第2話
宮古との思い出の中で取り立てて何かを語るべきエピソードはない。
宇宙生まれで、勘が鋭くて、病弱で、とても綺麗な女の子でも、刺激的な事件に遭遇しないことだってあるのだ。少なくともわたしの知るところ、ごくありふれた生活を送ってきたように見えた。だから、彼女との思い出で鮮烈な印象を残すものはなかったのだ。
本当にありふれた話しかできない。
「志保、王様の名前、ざっと挙げてみてよ」
中学校の帰り道、宮古がこんな問題を出したのを覚えている。四方を水田に囲まれた細い農道で、白い日傘を二人並んで相合傘のように差していたものだから、彼女の体温を近くに感じてとてつもなく暑かった。
「王様って、どこの?」
「なんでもいいよ。君主なら国も時代も」
「皇帝でも天皇でも、カリフでもいいわけ?」
「そういうこと」
歩きながら宮古が言った。話のとっかかりだ、とわたしは気付いた。何か一方的に言いたいことがある時、あくまで会話の形式を取ろうとするところが宮古にはあった。その癖、質問の内容自体が突拍子もないものだから、大抵の場合その目論見は露見した。
「孝明天皇、 マリア・テレジア、イヴァン雷帝、メフメト二世、愛新覚羅溥儀」
いつものことだし、害はなかったのでわたしは思いつくまますらすらと答える。
「溥儀は言いたかっただけでしょ」
必殺技みたいだよねと宮古は笑った。わたしは、それで、と続きを促した。
「たとえば今名前が挙がった五人っていうのは、何かしら歴史に残るようなことをしたりされた人でしょ」
「孝明天皇は一枚落ちるけど」
「それだって謀殺説があるくらいには話の種になる。これが崇光天皇だったり後西天皇だったりしたら名前が出てくる?」
出てくるも何も、そんな天皇がいたなんてわたしは知らない。それらしい漢字を組み合わせて架空の天皇を創作されても気付けない。
「だからさ」
わたしの思いを見透かしたように宮古は言う。
「王様でも刺激的な人生を歩んだ人と、いまいちぱっとしない生活だった人がいて、それは当たり前だよねってこと。むしろ平凡な人生の方が多い」
当たり前のことだった。統治者が全員ドラマチックに生きていられたのでは、国民はとても困ってしまうだろう。
「でも、それって王様ってくくりの中での評価だよね。王様の一挙手一投足が下々の民にとっては全部劇的、って見方、できるでしょ」
わたしは着地点が見えないまま、なんともなしに反論した。言い終えて軽く息を吸った。熱い空気だと思った。
「マンガの王子様みたいな?」
そう問う宮古にわたしは肯いた。
「うん。王子様はなにをやっても華でしょう。よくよく考えたら大したことはしてないのにさ。紆余曲折はあっても、ただ男と女が恋愛するってだけだし」
「読者はそれだけのことをありがたがって読む」
わたしみたいにね、と宮古はけらけらと笑った。宮古のお母さんは彼女に甘いので、マンガ雑誌を月に数冊買えるだけのおこづかいを与えている。お姫様と庶民の経済格差だとわたしは内心憤っており、是正のために宮古の家に上がりこんでは黙々と「花とゆめ」を読みふけっている。
「ここでわたしが曲がったら」
日傘をわたしに預けて、農業道路の十字路の真ん中に立つと、宮古はくるりと回ってみせた。今よりは短く、それでも背中まで伸びた黒髪が揺れた。勢いをつけすぎたのか、髪の束が宮古の顔にぶつかり彼女は顔をしかめた。
「道なりにまっすぐ進むはずの志保との帰り道を、ここで急に右に曲がって走っていったら、それだけでドラマだね」
「自意識過剰。田んぼに落ちろ。オタマジャクシ飲め」
「それはコメディだね……」
「この話の結論はなんなの」
「告白されたぜ」
そう言って宮古は頬をかいた。わたしは駆け寄って日傘を彼女の手へと戻した。そのまま傘の柄ごと包み込むように宮古の手を握った。
「ご、ごだぶりゅーいちえいち」
「全部言うのはかなりの気合がいるなあ」
「誰から」
「下級生。バドミントン部だって。びびったよう」
「返事は」
「頑張って断った」
その答えに全身の力が抜けて、その場にへたり込みそうになった。手を離しかけた寸前でもう一度両手で宮古を捕まえ、彼女の顔を覗き込んだ。
「頑張ったって、断りづらかったの?」
「本当に好きなのが伝わってきたから、きちんと断ろうと思ってさ。今はそういうつもりがないんですって言ったら、お姫様だからですか、病気だからですか、宇宙に帰っちゃうからですかって」
宮古は目をつむり、深いため息をついた。大きな失敗をした、という感じだった。
「で、ぱっとしない生活をしている病気の宮古姫はなんて言ったの」
「わたしは宇宙生まれだけどもうずっとこの町に住んでる一山いくらの女子なので、かぐや姫とは違います、深く悩まないでください、って言ったんだよ」
それを訊いて、下級生くんはまだチャンスがあるってことですねと目を輝かせて去っていったという。
わたしは呆れて、宮古の手を支えにしたまま肩を落とした。
「かぐや姫とは違うって言ったら、期待されるでしょ、そりゃ」
「やっぱそうか」
でも嘘をつける場面じゃなかったんだ、と宮古はぶつぶつと言い訳をこぼした。万事この調子だった。
あの時と同じ道を通って公民館に向かった。建ててから日が浅いと一瞥して分かる、クリーム色の二階建ての建物だ。市町村合併だの箱物行政だのの流れに乗っかりいつの間にか建てられたこの街三つ目の公民館は、大小の会議室と図書室、それに体育館を併設した申し分ない造りになっていて、利用しない人にとっては税金の無駄遣い以外の何物でもなかった。
けれど利用する人間にとってはこれほど親切な施設もなく、ほぼ常設といった感じで将棋道場を開く老人集団やママさんバレーの練習場として活用されていた。高校生はあまり寄り付かない場所だった。
「あ、シオだ」
下駄箱にスニーカーをしまっていると、見知った顔に声をかけられた。
「やあ、ひいちゃん。今日は将棋? バレー?」
「今日は将棋。ミャーク借りてるよ」
背も声も大きい彼女は、通称ひいちゃん。わたしと宮古とは小中高が一緒の間柄だ。と言っても子供も学校も少ないこの町では、そこまで珍しいことでもない。
170センチ近い長身にさっぱりしたボブカットはいかにも体育会系の印象を与えるが、一番の趣味は将棋だ。高校では将棋部に籍を置き、部活動のない日は白髪の老人に混じって公民館で将棋を指している。ついでにママさんバレーにも参加するし、人不足なので運動部の助っ人もする。フットワークの軽い女の子だ。わたしのことはシオ、宮古のことはミャークと呼ぶ。
ひいちゃんと宮古はここでよく将棋を指す。勉強場所として穴場の公民館の存在を知ったのもそれがきっかけだ。
宮古の勘の鋭さは八十一マスの盤上でも発揮されるようで、当意即妙というのか、相手をしてうならせるような妙手をしばしば指す。裏を返せば、それは定見なく場当たり的に指しているということらしく、白星はひいちゃんがずっと先行している。
「今日はとても調子がいいみたいだね」とひいちゃん。「さすが宇宙人って感じ」
ひいちゃんも宮古とは長い付き合いなので、宮古を当然のように宇宙人として扱っていた。宇宙人という表現を用いる時、そこに他意はない。ひいちゃんというあだ名が日比谷という苗字を変形させただけのように、宇宙生まれだから宇宙人という愛称になった、それだけのことだ。
「大阪ってあだ名の女の子、漫画にいたっけな」
「何の話?」
わたしの独り言を拾ってひいちゃんが問う。
「あだ名の話。宇宙人」
「ああ、ミャークのね」
「宮古のことをミャークって呼ぶのはひいちゃんだけ」
「シオのことをシオって呼ぶのもあたしだけ」
「こだわりがあるの?」
「名前をつけるのが趣味、みたいなところがあるよね。お金のかからない趣味」
世の中にはお金を出して命名権を買うこともあるらしいけれど、とひいちゃんは笑う。そういう考え方もあるのだなとわたしは感心した。
「宮古の勘のよさって宇宙由来なのかな」
ふと気になって、ひいちゃんに訊いた。宮古の勘についてはひいちゃんの方が詳しい。それはひいちゃんが宮古と将棋を指すからであるし、行動的であると同時にそそっかしい部分を備えているからでもある。ひいちゃんが引き起こした小さなトラブルに宮古が力添えをした場面が何度もあった。
「どうだろうね、地球育ちがいい方に作用しているのかもよ」
「たとえば将棋とか」
「ああ、宇宙には将棋がないのかもしれない。そこでは羽生名人は花開くことはなかったかもしれない」
「宮古は将棋の申し子かな」
「それならわたしぐらい完封してほしいかな」
ひとしきり談笑した後、そろそろ戻るとひいちゃんは踵を返した。これから宮古と対局するからと観戦していかないかと誘われたが、断って図書室に向かった。
わたしが二人の対局を眺めていると、手が空いているなら君も一局、とお声がかかる。付き合っているうちに夏の長い陽も暮れて、参考書も開かずに帰宅することになる。
図書室の長机に英語の問題集を広げて、栞を挟んだところから解き始めた。
ひいちゃんが宮古を預かってくれるのは勉強には好都合だ。隣にいるとすぐ与太話をはじめるので集中が途切れてしまう。
コンビニのプライベートブランドでおいしいお菓子の話、東欧の民族衣装がとてもかわいいのを知っているか、宮崎駿以外の監督が撮ったジブリ映画の魅力、綺麗なお姉さんが路上で猫にちょっかいを出していたのを見た。話題は尽きない。
方眼ノートに問題集の解答を書き記しながら、わたしが物事を思う時に事例を列挙する癖は、宮古に付き合ってきた中で形成された部分も大きいのかもしれないと思った。
見出し三つ分の問題の正誤を模範解答と照らし合わせて、抜け落ちていた文法表現の確認をしているところで、図書室の扉が開く音がした。
先に入ってきたひいちゃんの背中が丸まっている。どうやら負けたらしい。
「ミャークの神がかりにやられた。前はまぐれって感じだったのに、とうとうコツを掴んだか」
ひいちゃんはどっと疲れた様子でこぼした。ひいちゃんは宮古の鋭い読みのことを神がかりと最近呼ぶようになった。これもまた彼女の趣味の一環なのだろう。
「コツを掴んだって感じじゃ、ないんだけどなあ」
宮古は数回ボールを投げるような仕草をしてから首をひねる。自分でも納得しない勝ち方をしたのだろうか、あまり表情が優れない。
「ああ、髪あつい。じゃまっけ」
「邪魔なら切ったらいいのに」
ひいちゃんは宮古の艶やかな髪を頭の形に沿わせるように撫でた。
「簡単に言ってくれるなよお。ばっさりやったら後戻りきかないんだから」
「今切ったら次は三十六歳だね」
わたしはそう言って宮古をからかう。すると、ひいちゃんは興味の対象を急にわたしに移した。
「シオは勉強ばかりしている」
ひいちゃんはしげしげと卓上に広げられたノートを指差した。
「おい、受験生」
「いや、進学希望だけど、取り立てて何かしたいって訳でもないし」
「わたしだってそうだよ。ないから、とりあえず勉強しているだけで」
こういう話題の時、何度となく口にした言葉だ。わたしは具体的に何か夢や目標を持っているわけでも、いい大学に入りたいという漠然とした思いもなかった。
職員室の前で宮古に説いたのは一般論ではなく、わたし自身がどうしたかに過ぎないのだ。大学に進まず高校を出てすぐ働くという進路でも、わたしは別に構わなかった。
「モラトリアムがほしい、ってやつ?」
「どうだろ。四年の猶予があっても、結局四年後、同じようなことを言っている気がするよ」
「あはは。志がないね」
ひいちゃんが笑う傍らで、宮古が珍しく神妙な顔をしているのに気付いた。が、その途端に貼り付けたような笑顔を作ったので、これは後で訊いた方がいいと考え、今は指摘するのをやめた。
「ああ、でも、受験勉強は楽しいから、これがわたしにとっての今の趣味ってとこじゃないかな」
「ちょっと分かる。勉強は楽しい。知らないことを知るのは気分がいい」
ひいちゃんが頷く。すると、会話に入り込む隙をうかがっていたかのように宮古が口を開いた。
「わたしは問題演習やってる方が好き。繰り返して同じ問題解いてると安心するよ」
対照的な二人の答えにわたしは笑った。どちらの気持ちも分かる。けれど、わたしの楽しみは勉強の中身ではなく、形式に対してのそれなのだ。自分のスタミナを見極め、適切なペース配分を考え、現状に見合ったレース進行を設定する。長期計画はスムーズに進むとマラソンのような心地よさがあるとわたしは思っている。
「ええ、マラソン楽しいかなあ?」
その言葉にわたしはぎょっとして宮古の顔を覗きこむ。思っただけで、何も言っていないのだ。
ありうべからざる言葉を呟いた宮古は口元を両手で覆い、視線をさまよわせながら、何よりも雄弁に、しくじったという表情を浮かべていた。
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