天使の証関連
死と桃
死と桃
トン――ト……トン、と、カッティングボードを叩く鉄の音が不規則に響く。
朝食に桃を切ってやると言う恋人の青白い横顔を、ユリウスは落ち着かない様子で見つめていた。
目をひかれるのは、鮮やかな赤い髪でなく、薄い背から生える現実離れした羽根でもなく、何故か彼女が手にしている風変わりなナイフ。
両刃のシンプルな形の刃物で、形状は細く尖っている。桃をむくと言ってどこからか彼女が取り出してきた、妙に美しい刃物だった。
「危ないぞ」
思わず口がでる。だって、今にも指を突いてしまいそうに見える。ナイフは見るからに調理用のものではないし、彼女がそれを使い慣れているというわけでもなさそうだ。
「大丈夫」
ユキノは自信ありげに言い切ると、柔らかい桃の表皮に、ぎこちない手つきで刃を這わせる。
彼女の小さな手に余るほど大ぶりなそれは、よく熟れているようだ。おそらく、自分では上手にやれているつもりなのだろうが、青白い指がむき出しの果肉に沈み込んで、切っているのか潰しているのか分からない。
「大きいし、おいしいよぉ」
甘い香りを纏った滴を手首まで滴らせ、ぐずぐずの桃の実に銀色のナイフを突き刺す――
「……?」
さっくりと真っ二つに割れるとでも思っていたらしい。眉根を寄せて首をかしげるので、苦笑しつつ手を伸ばした。
「そこ、種がある。真ん中のとこ」
「ええっ? うそ」
「果物なんだから、種くらいある」
言いながらぬめる指に指を絡ませる。ユキノの体はどこを触っても少し冷たい。
長くはないという彼女の命の刻限がすぐそこまで迫っている証拠のように思えて、触れるほど不安になった。
「続きは僕がやろう」
誤魔化すようにそう言って、危なっかしい刃を奪い取る。
少女の低体温な指より、ナイフはもっと冷たくて、そして、見た目より重かった。飾り気のない金属の塊のようなデザインだけれど、よくよく見ると美しい模様が彫り込んである。花のような――紋章だろうか。つんと尖った切っ先は、軽く触れただけでも切れてしまいそうで……やっぱり、果物を切るのには不向きそうだ。
「変わったナイフだなぁ、これ」
「きれいでしょう」
こちらを見上げる金色の目が、伺うように揺れて、細くなる。
「人を殺すための道具だよ」
「恐ろしいことを言うな」
そのくらいのことで脅かされたりはしない。年下だからって馬鹿にするな、と、言うかわりに、ユリウスも笑ってみせた。
「だって、本当のことだもん。ユーリは知ってる? それはね、『警告の針』って言うんだよ」
「変わった名だな」
「昔、ラリーがニルスからもらったって」
「叔父上が、……父上から?」
「そう。遠いエウロのお城には、これを使って人を殺す、不死身の暗殺者が住んでるんだよ」
「おとぎ話か?」
「どうかなぁ」
冗談なんだか本当なんだか判断のつかない彼女の話を聞きながら、果実の中心を陣取る大きな種を避け、削ぐように実を切り分けてゆく。研ぎ澄まされた薄い刃は、種の付近の肉を薄くそぎ取るのにちょうど良く、暗殺の道具だなんて言われると、なんとなしそういう気分になってしまうような。
「ラリーは、それのおかげでエウロと争いにならずに済んだ、って」
「どういうおかげなんだか……」
あきれた風に呟いてはみたけれど、たぶん、彼女の話は嘘ではないのだろう。いつか、叔父にこのナイフの由来を訊ねてみよう。そんなことを考えつつボウルに桃を盛り付けると、ユキノはそれをのぞき込み、少々落胆した様子で唇を尖らせた。
「随分小さくなっちゃったわ」
「種を取り除いたからな」
「桃ってばかだね、せっかくおいしいのに、大きな種を作るなんて」
「だから、果物が種を作るのは自然なことで……」
「果物じゃなくて、食べ物」
甘い香りが立ちこめるキッチンに、可憐な声がりんと響いた。
はじめ目にしたとき、輝くように見えたユキノの白い翼は、羽毛が抜け落ちて少しみすぼらしくなった。顔色はいつ見ても悪いのにいつでも上機嫌で、山小屋に来てからは特に、何でもかんでもやりたがる。
楽しいけれど、楽しくない。長生きしてくれた方が良いに決まっている。
人が作った短い命。ユキノはそれで良いと言う。
「種なんてつけなければ、全部おいしく食べてもらえるのに」
「桃は、食べられたいって?」
「だって、そのために生まれてきたんでしょ」
やっぱり分からない。
分かりたいとも思えないのに、大好きになってしまった。
「……そんなのは、残酷だ。ゆきの」
「ふふ、ユーリ、あーん」
「あ……」
中途半端に開けた口に、瑞々しい塊がねじ込まれた。たった今ユリウスが、何の気なしに切り分けた命の切片。それは歯を入れた途端解けるように蕩け、同時に、官能的な甘さと香りがいっぱいに広がった。
「美味しいでしょ?」
「ん……」
コクコクと二度頷いて冬桃を味わうユリウスの表情を眺めつつ、ユキノも満足そうに桃を頬張る。
うっとり目を閉じる天使の横顔に、死の影はまだ映らない。けれどこの柔らかな桃のように、彼女の命が溶けて消えていく瞬間の幻影が、冷えた蜜と共に胃の腑へ落ちていくような気がした。
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