第4話

「宇宙飛行士になろうかな、なんて思ったりするんですよ」

「宇宙兄弟か」

 わたしの軽口に、進路指導の先生は少し前に話題になったマンガの題名を挙げた。

「センセイも歳の割に若いマンガを知ってますね」

 翌日、夏季講習が終わった後、わたしは宮古とは帰らず職員室に向かった。老教諭に突拍子もない進路相談を吹っかけたのは、自暴自棄になったからではない。宮古を宇宙人扱いしている大人に話を聞いてほしかったのだ。先生の内心がどうであれ、両親に話すよりは気が楽だった。

「若者文化の下調べってな、教師でなくとも歳を取ると誰でもやるんだ。芸能人とかな。マンガはいい、俺が読んでも大抵面白い」

「なるほど、そういうものですか」

「経費で落ちるしな」

 先生は特に声を潜めることなく笑った。聞かなかったことにした。

「生徒の中で宇宙飛行士になりたいって言ったのはお前で二人目」

「え、マジですか。宮古?」

「最上じゃねえよ。もう何年前かなあ、向井千秋が宇宙に行って、わたしも行けるかって女子生徒が」

「わたしが生まれる前の話ですね」

「するともう二十年も前かよ。ついこの間なのに」

 歳をとってるつもりはなかったんだけどな、と先生はひとりごちた。

「そいつは宇宙飛行士にこそなれなかったが、昔で言う宇宙開発事業団。そこで仕事をしていたはずだ」

「それはすごい」

「お前が言ってるのはそのくらいすごいことなんだが、当事者意識が欠けてるな」

 先生は立ち上がって水出しのお茶を出してくれた。今日はお茶請けはないようだった。

「状況が変わりまして。それ如何では進路変更もやぶさかではないと」

 その言葉に先生は鼻を鳴らした。腰を持ち上げて、座る位置を調整してからこちらを向いた。

「最上が宇宙に帰るかもしれないんですよ」

 本日二球目、相手の意表をつくストレート。しかしこれもまた、ベテラン教師の前では軽々と打ち返されてしまう。

「最上の言ってる、宇宙生まれってやつ、あれはいわゆる頭の病気ではないよな」

「頭の病気ではあるそうですが、宇宙生まれなのは妄想ではないはずです」

「なんだそりゃ」

「宇宙人類ってのは気が遠くなるような暗闇の中で今よりも広い認識能力を会得したんですって。宮古にはそれがなかったそうです」

「宇宙で養われた力がないから地球で治す? 矛盾だな」

 先生はわたしの話す内容を否定せず付き合ってくれる。それがなによりありがたかった。

「んん。いや、なるほどな。治す気がなければ矛盾にならない。今は大分事情が変わってきたが、知的障害や精神障害の患者は癲狂院に押し込められていたんだ。くさいものには蓋をする。サナトリウムじゃなく、閉鎖病棟だな」

 先生の推論にわたしは感心する。どうしてサナトリウムと言うのか。この質問に宮古は答えなかった。

 ここはあなたの病気を治すサナトリウム。幼子をそう騙くらかして、辺境の、恐らくは宮古の星の人々の故郷たる地球に押し込める。お姫様が知恵遅れではみっともない。対外的にも身体が弱いと誤魔化して、世間の目が絶対に届かない場所へ遠ざけた。この町は宮古の閉鎖病棟なのだ。宮古はそれを知っていたからこそ、あえて自らもサナトリウムと表現していたに過ぎないのだろう。

「ろくでもねえな。文明がどれだけ発達しても人間の程度ってのは押し上げてくれない。潮崎、知ってるか。人間の知的水準は古代ローマの時代よりも衰えているって説があるんだぜ」

 嘆かわしいことだ。もっと将棋を指すべきだと思う。

「ということは、最上は治ったのか」

「何もかも見透かす感じですよ。ニュータイプですって」

「ガンダムかあ……。いよいよもったいない、京大辺りに行けばさして浮きもせずってのに」

 思い出したかのように進路指導らしいことを言う。

「しかし、それで宇宙飛行士ね。最上が星に帰ったら追いかけて迎えに行くってか。恋物語だ」

「それなんですよ。わたし、宮古のこと好きなのかもしれなくて」

 三球続けての直球はさすがに先生の頭になかったろう。進路相談が恋愛相談に化けて、ぽかんとした様子で口を開いた。

「無理心中が頭をよぎりました」

「帰ると決まったわけでもないのに?」

「好きかどうかもはっきりしないのに。やばいなあと思って、建設的な方向に考えをもっていこうと。わたし、やっぱり混乱してるんですよ」

 先生は腕を組んで、しばし瞑目した。わたしにかけるべき言葉を探っているようだった。

「潮崎、お前が男ならなあ。心中する前に、最上を孕ませちまって駆け落ちって手があるんだけどよ」

 セクハラだった。わたしは先生を睨みつける。

「怒るな。聞け。あのな、お前と最上に横たわる障害は宇宙規模でも、結局のところそれは二人の間を引き裂く何事かでしかないんだよ。それは結核であったり、親の取り決めた結婚であったりする」

 わたしは素直に肯く。それはその通りだ。

「月の軍勢を迎え撃つための大立ち回りの演じ方を俺は知らん。核ミサイルでもなきゃ無理だろう。お前自身、そんなことができるとは考えていないはずだ。宇宙飛行士っていうのも思いつきだ」

 先生は膝をさすって、こう言い放った。

「進路指導としての助言だ。潮崎は受験勉強してろ。最上は進路調査票出せ」

「それじゃあ何の解決にもならないじゃないですか」

「解決も何も、問題じゃねえんだ、そんなことは。人は遅かれ早かれ死ぬ。最上は死期が早いかもしれない。言っちまえばこういうことだ。だから心中って発想が出る。死にたくなるほど惚れているって手合いにはな、棚上げしてしばらく生きてろ、としか言わねえんだ。冷めちまえば死ぬことはない。入れ込んで死ぬなら止めねえよ」

 言い終えると、先生は椅子をくるりと回して背を向けた。わたしの反論は一切受け付けないといった様子だった。

 わたしはその場に立ったまま、今言われたことの意味を吟味する。いささか乱暴で単純すぎる、老人の考えだ。しかし、棚上げしてしばらく生きてろ、というのはなかなかいい姿勢だなと思った。

「先生、今日、お菓子まだ食べてないです」

「お前、最上より図々しいよ」


 ベランダに出て携帯を眺めていた。

 画面に表示されたショートメッセージの送り主はひいちゃん。ミャークを泊めるけれどシオも遊びに来ないかというお誘いだった。

 将棋でしょ、と送信。すると数秒も経たずに老人の写真を切り抜いたスタンプが送られてきた。加藤一二三の顔写真だった。自作したのかと思うとおかしくなる。遠慮しておくと返してジャージズボンのポケットにしまった。

 ひいちゃんと宮古も、わたしとは別の親密さを保っている。超能力のことをひいちゃんに話したのだと思う。そして、わたしにはできないような内緒の話もするだろう。

 将棋を指して分かり合うものがあるのかどうかは定かではない。けれど、言葉を介したコミュニケーションよりは、説得力があるような気がした。

 今晩は涼しいけれど風はなく、勉強の気分転換にベランダに出たところですることがなかった。喫煙者なら灰皿を置いてタバコを一服するのかもしれない。わたしは今のところ吸うつもりはなかった。

 思いつきで夜空を仰いだ。目をこらして星を見るなんてはじめてのことだ。どれがデネブでアルタイルでベガか。あまり得意ではない地学の知識を引っ張り出して夏の大三角を探した。

 どうにも焦点が合わないと目を細めているうちに、わたしは自分の目が少し悪くなっているのにはじめて気付いた。

 そんな兆候があっただろうか。自覚症状はない。それでも、普通、星を見るのにここまで目に力を入れることはないだろう。

「驚いたな」

 わたしは大三角を見つけるのを諦め、そのまましばらく夜空を眺め続けた。地上の光源が少ないからか、星がいくつも輝いている。

「これじゃあ宮古の星も見つけられない」

 文字通り、目星をつけられるのならば、いつか星を撃ち落とすことができるかもしれないのに。残念なことだ。

 先生の助言は理にかなったものだった。わたしは少し理屈っぽく、合理的で分かりやすいものを好む。十八歳の女子高生のわたしが、宮古の人生そのものを取り巻く問題に何もできないというのは自明のことだ。色恋も心中も、その場になってから考えろという。シンプルな思想は実行に移しやすい。このままひたすら受験勉強を続けるのは最適解であると思う。

 それでも、一緒に死にたくなるほど好き、かもしれない、という感情を解決できるほど、その解法は万能ではなかった。

 難しい話ではない。宇宙がどうの、サナトリウムがどうの、煙幕にもならない。わたしは宮古が好きなのか、という問いかけだ。

 なんとなく、好きなんじゃないかな、とは思う。少なくともキスは抵抗なくできてしまう気がする。宮古が嫌がるのを無理やり押し倒すかどうかまでは分からない。わたしは盛りのついた獣かと思う。恋愛感情を取り扱う時、性欲にあまりに直結しすぎている。切り離すことのできないこととは言え、女の子はもっと抽象的に恋をしているのではないか。詳しくないので分からない。勉強が足りない。

 気付くと、わたしの視線は空ではなく足元に向けられていた。考えているうちにだんだんと頭が垂れ下がっていったらしい。

 星に帰ることを思い悩んでいるのなら、ひたすらに宇宙を睨みつけるのが自然だと思った。

 わたしが悩むのは、十代の、友達に対する、判別のつきかねる感情についてだ。自分のことしか考えていない。

「超能力はひいちゃんに丸投げ。帰還計画は宮古ママに丸投げ。進路指導は先生に丸投げ。わたしは恋の手前で立ち往生」

 こらえかねて、わたしはふきだした。そのままおなかを抱えてその場にしゃがみ込む。

 星空に背中を向けて、わたしはしばらくそこで笑い続けていた。

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