MIND/FRAGMENTS<短編集>

二月ほづみ

エウロ宮廷

剣の少女(GC543)

 自分がいつ、誰の腹から生まれ、そしてここにいるのか、少女は知らない。

 名は緋色ルベル。その名の通り、炎のような赤の髪を持っていた。


 ヒヤリと冷たい大理石の感触を手のひらに感じながら、柱飾りを足場に息を潜めて、ほの明るい石畳を見下ろす。

 夜風に乗って、笑う女の高い声と広間の熱気が流れてくる。喧騒を離れたこの渡り廊下に人影は少ない。夜会の馬鹿騒ぎもそろそろ終わる頃だろう。

(……来た)

 仰々しい白の衣装に身を包んだキザったらしい男。今夜の待ち・・・だ。それを認識した瞬間、少女は暗がりから身を躍らせた。

 次の瞬間、

「ぇええっ!?」

 頭上の闇から突然黒い塊が降ってきたのに面食らい、男は素っ頓狂な声と共に足を止めた。

 そして同時に悟る。これは人、それも若い女だ。

 黒ずくめの衣装に、薄暗い中でも熾火のように浮かび上がる、赤く長い髪。

 しかし、男がそれを認識した時には既に、少女は彼の視界から消えていた。

「なっ……」

 男が二度目に上げた驚きの声は、恐怖に潰れて萎んだ。

 冷たい刃物が、ピタリとその首に押し当てられていたからだ。

「ちょ……」

「皇帝陛下からのお言葉を伝えに参りました。バイヤール伯爵」

 赤い髪と対称的な、しんとした青い目が狼狽える男を捉える。

 少女の面立ちは凛々しく美しいけれど、その表情は、そっけない口調と同様に冷ややかだった。

「『会ったこともない相手に愛を語るような輩を余は信用せぬ。この手紙は返してやるから、くだらん野心は捨てて先ずはおのが領民を愛せ」

 緊張感の無い棒読みが告げる。

「『二度目の警告は無いぞよ』」

 そして、懐から取り出した、封の切られた手紙を男の上着に挟むと、少女はヒョイと身を翻した。

「とのことです」

 あっさりそう言うと、男を一顧だにせず手すりを乗り越えて飛び降りる。

 ここは建物と建物を繋ぐ渡り廊下であり、三階だ。

「えええっ!」

 男は三度目の悲鳴をあげて覗きこんだが、今は夜、下は庭。

 そこには闇が広がるばかりであった。


 アヴァロンの皇帝は、己を守る剣を持つ。

 名はルベル。

 少女は剣だった。




 翌日――

「ん……」

 目覚ましをかけて眠りについたはずなのに、妙にスッキリとした目覚めで、部屋もやたらと明るく……つまり、嫌な予感がする。

 パチリと開かれたルベルの目には、ドドンと大写しになった美しい菫色の瞳。

「目覚まし……」

「安心せよ、止めておいた」

 ルベルを覗き込んでいた菫色が、機嫌の良い猫のように細くなる。寝起きの悪い彼女の生命線である目覚まし時計を断りなくオフにしたのは、ほかならぬ彼女の主人のようだ。

「何時ですか!?」

 ルベルは飛び起きた。寝坊だ。

「じきに正午じゃな」

「何故目覚まし時計を止めるんですかッ!」

「そりゃあ、そちの寝顔が幼子のように可愛かったからじゃろ?」

「どうか時計を止めないで下さい。務めが果たせなくて大変なのです……」

「よいではないか、寝る子は育つぞ」

 暢気にそう言い放つ、彼女の名はヒルダ。ルベルの唯一絶対の主人にして、エウロ自治区――ユーラシア大陸西部を三百年近く統治するアヴァロン朝の当代皇帝、ヒルダ=ロゼア・アヴァロン、その人だ。

「陛下……」

 ルベルは困ったように息をついて起き上がった。

 ヒルダは白い手足を放り出し、だらしのない寝巻き姿で人の寝台に寝そべっている。豊かな亜麻色の髪も、ふわふわのグチャグチャ。いつから起きているのか知らないが、この人は放っておくと一人では何もしないのだ。

「私はもう充分育って、ちゃんと剣として独り立ちもしたのです。ただ、朝がちょっと苦手なだけで……」

 目覚ましが鳴らないと目が覚めないだけで、寝起きは良い。

 ああ、全く、主人より遅く起き出す剣なんて聞いたことがない。こんな悪戯さえされなければきちんと恥ずかしくない時間に起きて、まっとうな(・・・・・)剣らしく振る舞えるはずなのに。

「陛下、執務のご予定は……」

「だぁいじょうぶじゃ! そちが目を覚ますまで、待たせておる」

「時計が鳴ればちゃんと起きますので、待ってないでください」

 怒るに怒れず懇願する従者に構わず、ヒルダはパッとベッドから離れると、タタタと鏡台の前までかけてゆき、チョンと座った。

「今日はの、みつあみをたくさん作って結ってくれな」

「はいはい……」

 今は腑抜けた顔で甘えた態度をとるヒルダだが、これでも帝位を継ぐべく厳格な教育を施された娘である。身支度を整えて一歩外に出れば、それはそれは見事に統治者然とした振る舞いで務めを果たすのだ。普段の彼女を知っているルベルからすれば、この部屋のドアには魔法でもかかっているのではないかと思えてしまうほどの変貌ぶりだ。

「ああ、やっぱり髪はそちにやってもらうのが一番気持ちいいのう」

 けれど、満足そうな主人の言葉に――剣の少女は思わず笑みを浮かべる。

「私が一番ですか? 本当?」

「もちろんじゃ」

 優しい言葉に安堵する。

 ルベルには親が無い。兄弟も、友人も、この城に来るまでの過去も無い。ただ、幼い日に主となったこのヒルダだけが全てだった。

 だから、ああ、もう、寝坊は良くないのだけれど、ヒルダが優しいから――まあいいか、と、つい思ってしまうのだ。


 剣は、皇帝個人の持ち物として一生を過ごす。

 長い帝室の歴史において、しばしば敵を葬る暗殺者としても活躍し、比類なき戦闘力を持つと噂される彼女らは、事情を知る貴族たちの間では『影の剣』とも呼ばれ、恐れられる存在だ。

 ルベルだって、幼い頃から稽古を欠かしたことはない。

 女の剣など前例が少ないと、師である先代の剣は言ったけれど、並の男に遅れを取ることはない自負もある。

 しかし――幸いなことに、ルベルとヒルダの暮らしは今のところ平和そのものだった。だから、ルベルの仕事といえば、昨晩のように野心を隠した愛のない相手からの求婚を主人に代わって突き返すことと、こうして、彼女の柔らかい髪を整え、身の回りの世話をすることくらいなのだ。




 ヒルダの父であった先代の皇帝エメリッヒが突然病に倒れ、死去したのは四年前、彼女がまだ十六の頃のことである。

 若すぎる皇帝の誕生に、しかし異を唱える者は無く、エウロ議会と貴族達はヒルダを受け入れた。数多くの異母姉弟を持っていたエメリッヒが、力ある血縁者たちを巧みに取りまとめていた、そのおかげであったともいえる。

 巨大な権力を一手に束ねる、エウロ皇帝の執務は激務である。ヒルダは周囲の助けを借りながら懸命に務めを果たし続け、じき、二十歳の誕生日を迎えようとしていた。

 若き皇帝は父に倣い善政を心がけ、良き支配者として家族や臣下の者たちの信頼を得つつあると言える。ある、一点の懸念を除いては。

 彼女に望まれているのは滞りない政務の他、もう一つ重要なのが、次代を担うべき皇太子の選出――しきたりでは、皇帝の直子が望ましいとされている。

 つまるところは、結婚である。

 ヒルダは、山のように押し寄せる縁談をことごとく断り、夫を選ぶ気配を一向に見せないのだ。まだまだ若い皇帝とはいえ、周りの者が皆気を揉んでいるのは事実だった。

 けれど、ルベルは別に、それについて何も思うところはない。

 主人にはいつか伴侶が出来るのだ、ということは、漠然と理解はしている。

 結婚がどのようなものかはよく知らないけれど、急がなければいけないものでもないだろうし、まして人選は慎重に行うべきだ。とにかく、ルベルは、ヒルダが選んだ人ならばそれでいいと思っていた。




 それは、よく晴れた、春の日の午後のことであった。

 ヒルダが執務室に篭って書類と格闘しているので、ルベルは暇を持て余し、ふらりと中庭に降りていた。

 主の側を離れるのは、本当はあまり褒められたことではなかったのだけど、退屈そうな顔で側にいるのも申し訳ない。ヒルダの仕事は日が傾きはじめるまで終わらないだろうから、それまでの僅かの間だけと思って抜け出した。一応ここからなら、彼女が執務をする部屋を見守ることもできるはずだ。

 ――と、ふと、視界の隅に影が落ちる。

「おや、剣のお嬢さんだ」

 ポカポカの陽気のせいでつい眠気が差し込んで、近寄って来た人の気配に気づけなかった。

 焦って顔を上げると、豪華な刺繍の施された明るい色のフロックコートに身を包んだ男が、何故か麦わら帽子に籐カゴとハサミを持って、庭師の真似事をしている。

「珍しいね」

 男は人懐っこく笑った。彼のことは知っている。

「え……っと……」

 ルベルは返答に窮して口ごもった。男の格好を奇妙に思っただけではない。ヒルダ以外の人間から話かけられる機会は少ないので、咄嗟に言葉が出てこないのだ。

「ナサニエル様は、その……何を?」

「私はもちろん薔薇の世話だよ」

 ニコニコ笑って手にしていたカゴを見せる。花を大きく咲かせるために摘んできたのだろう、小さな薔薇の蕾がぎっしり入っていた。

 庭をひとまわりしてきたのだろうか、随分な量だ。

「……庭師におまかせになればいいのに」

「こんないい天気だろう? 羽を伸ばすには、口実が必要なのさ」

 彼、ナサニエル・アルテ・アヴァロンは、先帝エメリッヒの異母弟――ヒルダからみれば、年の近い叔父であり、今は若い皇帝の後見役を務めている皇子だ。

「口実……」

「君は昼寝?」

「ち、違いますっ!」

 ちょっと船を漕いでいたのを見られていたのだろうか。ルベルはぶんぶん首を振って必死に否定し、それからちょうど真上にある、ヒルダの執務室を見上げる。

 部屋の窓は閉まっていた。

「陛下は執務で忙しくしてらっしゃるので、邪魔をしてはいけないと……も、もちろん、すぐに戻ります」

 闇夜のような黒衣に身を包み、黙っていれば恐ろしい守護者らしい厳粛な雰囲気を醸し出せるルベルだけれど、所詮は十八歳の少女である。


 口を開くと子供じみた表情を隠せなくなってしまう。

 自分がこんなに情けないのでは、主人の威厳に関わる。そそくさと逃げ出そうとするルベルに、ナサニエルは少し真面目な顔をして言った。

「幸い、今はヒルダに敵はいないから……君はそうして、ちょっと離れているくらいの方が良いかもしれない」

「えっ……?」

 意外な提案に目を丸くする。だが、男が続けた言葉は、それに輪をかけて衝撃的なものだった。

「ヒルダが縁談を断るのは、君が好きすぎるからなんじゃないかな」




「はぁ……もうこういう書状は見とうない」

 晩餐の前の僅かな時間、自室に戻ってヒルダはぼやいた。そして、届けられたばかりの釣書を放り出す。

「そんなに伴侶を持つのが嫌なのですか?」

 ルベルは神妙な顔で訊ねる。

「どいつもこいつも、余ではなくて皇帝の夫になりたいだけじゃ」

「それは、陛下は皇帝なのですから、当たり前なのでは……」

「ちがーう! ばかルベル」

「ば……」

「そういう、下心が見え見えなのが嫌だと言っているのじゃ!」

 求婚者達はあの手この手で、ろくに面識も無い彼女の気を引こうとする。ヒルダは箱入り娘だったが、それが彼らの真心でないことをよく知っているのだ。

「では……どんな相手と結婚を?」

「もう、そちがおれば余は夫など要らぬ」

「また、馬鹿なことを」

「ううん……そうじゃなぁ……」

 呆れるルベルの滑らかな頬を両手でぎゅうと挟んで、整った顔が滑稽に歪むのを見つめつつ、ヒルダは唸る。

「結婚するなら……やはり、好いた相手でなければならぬ」

「好きな……」

「生涯を共にするのじゃぞ? 少なくとも、ルベルと同じくらい愛せる相手でなければならぬ、ということじゃて」

 ヒルダはそう言って、自らの言葉に深く感じ入ったように頷いてみせた。そして、鏡台に置かれたままの書状を見やると、眉根を寄せて息をつく。

「じゃが……これは仕方がないかのう」

 当分結婚をするつもりの無さそうなヒルダであるが、全ての縁談を門前払いにできるわけではない。この日届けられた、叔父――ナサニエル皇子が持ち込んだ見合い話も、そんな、彼女にとっては厄介で断りづらいものの一つだった。

 後見人肝いりの縁談である。断るにしても、一度会うくらいはしてからでないとあちらの面子が立たないのだ。

「ルベルぅ、ちょっと余を慰めてくれ」

 晩餐用の重たいドレス姿で飛びついて、撫でろと頭を差し出す。

 もともと、この主人はしょっちゅうそんなことを言うのだ。

「……御髪が乱れるので、晩餐の後で」

 けれど、今日に限っては、昼間ナサニエルに言われた言葉が胸に引っかかっていた。

「いやじゃ」

 頑固に言い張る主人の身体は、柔らかくて甘い香りがする。

 仕方なく、美しく結い上げられた髪を崩さないようにそっとなぞると、ヒルダは嬉しそうに目を細め、子供の頃のようにギュッと抱きついたまま力を抜いてくる。ルベルより身体の小さいヒルダだけれど、ドレスまで入れると相当重い。ヨロヨロしながらどうにか支えると、ヒルダは可笑しそうに笑うのだった。

 

 幼い頃からずっと、こうして二人で、長い時間を過ごしてきた。

 ヒルダといると幸せだ。

 だけど、だけど――もし、自分の存在のせいで、ヒルダが重要な決断を下せずにいるのだとしたら、それは――

「…………」

 ああ、困るなあ。

 だとしたら、とても嬉しい、と、思ってしまうから。

 それがヒルダのためにならないことを、理解しているのに。




 ローズガーデンに、最初の花が咲きそろいつつあった。

「あれ、剣のお嬢さん、今日もひとりだ」

 ひょっこりとやって来たのは、やはりナサニエルだ。今日は庭師の格好はしていない。

「殿下はまた羽をお伸ばしに?」

「え? あはは、今日は違うよ、明日の準備に。この庭にテーブルセットを用意させようと思ってね」

「立派な花が咲きましたしね」

「だろう? 私も世話をしたからねぇ」

 蕾を摘まれた薔薇の木は、枝毎に見事な大輪の花をつけていた。

 一番花の香りは特に濃く甘い。この庭に今ガーデン・テーブルを出したら、さぞかし素敵なティータイムを楽しめることだろう。

「ここで見合いをしたら、きっと親密になれると思うんだけど、お嬢さんはどう思う?」

「見合い? ……ああ、陛下の」

 先日持ち込まれたあの縁談のことだろう。世話になっている叔父のためと、渋々ながらヒルダが相手に会うことを承諾したのだ。相手は確か遠縁の誰かだったと思うが、そこは興味が無かったのでよく覚えていない。

「感謝するよ。お嬢さんが説得してくれたんだろ?」

「えっ?」

「あれ、違う?」

「違います……私は別に……」

 説得はしていないけれど、ここしばらく、意識してヒルダの視界から姿を隠すようにしていた。ナサニエルに言われた言葉が気になったからだ。

 城内には歴代の剣達が使ってきた特殊な通路がたくさんあって、隠れていてもヒルダを見守ることはできる。一日のうち、顔を合わせるのは身支度を手伝う朝の短い時間くらいだけど、ルベルの務めとしては問題ないのだ。

「ヒルダがぼやいてたから、てっきり、君に何か言われたんだと思っていたよ」

「陛下……何て?」

「君が冷たいってさ」

 ヒルダが怒っているのは何となく想像できる。避けるようになってから日々徐々に機嫌が悪くなっていき、今朝なんて、髪を結う間、口もきいてくれなかった。

「……冷たくしろと仰ったのは、ナサニエル様ではないですか」

「あれ、私?」

「そうです」

「えーと……」

「私が側に居るから、陛下が縁談に乗り気になられないと仰いました」

「ああ、あの話か」

 ごめんねと言ってナサニエルは笑顔を見せるのに、ルベルはなんだか腹立たしく思えてしまう。けれど、主人から距離をとることを決めたのは自分なのだし、彼に八つ当たりをするのは筋違いというものだ。文句と泣き言を飲み込んでルベルは立ち上がった。




 晩餐の前、苛立たしげにヒールを鳴らしてヒルダが回廊を歩き回っている。

「ルベル! おらんのか!?」

「姿をみせよルベル!」

「ばかルベル!!」

 もちろんその声は、天井の暗がりに潜む剣の少女に届いている。けれど、今出て行ってもヒルダに怒られるだけだし、怒られても行動を変えるつもりはないので、出て行かない。

 今夜も、主人が眠りについてから部屋に戻ろう。

 怒られるのも嫌われるのも嫌だし、一緒にいられないのは寂しい気もする。けれど、こうしてことある度に自分を探し回ってくれるのは、少し嬉しい。

 けれど彼女が伴侶を選んだら、もうこんな風に怒鳴り散らしながら探してくれるようなことは無くなってしまうのだろうか。

 そうしたら自分は、今度こそ本当の影のように、こうして誰の目にもつかない場所に隠れて、静かに主人を見守り続ける存在にならなければいけない。

 そんなこと――自分にできるだろうか。




 翌日、中庭のローズガーデンで、ナサニエルがお膳立てしたささやかな見合いが行われた。彼が言っていたとおり、親密な感じの茶会で、ヒルダは嫌そうな顔はせず、相手の男と機嫌良く話をしているように見える。ルベルはその様子を、向かいの建物の屋根の上から眺めていた。

 ずっと、どうでも良いと思っていた、見合い相手の青年の挙動が気になった。ナサニエルのことはヒルダも慕っているから、彼がひどい縁談を持ち込むとは思えないけれど、それでも、あの男は主人をちゃんと幸福にできる相手なのだろうか。

(幸福……?)

 思考が立ち止まる。ヒルダの幸福とは何だろう。

 少なくとも、昨晩のように怒った彼女は、幸せではないかもしれない。

(私は……)

 悲しませて、怒らせて、それを見て嬉しい気持ちに浸ってしまった。これでは、見知らぬ見合い相手の男より、自分の方が害悪ではないか。

「…………」

 思わぬ自己嫌悪に足をとられたルベルは狼狽え、庭の主人から目をそらし、ごろんと屋根に身を横たえる。

 空を渡る、ぷかりと浮かんだ雲が飛び込んできた。

 春の青空は、ルベルの心を少しも映さない。

 けれど、唐突に、少女は悟った。

(私は――――幸せなんだ)

 今まで、幸福とは何かなどと、改めて考えたことはなかった。

 ヒルダがいたからだ。いつだって一緒で、いつだって愛してくれた。

 己の身が剣であるのと同じように、主人から愛されることもまた、当たり前のような気がしていたけれど――

 そうじゃなかった。

 剣にとって、主は全て。

 知っていたはずなのに、分かっていなかった。

 全部、あの人のおかげなのだ。


 雲を見つめて、ルベルがそのことを考えていたのは、感覚的にはごく短い時間のことであったように思う。

 けれど、ハッと気が付いた時には、雲はもう最初見た時とすっかり形を変えていて――中庭から、ヒルダの姿は消えていた。

「!?」

 慌てて飛び起き、転げ落ちるように庭へと降りる。

 ガーデンテーブルはすっかり片付いていて、ヒルダも、見合い相手も、使用人も、誰の姿も見えない。時間の感覚が歪んだような、悪夢の中に迷い込んだような、不可思議な感覚だった。

 皆消えてしまった?

 否、そんなことがあるはず無い。

 馬鹿馬鹿しい考えに支配されそうになるのは、心に不安が差し込むからだ。見合いは終わったのだろうか。

 ヒルダは部屋に戻った? だったら急いで戻らないと。

 最短距離を駆け抜けて、少女は急いで部屋へと戻った。

「あ……れ……?」

 そこに、主人の姿は無い。

 朝、怒って一言も喋らなかったヒルダが乱暴に放り出した靴が、放り出されたときの形のまま転がっている。

「陛下……?」

 不安がそろりと手を伸ばし、冷たい指が背をなぞる。彼女はどこだ?

(執務室……)

 そうだ。まだ部屋に戻っていないなら、執務室だ。急ごう!


 ――だけど、執務室にも彼女は居なかった。

「どうして……」

 不安は裏返り、恐怖に変わる。これは自分の過ちだ。彼女から決して目を離してはいけなかったのに。

 あれから何が起きて、ヒルダがどこに行ってしまったのか。情けないことに、ずっとこの城で暮らしてきたのに、一度見失ってしまうと見当がつかなかった。

 だって、ずっと一緒だったのだ。彼女を探したことなんてない。

(どうしよう……)

 見つけなければ。そして、謝らなければ。

 ひどいことをしたと。

「ヒルダ……」

 もう二度と避けないし、離れないから、許してと。言わなければ。




 広い城中を片っ端から探しまわって、ようやく彼女を見つけることが出来たときには、あたりは既に夕暮れの色に染まっていた。

「あら、まぁ」

 不躾にも部屋のバルコニーに突然現れた少女に気づいた部屋の主の、のんびりとした優しい声が響く。

 ここはヒルダの叔母、アルマの部屋だ。

 アルマは大勢いる叔父や叔母の中でヒルダと一番年が近い。幼い頃から仲が良いのは知っていたけれど――即位以降、私室を訪問するような機会は減っていたので――まさか、こんなところにいるなんて。

「なんじゃ、来たのか。ルベル」

 ルベルの登場を見て見ぬふりをしていたヒルダは、チラリと従者の方を見やると、わざとらしくそう言った。

 ちょっと冷たい感じの台詞だけれど、たぶん、機嫌はそんなに悪くない。

「陛下……あの……」

 温かい紅茶が喉を落ちていくように、安堵がじんわりと広がっていく。自分の指がとても冷たくなっていることにようやく気づいた。

「なーんじゃ。言いたいことがあればさっさと申せ」

 拗ねるように細められた目。

 言いたいことは決まっているけれど……

「へいか……消えたのかと……」

 全然、違うことを言ってしまった。鼻の奥が熱い。

「ルベル?」

 かじりかけのアイシングクッキーを手にしたまま、ヒルダが立ち上がり、トコトコと少女の方に歩み寄る。

「馬鹿者、余が消えるわけがあるか」

 そして、への字口をにいっと笑いの形に変えると、クッキーをルベルの唇に押し込んだ。

「なーんじゃ、やっぱりまだ子供じゃのう」

 クッキーの甘い味と、

「泣くな、ルベル」

 笑う私の世界ヒルダ

「…………ごめんなさい。ごめんなさい」

 いったん溢れ出してしまうと、涙を止めるのは難しい。ああ、これでは本当に幼い子どもの頃と変わらない。

 でも、見つかってよかった。

 怒ってなくてよかった。


「そなた、自分のせいで余が縁談を断っていると思ったのじゃろ? 叔父上から聞いたぞ」

 ヒルダは嘆息して、ルベルの背にそろりと腕を回す。

「ばかじゃのう。そんなこと、あるはず無いじゃろうが」

 そして、加減を知らない子供のように遠慮なくギュッと抱きしめて、囁いた。

「結婚は義務じゃし、伴侶がいたからといってそなたを愛していることに変わりはない。けれどな……」

 うら若き皇帝の、菫色の瞳が揺れる。

 そしてヒルダは、思いもよらぬことを口にした。

「……結婚は、せぬことにしたよ」

「えっ?」

「丁度そのことをアルマに相談しておったのじゃ。そういうわけで、余には生涯、そなただけじゃ」

「ちょ……っと、ちょっと、待ってください、ヒルダ、わけがわからない」

 ルベルは慌てて主人から身を離し、涙に濡れた目を丸くする。

「余にはな、秘密がある。教えてやろうか? そなたは鈍感だから、どうせ気がついておらんじゃろ」

 ヒルダはニコリと微笑むと、半身の涙の跡を愛しそうに撫でる。

「余のこの身は、初潮を迎えることが無いらしい。だから結婚しても、子を産むことはできぬ」

「え……っ」

「ほら、驚いた。やっぱり気づいておらなんだな。朴念仁め」

 打ち明けられた事実の重さと、共に暮らしながら気づけずにいたことへの自己嫌悪とで、絶句したまま言葉が続かない。けれど、ヒルダは特に悲しんでいるような様子はみせず、あっけらかんと続けた。

「アヴァロンの伝統は、遺伝子操作の余地がある経緯で出生した者を跡継ぎとしては認めておらぬからな。余は結婚せずに叔父上達の誰かを皇太子に指名することが、一番良いのじゃよ」

 だからもう、見合いもせぬよと、ヒルダは重ねて言うのだった。

「陛下……」

 それを、喜んで良いのか、悲しんで良いのか、ルベルには分からない。

 ずっと今のままでいられるのは、自分にとっては喜ばしいことのような気はする。けれど、それは、あまりに身勝手な感情なのではないか。

「……私は、あなたのことを何も知らなかったのですね」

 分からない。ヒルダの幸福とは何だろう。

「余がそなたのことを知っておる。それで良い」

「私は……」

 どこで生まれて、何故ここに来たのか。何も知らず、ただ剣として磨かれて今がある。

 だが、平和な日々に、剣は不要だ。自分には何も出来ないのか。

「なぁ、ルベル、ひとつ……頼みがあるのじゃが」

 甘ったるい声で、ヒルダが言った。

「そなたはいつか、恋をせよ」

「は?」

「余のかわりに」

「恋……?」

「そうじゃ。知らぬか?」

「わ……わかります。言葉の意味は。ですが……」

 主人の柔らかくて小さな身体をそうっと離して、真意のくみ取れない言葉の意味を探そうと、キラキラ光る瞳の奥を覗き込む。

「恋など、出来るはずがないでしょう。私が」

「余のためでもか?」

 意地の悪い返しをして、従者が口を閉ざすのを見て、皇帝は再びクスクス笑う。

「別に、すぐにせよと言ってはおらんし、無理強いもせん」

 そして、ちょっとだけ済まなさそうに首を振って続けた。

「余は結婚をせぬと決めた以上、恋もせぬことにした。己の喜びよりも守らねばならぬものが、多いからな。じゃが……身を焦がす想いがどんなもので、恋が世界をどんな風に変えてしまうのか。人と生まれ、それを知らず朽ちてゆくのも、惜しいじゃろ?」

 アヴァロンの剣と主人は、互いを己の半身と呼ぶ。だからルベルにも、ヒルダの言いたいことは分かる。

「……それで私に、代わりにこの身を焼けと」

「そうじゃ」

「……無茶ですよ」

「余の剣じゃろ?」

「そうですが……約束はできません。ヒルダ、私にはあなたが一番大事だし」

「わかっておる。けど、恋は思案の外と言うじゃろ。そういうときが来たら、そなたはその気持ちに正直に行動せよと言うておるのじゃ」

 先ほどルベルが降り立ったバルコニーから、山吹色の夕日が深く差し込んでいる。少女の赤く長い髪が、光に縁取られ、炎のように輝く。

「その夢を……余に見せておくれ」

 幸福であることの前提が、自由であることに拠るとすれば、たぶん、彼女らの生にそんなものは望めない。

 けれど、重荷を背負って生まれてきた主と、その剣は、その日、叶わない未来に、あてのない約束をした。


 二人の約束がどのような結末を辿ったのか、知る者は二人の他に無い。

 けれどルベルは三年の後、アインと名付けられる、父の無い子を産むことになる。

 それはまた、別の話である。

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