第35話 滅亡
夜になると、静けさはひとしおだった。郎党の数が少ない上、非常時である。要所に松明は焚いてあるが、それ以外、館の中は闇に包まれている。神に祈りを捧げるから、と藤木は湯浴みを断った。祐則が気遣って、湯を張った桶に手ぬぐいを入れてきたので、簡単に手足と顔を拭いた。祐則がさがると、部屋の中にしん、と静けさが落ちてくる。少し丸みを帯びた半月が青白い光りを投げかけていた。
藤木は、国明に貰った青磁のかけらと土鈴を手に、廊下に座って月を眺めた。夜風に吹かれ、国明を思う。今頃、何をしているのだろう。もう和田に合流して戦いはじめているのだろうか。それとも、この同じ月を眺めているだろうか。ころん、と手の中の土鈴が小さく音をたてた。そっと藤木は、土鈴に唇を寄せる。
「無事で…国明…」
この世に神がいるのなら、海神でもなんでもいい、国明をお守り下さい。
藤木は祈った。人智の及ばぬ存在に、今初めて、藤木は真剣な祈りを捧げた。
翌日、五月三日も何事もなく過ぎていった。藤木はジャージ姿のままだった。願掛けというわけではないが、神様としての格好をしていようと思ったのだ。朝餉が終わると藤木は国忠の部屋へおもむいた。一人でいたくなかった。眠っている国忠の横で、藤木は「教育委員会監修・郷土の歴史と文化」を開いて読んだ。何か役にたつことでもないかとあちこちに目を通す。
今、戦っているんだ…
大丈夫、と藤木は自分言い聞かす。義秀も誉めていた。弓の腕は那須の与一以上だと。太刀で切り結んでも誰にも負けないと。
ぱらぱらとページをめくり、朝比奈義秀が討ち死にせずいずこかへ駆け去ったという記述をみつけ、少し気分が上向いた。
和田合戦でも生き延びた義秀が国明の強さを認めているんだ。絶対帰ってくる。
藤木は本を閉じ、ポケットに入れた。一緒に入れているスマホが手に触れる。祈るように藤木はそれを握りしめた。
その日、五月には珍しく、蒸し暑い夜だった。そよとも風が吹かない。早々に床についた藤木だったが眠りは浅かった。
突然の電子音が鳴った。藤木は飛び起きる。枕元に置いていたスマホのロック画面が明るく光っていた。LINEの通知とゲームのアップデートの通知が表示されている。平仄が置かれている以外、真っ暗な部屋で、その光りは異様に鮮やかだ。藤木は顔だけ上げて光を見つめた。すぐに画面はまた暗くなる。震える手で藤木はスマホを取り上げた。ホームボタンを押せばロック画面にアンテナが三本立っている。
繋がってる?
藤木の世界と今、繋がっているのか。まだ繋がっていたのか。藤木はホーム画面に入った。新着の赤い丸が表示されている。
僕の世界に繋がっている…?
再びLINEの通知音、メッセージの通知音、メールの着信音、連続して音が鳴り響く。アイコンの横に赤い丸で開いていない件数が表示されそれがどんどん増えている。藤木は息を詰めて光を見つめた。どきどきと心臓が早鐘を打ちはじめる。藤木が思わず身じろぎしたその時、アンテナ表示が消えた。部屋に再び、静けさが降りてくる。暗闇の中で、藤木はスマホを見つめ続けた。しん、と部屋は静けさに満ちている。もうスマホに変化はない。
じっとりと嫌な汗が滲んでいる。
何が起こったんだ…
得体のしれない不安にかられ、藤木はスマホを握りしめた。ホーム画面には着信した数が表示されている。確かに繋がった証拠だ。
なにかが起こる前触れ…?
背筋を冷たい汗が流れる。風もないのに平仄の炎がゆらりと揺れた。闇が深い。
国明…
拭いきれない不安に戦きながら藤木はまんじりともせず、夜を明かした。
翌日も朝から湿気を帯びた空気に嫌な熱が籠もっていた。雲が重く垂れこめている。昼でも薄暗い空を藤木は眺めた。
異変は唐突だった。庭に馬の蹄の音が響いたと思うと、上がり口が騒然となる。藤木は声のするほうへ急いだ。そこには血塗れの郎党が朋輩に抱えられていた。藤木の姿を認めると、苦しい息の下から絞り出すように叫ぶ。
「討っ手がそこまでっ。おっお逃げ下されっ」
そのまま崩れ落ちた郎党の側へ藤木は駆け寄った。
「国明はっ」
息も絶え絶えなその郎党は薄く目を開けた。藤木は手を取り、もう一度大声で聞いた。
「国明はどうしたのっ」
「殿は…」
言葉を吐くたびに、真っ赤な鮮血の泡が口から溢れてくる。それでもその郎党は必死で口を開いた。
「討っ手をかわす際、はぐれ申した…されど榎本の庄には入られたよし…」
「忠興は…秀次は一緒じゃないのっ。」
「ご両人とも…さくじつ…討ち死になされ…」
ご立派な最後でござりました、とそこまで言った郎党は、がっくりと首を垂れた。藤木はその場で凍り付いたように動けない。
忠興と秀次が…
最後に見た二人の笑顔がぐるぐる回る。
土産を持って帰りますからなぁ。
忠興はそう言って笑ったのに。秀次が呆れたように首を竦めて…
ばたばたと残った郎党達が具足を身につけ飛び出してきた。
「御渡り様、こちらへっ」
誰かがぐいっと藤木の腕を引く。祐則だった。腹巻と呼ばれる胴体を保護するためだけの鎧と、籠手、脛あてをつけている。
「こちらへおいでくだされっ」
門の方で怒号や鬨の声があがった。祐則の手には藤木のスニーカーがある。
「お早くっ」
藤木にスニーカーを履かせ、祐則はまた手を引いた。藤木ははっと我に帰る。
「待って、祐則、大殿さんはっ」
「お行き下され、御渡り様」
大音声が響いた。上がり口に国忠が姿を現す。赤地錦の鎧直垂に大太刀を握っていた。仁王立ちになった国忠はまた大声で藤木に叫ぶ。
「行かれませ。お早く。」
「大殿さんっ」
ぐいっと強く腕を引かれた。国忠が力強く頷く。館のあちこちに火の手が上がった。
「大殿さんっ」
「なりませぬ。御渡り様っ」
祐則が藤木の腕を掴んで走り出した。館の中を突っ切り、浜へ続く裏口にたどり着く。
「でも祐則っ。まだ国明が…」
「殿は祠でお待ちのはずでござりますっ」
祐則は藤木を引っ張って裏口から走り出た。
「殿が出陣の際、それがしに仰せつけられました。万が一の時は御渡り様を祠へお連れするようにと」
藤木は祐則に手を引かれながら走った。後ろで大きな音が響く。はっと足を止め振り向くと、館が火に包まれていた。
「祐則っ、館が」
「なりませぬっ。祠へお急ぎをっ」
ぐいぐいと引かれてまた走りだす。背後で炎上する館の火の粉がぱちぱちと飛び散ってきた。
大殿さんっ。
国忠はあのまま自刃したのだ。一緒にいた郎党達も運命をともにしただろう。
大殿さんっ。
鎧直垂を身につけ、すっくと立った国忠の姿が目に焼き付いている。雄々しく、それでいて藤木に行けと叫ぶ目は、慈しみに満ちていた。
国忠は藤木に生きろと言った。ならば自分は走らなければならない。
火の粉の舞う松林の中を祐則に手を引かれ藤木は駆けた。突然、目の前の地面に矢が突きたった。松林の向こうから何本も矢が飛んでくる。祐則が太刀を抜きはなち、藤木に叫んだ。
「ここはそれがしが食い止めまするっ。祠へお走りくだされっ」
「だめだ、祐則っ」
「お早くっ」
「すけのりっ」
嫌だ、祐則まで死なすのは嫌だ。元服して名字をもらうのだと目を輝かせていたのに、藤木よりも年下で、まだ、人生の何の喜びも知らないはずなのに。
藤木は祐則の腕を掴んだ。
「祐則、生きなきゃだめだっ」
「それがしはっ」
祐則がにかっと全開の笑みを藤木に向けた。
「御渡り様にお仕えして幸せでござりましたっ。御渡り様はそれがしのようなものにも優しゅうしてくだされた。天上の甘露をくだされた。あの美味なる味は忘れられませぬ。それだけで、もう祐則は十分に生きたかいがあるのでござりますっ」
あんなミルクキャンディ一つで、たかが藤木涼介という高校生が声をかけたくらいで、祐則は幸せな人生を生ききったと言うのか。藤木よりもまだ若い身空で。
わめき声が聞こえた。甲冑姿の武士が数人、刀をふりかざして駆けてくるのが見える。
「お早くっ。殿のところへっ」
祐則は太刀を構え、藤木を祠の方へ押しやった。
「祐則っ、望みを、最後の望みを言えっ」
気がつくと藤木はそう叫んでいた。祐則が目を瞠り、それから嬉しそうに叫び返してくる。
「それがしに名をくだされませっ」
「藤木の名を君にあげる。藤木祐則、そう名乗れっ」
「ありがたき幸せっ」
藤木は踵をかえすと、祠へ向かって全力で走りはじめた。討っ手のわめき声がすぐ近くまで迫っている。背後で祐則の声が聞こえた。
やぁやぁ、遠からんものは音にも聞けい、我が名は藤木祐則…
藤木は走った。必死で走った。振り向くわけにはいかない。国忠や祐則、藤木を守ろうとしてくれた人達のためにも、国明に会うのだ。
砂に足を取られる。涙が溢れてきた。ぽろぽろ零れて止まらない。それでも藤木は走り続けた。国明に会わなければ。
ポケットの中でなにか音がする。だが、かまっている余裕はなかった。祠へ、国明のところへ。
「国明っ」
藤木は叫んだ。祠はすぐそこだ。浜から祠へ登る道を藤木は走った。
「国明っ」
登り切ると視界が開けた。白木造りの祠の前から一面の草原だ。国明と初めて出会った場所、国明は栗毛の馬を駆って藤木の前に現れたのだ。
「国明…」
馬が倒れていた。栗毛の、国明の馬だ。草原の彼方まで雲が重く垂れこめている。灰色の空の下、馬は幾本も矢の刺さった体を横たえていた。茶褐色に濡れた草が風に揺れている。
倒れた馬の傍ら、祠の正面に武者が膝をついて座っていた。兜は地面に転がり、結われていない黒髪が肩に落ちている。全身血塗れだ。矢筒にはすでに一本の矢もない。背中や肩に矢が刺さったまま、折れた太刀に寄りかかるようにしている。生きているのか死んでいるのか、ぴくり、とも動かない。
藤木はぎくりと動きをとめた。息を飲んだまま血塗れた武者を見つめる。
「藤か…」
微かに武者が身じろぎした。ゆっくりと顔を上げる。
「国明っ」
生きていた。
一瞬にして歓喜が沸き上がった。
生きている。
藤木は国明に駆け寄ろうとした。安心したせいか、足がもつれる。
「国明、怪我はっ」
顔をあげ、藤木の姿を認めた国明は安堵の色を浮かべた。藤木も微笑みを返す。だが、次の瞬間、国明の顔が強ばった。
「藤…」
「え?」
ただならぬ国明の様子に藤木は思わず足を止める。国明は目を見開いてしばらく藤木を凝視していたが、それからふっと寂しそうに微笑んだ。
「そうか…帰るのか、藤…」
「国明…?」
国明の視線に、足を止めていた藤木は己の体を見た。そしてぎょっとなる。いつの間にか藤木の体を白い光りの粒子が取り巻いていた。
「なっ…」
ポケットから音がした。はっと両手を動かすと光が舞い散る。また音が鳴った。スマホの着信音だ。
そんな馬鹿なっ。
藤木はポケットに手を突っ込みスマホを掴み出す。ロック画面が明るく光り通知が表示されている。
何故こんな時に、何故今…
「だめだっ」
藤木はスマホを力一杯投げ捨てた。祠の傍らに生えた若木の、親指ほどの幹に当たってスマホは下に落ちた。だが、藤木の体を取り巻く白い粒子はますます光りを強めていく。
「嫌だっ」
藤木は国明の側へ駆け寄った。そのまま藤木は国明の胸に飛び込む。すっと体が国明を通り過ぎた。
「え…」
草の上に膝をついた藤木は、慌てて体を起こすともう一度国明に触れようと手を伸ばした。
さわれない。
目の前に国明の顔があるのに、藤木の手はそれを通り抜けてしまう。
何度も何度も藤木は手を伸ばした。だが、同じだった。国明に触れられない。
草の上に膝はつけるのに、大地の感触はまだ膝にあるのに、何故国明にはさわれないのだ。
「国明、国明っ」
くしゃりと顔を歪め、藤木は国明の名前を呼んだ。国明が目を細めた。血に濡れた皮のゆがけのまま、国明は藤木の頬に指を伸ばす。だが、その指は藤木の頬を通り抜け宙をかいた。それでもしばらく藤木の頬の辺りを彷徨っていたが、そのうちぱたりと力を無くして下に落ちる。国明の口元に諦めたような笑みが浮かんだ。
「もはや…触れることもかなわぬか…」
「嫌だっ、嫌だよ国明っ」
藤木は泣きじゃくった。自分は国明と一緒に生きるのだ、それがかなわぬ時には共に死ぬのだ、そう決めたのに、何故今頃になって元の世界に引き寄せられていくのか。
「国明と一緒にいるっ」
今ここで国明と死ぬ、そう叫ぶ藤木に国明の表情が和らいだ。
「おれと共に?」
「国明と一緒に死ぬっ」
国明は微かに首を振った。そして懐から小刀を取り出す。藤木の口から悲鳴が上がった。
「やめてっ」
それは藤木が現代から持ってきた小刀だった。榎本の最後の当主が、榎本国明が自刃したと伝えられる忌まわしい小刀。藤木は必死で小刀を取り上げようとした。が、虚しく手は宙をかくばかりだ。国明は笑みを浮かべたまま言った。
「戻るがいい、おぬしの世界へ」
すらりと小刀の鞘をはらう。刀身がきらっと銀色の光を放った。
「やめて国明っ」
藤木は半狂乱だった。言い伝え通りに、あの小刀で国明が命を絶つ。歴史は変わらない。ならば何故、藤木はこの場にいるのか。為す術もなく、しかし、身を切り裂く悲しみは現実のものだ。何故、なんのために藤木はここに来た。この悲嘆は、絶望はいったい何なのだ。
「嫌だ、やめて、国明ーっ」
胸を掻きむしらんばかりに藤木は叫んだ。国明がまた首を振る。
「おぬしの姿が見えるうちに死なせてくれ。おれの…」
それから国明は優しく微笑んだ。
「すまぬ、おれの我が儘だ」
「嫌だっ」
藤木は激しくかぶりを振った。
「そんな我が儘聞いてやらないっ。約束したじゃないかっ」
ぼろぼろと流れる涙が大地に落ちる。
「死なないって、一緒にいるって約束したじゃないっ」
国明は何も言わない。優しく微笑んだままだ。
「死んだらだめだ…国明…」
泣きながら藤木は国明に手を伸ばした。触れないとわかっていても、それでも国明を抱きしめようとした。その時突然、藤木の体を取り巻く白い粒子が渦を巻きはじめた。
連れて行かれるっ。
藤木は戦いた。
国明と離されてしまうっ。
藤木は必死で抗った。
「嫌だっ、君と一緒にいるっ」
光を振り払おうと身を捩る。だが白い輝きはますます強くなり、藤木の体を包みこみはじめた。
「藤」
力強い声が藤木を呼んだ。ハッと藤木は動きを止める。
藤木の目の前に、黒髪をはらいどっかりと大地に腰を据えた国明がいた。濃い緑の草原に垂れこめる暗灰色の雲、血塗れた赤糸縅の国明だけが鮮烈だ。国明は藤木に向かってきっぱりと言った。
「八百年たとうと、千年過ぎようとおれの魂はおぬしを求め、そして見つけだす」
国明は泥と血に汚れていたが、黒々とした瞳はまだ光を失っていない。凛とした響きが藤木の耳を打った。
「これからどんなに時を経ようと、おぬしはおれのものだ」
ざぁっと草の葉を揺らして、一陣の風が草原を吹きすぎていった。国明の黒髪が鎧の上に散る。
風が国明を連れて行く、連れて行ってしまう。
藤木は恐怖した。だが声が出せない。体を強ばらせたまま、ただ、国明の黒い瞳を見つめるだけだ。国明が小刀の柄を両手で握り、刃を首に当てた。銀の刃に映る朱は鎧の色なのか、それとも国明の血の朱か。
「忘れるな、藤」
静かな声だ。国明の、まっすぐに藤木を見つめる黒曜石の瞳にはいまだ黒い炎が揺らめいている。
「しばし、さらば」
国明がぐっと口元を引き結んだ。左肘が上がったと同時に柄を握った拳に力が込められる。刃が首筋に食い込んでいく。ガッと目を見開き、渾身の力で国明が柄を握った両手を引き下ろした。
「あっ」
藤木の世界から音が、色彩が消えた。灰色の世界でそこだけ鮮やかな朱が弧を描く。
あれはなんだ、あの朱はなに…
藤木は手を伸ばす。
傾いでいく体は、灰色の草を濡らす朱は…
「いやだ、くにあきーっ」
藤木の悲鳴と白い光りが炸裂するのが同時だった。真っ白な輝きに目が眩み、意識が遠のく。薄れていく意識の中で、国明の声が聞こえたような気がした。
どんなに時を経ようと、おぬしはおれのものだ。忘れるな、藤…
そのまま藤木の意識は途切れた。
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