第36話 帰還
「アニキが見つかったっ?」
藤木健太は椅子をはねとばして立ち上がった。
「ぶっ無事なのかよっ」
「特に外傷はないそうです。ただ、意識がないため、病院で検査を」
藤木家の人々は待機していた宿から知らせにきた警官のパトカーに同乗にして病院へ向かった。
「佐見の目が覚めたそうだぞ」
秀峰高等部テニス部副部長、立石が、自主的に居残っていたテニス部員達のもとにかけこんだ。合宿所近くに大手の病院が移転してきていたため、佐見はそこへ入院しているのだ。部員達が病院へ駆けつけた丁度その時、藤木健太、裕子、そして藤木の両親が病院へ到着した。
「藤木が見つかったぁ?」
そのまま、藤木の家族とテニス部一同は藤木の病室に直行する。
三月三十一日の午前九時二十三分、藤木涼介失踪二日後のことだった。
なんだかあったかい…ふかふかだなぁ。あぁ、国明が抱いていてくれるからか。
帰ってきたんだ、国明、国明でしょう?国明。
おっおれか?
あぁ、やっぱり国明だ。おかえり、国明。どこも怪我してない?
怪我はないが…
よかった。ねぇ、国明、手。
手?
うん、いつもみたいに手、握って。
こっこうか?
ふふ、どうしたの国明。今日はなんか大人しいね。
そうでもないぞ。お前こそ大丈夫なのか。
う~ん、あんまり大丈夫じゃない。
どこか痛いのかっ。
怖い夢見たんだ。
夢?
うん、夢。国明が自害しちゃう夢。
自害?
館も燃えたんだ。
それは歴史の本の話だろう?
だって怖かったんだよ。目の前で死んじゃうんだから。
おれは死んでいないぞ。
そうだね…
… よかった…
「ありゃりゃ~、また寝ちゃったよ、藤木。」
中丸が肩を竦めた。
「でもよかったな。一応、どこも異常ないって?」
「ホントに心配かけてすみません。」
立石が笑うと兄に付き添っている健太がぺこっと頭を下げた。
藤木が見つかって丸一日がたっていた。藤木の病室には、秀峰テニス部の仲間達が見舞いにきている。
「オヤジとお袋、今、警察のほう行ってるんで。またあらためてお礼したいって言ってました」
丸二日、行方不明だった藤木の無事が見つかり、とりあえず体にも異常がないと聞いて、秀峰の面々はほっと表情を緩めている。藤木の傍らには佐見国明が座っていた。自宅から持ってきてもらった深緑のパジャマに紺色のガウンを羽織っている。検査のため、あと二日ほど、入院していなければならないらしい。
「佐見は起きていても大丈夫なのか?」
「あぁ、もう何ともない。検査の結果がでたら退院だ」
椅子に座る佐見の手は、藤木にしっかり握られていた。健太が困りはてた様子で佐見に謝る。
「すいません、うちの馬鹿アニキのヤツ。佐見さん、ご迷惑でしょう、手、はずしてください」
そう言いながら藤木の手をはずそうとする健太を佐見は遮った。
「いや、かまわん。どうせオレも入院中でやることもないしな。藤が落ち着くならしばらくこうしていよう」
「ちゃんと目が覚めたら大丈夫なんだよな」
中丸がまだ不安げに言った。ぽん、と立石がその肩を叩いた。
「大丈夫だって先生が言ってただろ」
それから、皆を促した。
「今日はもう引き上げよう。明日は宿をたつから、その前にまた様子を見に来るよ」
この騒ぎで合宿自体は中止になっていたが、合宿期間は部屋が使えるということで、皆、残っていたのだ。明日はその最終日で、宿を引き払わなくてはならない。
「なにかあったら連絡してくれ」
健太がペコリと頭を下げる。立石は佐見に手を挙げた。
「じゃあな、佐見。お前も無理するな」
「あぁ、すまない」
そぅっと足音を忍ばせ、秀峰テニス部一同は病室を出ていく。廊下に出たところで上城が誰に言うともなく呟いた。
「藤木先輩、部長のこと、国明って呼んでましたっけ」
皆が顔を見合わせた。立石が中丸に聞く。一年の時から同じクラスの藤木と中丸は仲がいい。
「君、聞いたことあるかい?」
「んにゃ、ない」
首を振る中丸に上城が頷いた。
「さっき藤木先輩、国明って言ってたじゃないっすか。なんかいつもより親しげっていうか…その、声が…」
「……甘かった」
常に淡々として遠い雰囲気を持つ藤木が寝ているとはいえ随分と可愛らしい空気をまとっていた。全員、それは感じたようだ。
「まっまぁ、二人とも無事、退院したらな、またその時にな」
何がその時に、なのかよくわからないが、副部長立石の言葉でその話しはお終いになった。
「健太君、藤木ならよく寝ているし、しばらくオレが付き添っていよう。君は色々と雑用があるのだろう?」
「あ、いいんスか?佐見さん」
健太は恐縮しながら、その申し出をありがたく思った。あれこれ、必要なものを買い出しに行くよう母親にいいつかっていたのだ。裕子は担当医のところにいっていた。
「じゃ、すぐ戻りますんで。アニキのこと、宜しくお願いします」
パタパタと健太は部屋を駆けだしていった。病室には藤木と佐見の二人きりになる。午前の太陽が大きな窓から射し込んでいて、部屋は明るかった。佐見はじっと藤木の寝顔を見つめた。切れ長の目は閉じられ、桜色の唇が僅かに開いている。左手は佐見の右手を握ったままだ。
「…藤…」
佐見は小さく藤木の名を呼んだ。サラサラと柔らかい髪が白いシーツに散っている。佐見は左手でそっとその髪に触れた。指を差し入れ、梳いてみる。細い髪の毛が指の間から零れた。その感触が心地よくて、佐見は何度も藤木の髪を梳いた。
「ん…」
藤木が身じろぎした。ぎくりと佐見は手を引っ込める。だが、藤木は、握った方の手に頬を寄せてきた。
「藤…」
佐見はもう一度、藤木の名を呼んだ。
「…う…ん…」
頬をすり寄せたまま、藤木が目を開ける。綺麗な茶色い瞳が佐見を見た。
「国明…」
ふわっと藤木は微笑んだ。
「よかった…国明…」
藤木は佐見の頬に片手を伸ばし、触れてくる。佐見は狼狽えた。どう対処していいかわからずカチコチに固まった佐見の頬を藤木は何度も撫で、ほっと息をついた。
「あぁ…今度は触れられる…」
よかった…ともう一度呟く。
「…藤?」
「国明…そんな格好して、まるで佐見みたい…」
佐見はぽかん、と藤木を見つめた。藤木はまたにこっと笑うと、すぅっと寝入ってしまう。
「おい、藤」
すぅすぅと寝息をたて、目を覚ます気配もない。佐見はその寝顔を見つめた。
「わけがわからん…」
行方不明だったという二日の間に何があったのだろうか。眉間に皺を寄せ、佐見は首を捻っていた。
ふっと意識が浮上した。目を開けると、白い天井が目に入る。 「涼介」 「アニキっ」 家族の声に藤木は目をしばたたかせる。手を握る柔らかい感触、藤木は僅かに頭を動かし横を見た。 「…母さん…?」 「涼介、もう大丈夫よ、大丈夫」 涙ぐみながら母親が頷いている。その後ろには健太や裕子、そして外国にいるはずの父親の姿まであった。 「僕は…」 喉がカラカラで声が掠れている。父親がぽん、と藤木の頭に手を置いた。 「いいから、涼介」 「私、先生呼んでくる」 裕子が慌ただしく部屋を出ていった。母親が優しく藤木の手をさすった。 「涼介、どこか痛いところはない?喉、乾いてない?」 「あっアニキ、大丈夫かよ」 健太が顔を覗き込んでくる。心配そうに世話をやこうとする家族の姿を藤木はどこかぼんやりと眺めていた。 ドアが開いて白衣を着た医者と看護婦が入ってきた。後には裕子が続いている。四十代半ばくらいの、がっしりした体躯の医者は、どこか痛むところはないかね、と穏やかに声をかけながら触診した。 「まぁ、大丈夫でしょう。別段、これといって心配な症状はありませんし」 明日、もう少し検査してみましょう、と医者は安心させるような笑みを両親に向け、それから藤木の肩をぽんぽんと叩いた。またドアが開き、看護婦が入ってくる。 「あの、藤木さん、警察の方がお見えですが」 「まだ目が覚めたばかりだ。もう少し待って貰いなさい」 医者が看護婦に指示をだした。それから、何かあったらすぐに呼んでください、と言い残し、病室を出ていった。 「涼介、お母さん達、ちょっと警察の方のところへ行ってくるから。健太はここにいて。裕子、何か涼介に飲ませて頂戴」 すぐ戻るから、と言い置いて両親はロビーへ向かった。 「なにか温かいものの方がいいかしらね。あ、点滴、どうするのかしら。健太、ちょっとお湯とってくるわね」 裕子も病室を出ていく。健太は藤木の傍らのパイプ椅子に座った。再び部屋がしん、となる。ポタッポタッと点滴の音だけが響いていた。じっと横になったまま、皆の姿を眺めていた藤木だったが、その時唐突に理解した。 帰ってきてしまったんだ… 皆、忠興も秀次も、そして国明も死んで、藤木一人が死に損ねた。自刃する国明を置いて、現代に帰ってきてしまった。 僕一人が… 視界がぼやけた。涙が溢れる。 僕だけが… 「アッアニキっ」 傍らに座る健太が慌てて立ち上がった。 「どっどうしたんだよ、どっか痛いのか、なぁ、アニキ」 仰向けになったまま、するすると涙が伝い、藤木の髪や枕を濡らした。 「なぁ、どうしちまったんだよ」 健太はおろおろと狼狽える。 「アニキ…」 白い天井を見つめながら、藤木はただ、静かに涙を零し続けた。
警察の質問が何度かあった。しかし、藤木は何も覚えていない、と答えるだけで、あとは黙り込んでいた。それで、一応記憶障害、ということになっている。
行方不明になっていた間の記憶障害をのぞけば、他に不審な事柄も見つからないとあって、この事件は結局それで終わりになった。だが、それでもしばらく両親は警察と病院の往復で忙しくしていた。藤木自身は体に別状なしということで、二日後には退院を許される。佐見はその前日、退院した。病室に顔をだしたそうだが、丁度藤木は眠っていて、顔をあわせることはなかった。
「涼介、寒くない?」
四月初めの風はまだ冷たかった。父親が病院の正面に車をまわしてくる間、藤木はぼんやりと外に佇んだ。
今日は四月二日…
桜はまだ蕾で、咲いている木は見あたらない。
もう若葉だったのに…
館に吹く風は肌に心地よく、初夏の緑が眩しかった。それなのに、ここはどうだ。桜もれんぎょうも花すらなく、緑は淡い。
「アニキ、時差ぼけ、まだなおんねぇの?」
ようやく落ち着いた藤木が、四月一日だと日付を教えられて呆然としたのを、健太はまだ心配しているのだ。藤木はわずかに微笑んだ。
「もう大丈夫だよ、健太。心配いらない」
そう、もうなにも心配ない。ほんの二日ほど時間がとんで、またもとの生活が戻ってくる。父親の車が正面玄関に停車した。家族が病院のスタッフに挨拶している。藤木は車に乗り込んだ。海沿いの道を東京に向かう。波が早春の陽をはじいてきらめいている。車窓を流れる明るい海を藤木はただ見つめていた。
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