第17話 少しだけの仲直り
国明と忠興が館へ帰ってきたのは、翌日、日も傾いてからのことだった。
夕焼けが空を朱に染める頃、二つの馬影が館の門をくぐった。
「殿っ」
秀次等郎党達が転がるように庭に飛び出す。
「殿のお帰りじゃっ」
「殿っ、叔父殿っ」
上がり口の前で大騒ぎがおこる。
藤木はその時、部屋で一人、ぼんやり空を眺めていた。夕暮れの空には半分に欠けた月がかかり、天頂は深い藍色をしている。つらつらと藤木は物思いにふけっていた。
国明のこと、砂浜で現代に帰りかけたこと、三浦が自分を欲しがっていること、そして何より、自分の無力さ。三浦の使いがきたときに、為す術もなくただ人任せになっていた己自身を思うと、悔しさや情けなさに身を切られるようだ。勉強においても、スポーツでも、周りから一目置かれていた藤木は、それなりに自信も自負もあった。しかしここへ来て以来、思い知るのは誰かの庇護を受けなければ生きていけない己の脆弱さばかりだ。
これじゃあだめだ…
忸怩たる思いを振り払うように仰ぎ見ると、東の空にかかる半月の脇に、小さな銀の粒が光っている。小さな光、だが、己自身が光を放っているのだ。
海神伝説に乗っかっている僕とは大違いだな。
自嘲気味に呟いたとき、庭先の騒ぎが聞こえてきた。藤木はハッとする。国明が、国明と忠興が帰ってきたのだ。はやる気持ちを抑えて、藤木は上がり口へと向かった。
落ち着け。
藤木は自身に言い聞かせる。何もできない身だが、せめて心配だけはかけたくない。ことさらゆったりとした足取りで上がり口の廊下に出ると、丁度忠興が入ってきたところだった。後ろには大荷物を抱えた郎党が数人続いている。上がり口に控えていた郎党や下人達が口々に騒ぎ立てはじめた。
「なんじゃあ、騒々しいわい」
どかりっ、と腰をかけ、忠興は用意された盥で足を洗いながら騒ぐ郎党達を大声でたしなめた。
「いっぺんにわめくな。わけがわからん」
剛胆な忠興はいるだけで安心感を生むのだろう、郎党や下人達の顔に安心したような笑いがおこった。藤木もその声にほっと安堵の息をつく。昨日からやはり、相当緊張していたらしい。藤木はすっと息を吸い、穏やかに呼びかけた。
「おかえりなさい、忠興」
忠興は振り向き、藤木の姿を認めると嬉しそうに破顔した。
「おお、御渡り様、ただいま戻りましたぞ」
大急ぎで足を拭うと縁に上がった。
「おかわりござりませなんだか。おぉ、おぉ、これはまた、ようお似合いじゃ」
藤木は白地に銀糸をあしらった直衣姿だった。これも忠興の特注品だ。全開の笑顔に藤木は涙が滲みそうになるが、ぐっと堪えた。そして忠興を労るようにほほえみかける。
「忠興が選んでくれるものはどれも好きだよ。それより忠興、疲れたでしょう?」
「なんの、一日馬を駆けさせたくらい、忠興には何でもござりませぬ」
それから郎党達の抱える大荷物を指さしいっそう笑み崩れた。
「たんと土産を持って参りましたからな。ささ、部屋で開けてみて下されよ」
藤木は目を丸くした。いったい何を抱えてきたのか、随分な大荷物だ。そこへ国明が姿を現した。藤木はハッと動きを止めた。国明の黒い瞳が真っ直ぐに藤木を見る。
「国明…」
思わず藤木は国明の名を呟いていた。少し疲れた風だが、目の光は力強い。胸がぎゅっと詰まった。じっと見つめ返すと、国明が僅かに目を見開いた。国明の口が「藤」と名前をかたどろうとしたその時、秀次を筆頭とした郎党達が団子状になだれこんできた。
「とっ殿っ」
「殿っ」
その様子に国明が訝しげに眉を寄せる。
「何じゃ何じゃ、さっきから」
不機嫌そうに唸ったのは忠興だ。早く藤木に土産を披露したい忠興は、何か言いたげにつきまとう秀次達がうるさくてしかたがない。
「秀次、銭の心配ならいらぬぞ。土産代は全部、本家持ちじゃ。御渡り様の御ためと言うたなら、三浦の奴輩、一も二もなく銭を出したわ」
呵々、と笑う忠興の前で秀次がきまり悪げに縮こまった。その秀次に国明は厳しい目を向けた。
「何があった、秀次」
そして郎党達の上にも鋭い眼光が注がれる。
「館の警護をかくも固めるわけは何だ。話せ」
当主の一喝に郎党達も縮み上がった。秀次ががばっと土間に平伏する。
「もっ申し訳ござりませぬ。実は…」
実に簡潔に、事実通りのことが秀次の口から語られた。そして、次の瞬間、館に響きわたったのは忠興の怒号だった。
「何をやっておったのだ。留守番ひとつ満足にできぬか、情けないっ」
憤懣やるかたない忠興の前で、秀次はじめ郎党達はただひたすら恐縮していた。
「皆がんばってくれたんだよ、忠興」
困ったように藤木が取りなす。が、忠興は更に吠えた。
「御渡り様、このうつけめらにお気遣いは無用でござりまする」
大殿がおられなんだらどうなっておったことやら、と歯がみする。その忠興の腕に藤木はさりげなく手を置いた。
「忠興。」
「むむぅ…」
こうなると流石に忠興も吠え続けるわけにはいかない。気をおさめ、不機嫌に唸った。
「ええ、うぬらの間抜けぶりにも腹は立つが、何より三浦のえげつなさよ」
国明は難しい顔で黙っている。と、つぃっと廊下に上がった。秀次が慌てて足盥を持ち上げる。
「とっ殿、盥を…」
「後で良い」
素っ気なく言い捨てる。それから土間に膝をついている秀次を見下ろした。
「おれは父上に子細を伺ってこよう。おぬし達はこれまでどおり、館の警護にあたれ。和田と小和賀に使いをやる。秀次、二名選んで出立の準備をさせよ」
鋭く下知を飛ばす。そしてくるりと背を向けた。
「叔父貴は御渡り様を部屋へ」
振り向かずにそれだけ言うと、足早に歩み去る。藤木はその背中をみやった。
国明…
国明は秀次の話がはじまってから、一度も藤木を見ようとしなかった。胸がキリキリと軋みをあげる。国明が帰ってきて、本当はすごく安心したのだ、顔を見たら泣きたくなるほど嬉しかったのだ、それなのに…
藤木はきゅっと唇を噛みしめる。
このまま国明とは、すれ違っていくのだろうか…
「御渡り様」
忠興が気遣うように呼びかけてきた。
「もう何も心配はござりませぬぞ。この忠興がついておりまする。そのようなお顔をなされますな」
忠興は藤木がまだ不安がっていると思ったらしい。何度も力づけるように頷いてみせた。藤木の口元に笑みが浮かぶ。この武骨な男は本当に優しい。
「ありがとう、忠興」
「なぁに、この忠興めに万事おまかせあれ」
ドン、と胸を打つ子供っぽい仕草に、藤木はクスッと笑みをこぼした。
「うん、僕は大丈夫だよ、忠興」
胸の痛みをはらうように、藤木は大きく深呼吸した。
「僕は大丈夫」
ふわりと笑って先に立つと、忠興と荷物を抱えた郎党達が急いで後に続いた。部屋へ着く前から忠興が土産自慢をはじめる。それに相づちをうちながら、藤木は言いようのない寂しさを味わっていた。
部屋で一つ一つ荷ほどきをしながら、忠興は面白おかしく手に入れた時の様子を語ってみせた。藤木にしてみれば、鎌倉時代の市の様子や商人の話はやはり興味深い。
帰ったらもっと日本史を勉強しよう。
ふと、そう思ってから、藤木は内心苦笑を漏らした。
帰ったらって、帰れるかどうかもわからないし、その前に問題山積みだっていうのに…
しかし昨日の昼間、藤木の意識は確かに現代に帰っていたのだ。その時の感覚を思い出し、藤木はドキリとする。慌てて思考を忠興の話に戻した。藤木と忠興の前には夕餉の膳がしつらえてあった。一日馬を駆けさせたのだからまずは食事をして、と藤木が忠興を気遣ったのだ。
「忠興、僕も鎌倉へ行けるかな」
膳の横には、土産の一つ、干した果物が黒塗りの高坏に盛られていた。藤木は干し杏を口に放り込みながら忠興に尋ねる。
歴史の教科書の挿絵にあった「鎌倉時代の街並み」だの「庶民の生活」だの、それがリアルタイムで見られるチャンスなのだ。一度は鎌倉に行ってみたい、藤木は真剣にそう思った。
出来れば源実朝の顔、見てみたいな。
忠興の話を聞けば聞くほど、好奇心がわいてくる。
「体は鍛えてあるほうだよ。もう少し馬の稽古をしたら、遠乗りくらい出来るでしょう?」
そう言いながら藤木は干し柿を囓った。ねっとりとした甘さが嬉しい。忠興がう~む、と唸った。
「殿が何と仰せらるるか…」
手元の杯をぐいっとあおる。しかし、御渡り様と鎌倉見物、というのは忠興にとってもひどく魅力的な提案だった。
「殿には秘密で、参りましょうかな」
忠興は杯を置くと、悪戯小僧のようにニヤッとした。藤木がぷっと吹き出す。
「怒るだろうね、国明は」
「そりゃ、火を噴きましょうほどに」
二人はくつくつと肩を震わせて笑った。国明のことを考えると、ちり、と胸に痛みが走る。だが、感じる痛みに藤木は目をつぶった。そして大殿に忠興が呼ばれるまで、二人は土産話に花をさかせた。
忠興が退出すると、急に部屋が寂しくなった。館の周りは昨日から赤々と松明がたかれ、郎党や下人達の行き合う声、犬の鳴き声や馬のしわぶきが聞こえてくる。それがかえって部屋の静けさを際だたせていた。
藤木は円座に座ったまま、脇息にもたれてぼんやりしていた。部屋の隅には、忠興が持ってきた土産の数々が山になっている。秀次は夕方以来、顔をみせない。あちこち走り回っているのだろう、膳の上げ下げをしたのは、若い郎党だった。馬の嘶きが聞こえ、館から走り去る音がした。国明が出立の用意をさせろと命じていたのを思い出す。
手紙かなにか書いたのだろうか。国明は今、何をしているのだろう。食事は終わったのだろうか。
日はとうに暮れ、半分に欠けた月が空にかかっている。
国明はこのまま自室で休むのだろうか。国明は…
「藤」
「うわっ」
いきなり呼ばれて、藤木は飛び上がった。
「なっなっ」
「何をそんなに驚く」
無愛想な声が降ってきた。
「くっ国明…」
開け放した板戸の脇の廊下に、国明が立っていた。国明はむっつりとした表情のまま部屋に入り、藤木の目の前にどかりと腰を下ろす。それから懐をさぐると、なにやらずいっとつきだした。
「…何?」
藤木は怪訝な顔で国明の手元を見た。何かを握っている。
「何?」
もう一度問いかけると、国明はぷいっとそっぽを向いた。
「土産だ」
「…え?」
藤木が戸惑っていると、国明はそっぽを向いたまま手を突きだしてくる。
「手を出せ」
ぶっきらぼうな物言いにカチンときたが、言われたとおりに藤木は手を差し出した。国明はその手のひらに何かを乗せる。ころん、と音がした。
「鈴…?」
土を焼いて作った土鈴だった。人の顔をかたどっており、おそらくは子供なのだろう、頬がふっくらとして、にこにこ笑っている。顔の部分は白く、髪の部分は焦げ茶色に塗ってあった。頭の部分に小さな穴が開けられていて、数本の束ねた藁がとおしてある。藤木が手を動かすと、ころんころんと音がした。素朴で温かい音だ。
「…僕に?」
藤木が目を上げると、相変わらずそっぽを向いたままの国明がむすっとした口調で言った。
「おぬしに似ている」
「へ?」
きょとんとする藤木に、国明はぼそぼそ繰り返した。
「その鈴の顔がおぬしに似ていると思ったのだ」
藤木はぽかんと国明を見つめた。国明は顔を横に向けたままだ。藤木は改めて土鈴を見た。にこにこ笑った子供の顔は可愛いといえば可愛いが、似ていると言われて嬉しい代物ではない。
「…僕、こんな下ぶくれじゃないけど…」
少し恨めしげに言うと、国明はむすっと答えた。
「笑った感じがおぬしに似ている。だから買った」
「…え…」
「藤は笑っている方がいいぞ」
無愛想な物言いだが、国明の頬がわずかに赤くなっている。かぁっ、と藤木の顔にも赤みがさした。ころんころん、と鈴が音をたてる。そっぽを向いていた国明が藤木に視線を戻した。黒い瞳と視線がぶつかって、どきん、と藤木の心臓がはねた。
「藤は笑っていろ」
国明は遠慮がちに手をのばして、藤木の握っている鈴に触れた。ころん、と柔らかい音がする。
「おぬしはここで笑っていればいい」
「国明…」
ころん、と鈴がなる。国明は藤木の手に自分の手を重ねた。
「藤は…」
国明がきゅっと手に力をこめた。
「…おれは別に、詫びたわけではないぞ」
手を握ったまま、国明はまた視線をそらした。
「おれは詫びぬぞ」
ぎゅっと口元が一文字に結ばれている。だが、言葉とは裏腹に藤木の手を握る力はゆるまない。
「わかってるよ…」
藤木は苦笑気味に答えた。どちらからともなく、膝が寄って距離がつまる。動くたびにころんころん、と鈴が鳴った。触れあっている膝から国明の温もりが伝わってくる。
「おれは…」
「うん…国明…」
久しぶりに感じる互いの体温が心地よくて離れがたい。結局、当主を探して秀次がやってくるまで、二人は手を握り会っていた。
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