだ。メモと同じように、このまま海に葬られるのだと思った刹那、彼女の唇がわたしの花弁にそうっと触れた。
「……良い香り」
――そう、小さく呟いた。
儚い夢が終わる。
青年が捧げたわたしを、少女は手放さなかった。
きっとわたしは、この恋の幻影の花となったのだ。
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