第16話 大殿 榎本国忠

南向きの廊下に郎党二人に支えられた国忠が立っていた。寝間着ではなく、直垂に着替えている。国忠は郎党達と廊下に平伏した。


「御渡り様、ご機嫌麗しゅう」

「おっ大殿さんっ」


思わず藤木は立ち上がって国忠の側にかけよった。

藤木は国明の父親のことを大殿さんと呼んでいる。なんとなく名前を呼び捨てにする気になれず、皆が大殿と言っているのを小耳にはさんで、愛称のように呼んだのがきっかけだった。その大殿、国忠の病状は今、おもわしくない。床から離れて歩くなどもっての他だ。毎朝見舞っている藤木にはそのことがよくわかっていた。国忠の脇に膝をついて、藤木は肩に手をかける。


「起きたりしたらだめだよ、早く部屋に…」


国忠は顔をあげ、にっこりと笑った。


「もったいなきお言葉でござりますよ。御渡り様」


すばやく雅兼も駆け寄ってきた。藤木よりも下座に、やはり国忠を気遣うように控える。


「国忠殿、御渡り様の仰せのとおりであろう。起きられてはいかん」


声に心配ぶりが滲んでいた。国忠はまたにこにこ笑った。


「今、雅兼殿に会わずば、あの世に行って後悔しましょうからな」

「なんと国忠殿の世迷い言を仰せであるよ」


雅兼は床についたままの国忠の手を取った。


「国明殿の婚礼といい、榎本は祝い事続きではござらぬか。病もすぐ癒えましょうほどに」


それとも、と雅兼は涼やかな目元を細めた。


「目出たさが過ぎるとかえってお心が迷いますかな。いくさ場で鬼神のごとく恐れられし国忠殿も現世の華には弱いと見えまする。あの世など気弱を口にされるは、まさに鬼の霍乱でござりますよ」


口調に茶目っ気が混じる。国忠がにんまりした。


「うつし世の華でござるか」

「左様、彼岸には蓮花しかござらぬぞ。まだまだ未練をおもちなされ」

「相変わらず、艶のある物言いをするお方じゃ」


ふっふっと国忠は愉快そうに声を上げた。


「そうじゃなぁ、酒を酌み交わしながら雅兼殿と昔の戦話に花を咲かせるもよいかもしれぬ」

「それがしが先陣争いを制した話ですかな」

「なんの、花かんばせの若武者が初陣の話よ。のう、雅兼殿」

「したりっ」


雅兼は額に手をあてた。


「それだけは勘弁してくだされ、顔から火が出る」

「なに?昔から知り合い?」


楽しげに笑う二人に、きょとんと藤木が尋ねた。なんだか随分と仲が良さそうに見える。国忠がにこにこと嬉しそうに答えた。


「雅兼殿初陣の折り、それがしも同じいくさ場を駆けましてな。以来、幾度ともに馬を並べましたことやら」


雅兼が端正な口元をほころばせた。


「榎本党と小和賀党、功を競い合ったものでござります」


藤木は意外に思った。病に伏しているとはいえ、国忠の風貌には歴戦の強者の面影が色濃く残っているが、小和賀雅兼という男からは荒ぶる気配は微塵も感じられない。鋼の様な体躯でありながら、その動きはどこか優雅な目の前の男が、血刀をふるっていくさ場を駆けていたとは俄に信じがたかった。


あ、でも、そうなのかもしれない…


ついさっき、秀次に向かって放たれた怒気の鋭さは尋常でなかった。気性の荒い榎本の郎党達が竦んで動けなかったのだ。藤木は雅兼をしげしげと眺めた。穏やかな微笑みを湛えているが、いったん牙を剥いたらすさまじいのだろう。本当に恐ろしいのはこういう男なのだ。そして、そんな男が自分を榎本から連れだそうとしている。ぞくり、と恐怖が這いのぼってきた。その時、国忠が表情を改め姿勢を正した。


「ところで、雅兼殿」


ひたっ、と両手を床につける。


「先ほどは家中のものが無礼を働き申した様子、まことに申し訳ない」


国忠は深々と頭を下げた。


「小和賀当主の言に疑念を差し挟むなぞ、許し難き振る舞い、恥じ入るばかりじゃ。お許しくだされ。このとおりじゃ」


礼をつくす国忠に雅兼も習う。


「頭をお上げくだされ。国忠殿。某もちときつう言い過ぎた。面目次第もござらぬ」


雅兼に促されて頭を上げた国忠は、今度はきっと秀次を見据えた。


「秀次っ。たとえわぬしが聞いておらなんだとしても、雅兼殿になんの二心のあらんや。このたわけがっ」


国忠の叱責に秀次は声もなく這いつくばった。それから国忠は穏やかな顔に戻り、雅兼に詫びる。


「国明めが失態にござるよ。かくなる大事を言い忘れて出掛けおるとは、うつけものよ。なんとも詫びの仕様がござらぬわ」


お許しあれよ、と国忠は再び頭を下げる。


「国忠殿」


雅兼はやんわり制して頭をあげさせようとしたが、国忠は頭を下げたまま動かない。


「国忠殿、お気に病まれるな」


じっと動かない国忠の肩に雅兼は手をかける。国忠がぽつりと言った。


「雅兼殿、ひとつだけ、願いを聞いてはいただけまいか」


雅兼が動きを止めた。場がしん、と静まりかえる。


「わしはもう、長くはない」


ひゅっと控えている郎党の一人が息をのんだ。国忠は静かに続ける。


「我が身のことはようわかっておる。死にゆくことを盾に取っておぬしに縋る」


国忠は顔を上げた。雅兼も藤木もはっとする。国忠の頬は涙で濡れていた。


「御渡り様の三浦へ渡りたもう日を先に延ばしてくだされ」


雅兼の顔に困惑が浮かんだ。だが、国忠は畳みかけるように続けた。


「雅兼殿の一存でどうなるものではないと重々承知はしておる。しかしながら、わしは病ゆえ館より出られぬ。御渡り様が三浦へお渡りになれば、二度とお目通りはかなうまい」


はらはらと国忠の目から涙が落ち、床を濡らした。


「わしはの、毎朝、御渡り様が見舞いに来てくださるのだけが楽しみじゃ。御渡り様はわしのような病人にも親しくお声をかけてくだされる。それがもうかなわぬというのならば、せめて宴なり催して、御渡り様を見送り申し上げたいのじゃ」


伏してお頼み申す、と国忠は床に額をつけた。肩が震えている。


「…しかし…」


雅兼が言いよどんだ。


「本家はすでにお迎えのご用意を申し上げておると…」

「そこを曲げてお頼み申し上げるのじゃ」


ずいっと国忠は膝をすすめ、ひたと雅兼を見つめた。


「本家も他ならぬ小和賀当主の言ならば軽んずるはずはなし、御渡り様に国忠の、今生の別れをさせてくだされ」


後生でござる、と落涙する国忠に、郎党の中からすすり泣きが漏れはじめた。


「お…大殿…」


ひれ伏したまま、秀次の肩も震えている。悲愴な空気が部屋に満ちた。聞こえるのは堪らず漏れる嗚咽とすすり泣きだけだ。雅兼は難しい顔で黙り込んだ。

藤木は呆然としていた。俯いた国忠の痩せた肩が嗚咽に上下している。じんわりと目頭が熱くなってきた。毎朝、病床を見舞うたびに嬉しそうに笑う国忠、夕刻、弓や馬の稽古の話をしに顔を覗かせると目を細めて聞いてくれた。病状がおもわしくないとわかっていても、今生の別れだなんて、国忠が死んでしまうなんて全く考えなかった。


「だ…だめだよ、死んだら…」


藤木は思わず声に出していた。ぽろっと涙がこぼれる。


「大殿さんは死んじゃだめだよ…」


いったんこぼれると、堰をきったように涙が溢れた。


「死ぬなんて言わないで…」


ぐすん、と藤木はすすり上げる。


「御渡り様…」


もったいのうござりまする、と国忠は涙にかきくれながら平伏した。

むぅっと雅兼が唸った。


「わかり申した」


厳しい表情ながら、雅兼はきっぱりと言った。


「確かに、方々には急な話であったようにお見受けいたす。今日のところは本家へ立ち戻り、日を改むるよう進言いたそう」

「雅兼殿…」


がばり、と身を起こした国忠に、雅兼は微笑んだ。


「養生なされませよ、国忠殿」


それから雅兼は、藤木に向き直り、深く一礼した。


「御心を痛めたもうな。御身の憂いをはらすためならばこの雅兼、力を惜しみませぬ。必ずや御心に添うようとりはからいましょう」


そうして面を上げて真っ直ぐに見つめてくる瞳は澄み切っていて一片の曇りもなかった。涼やかな佇まいに、藤木は少しどぎまぎする。


「それでは、これにて御免つかまつる」

「雅兼殿、恩にきまする。かたじけない」


新たな涙を落とす国忠の肩を一度叩くと、雅兼はすくと立ち上がった。


「見送りは無用である」


そう言い置いてすたすたと歩み去る。郎党達が狼狽えながら追いかけていった。もちろん、平伏していた秀次も慌てふためいて後を追う。藤木と国忠だけがそこに残された。わぁわぁという見送りの喧噪が館の上がり口へと移動していく。藤木がほぅっと息をついた。


「いい人だね」


はい、と国忠が呟くように答えた。


「…気性のまっすぐなお方でございますよ、雅兼殿は」


国忠はいとおしむような、それでいて寂しげな笑みを浮かべた。


「大殿さん?」


藤木が問いかける前に、見送りを終えた秀次達がどやどやと部屋へ戻ってきた。


「小和賀様はただいまお帰りになられました」

「大殿、お加減はよろしゅうござりますのか」

「はよう部屋へお戻りを」


口々に騒ぎ立てている。今の出来事で皆、どこか興奮しているようだ。先頭をきってきた秀次が、頬を上気させて言った。


「小和賀様には御出立の際、それがしに気に病むなとのお言葉をいただきました。大殿を励ますようにとも仰せになられ…」

「うつけめが」

「…は?」


きょとんとする秀次に、国忠は苦々しく言い放った。


「うつけと言うたんじゃ、耳まで鈍ったか、与三郎」

「え?は…はぁ…」


わけがわからないまま、目で促されて秀次は国忠の正面に腰を下ろした。郎党達もそれに倣う。国忠はじろりとそれに一瞥をくれた。先ほどまでの人の良い笑みや気弱な雰囲気は霧散している。鋭い眼光に射すくめられて郎党達は沈黙した。


「揃いも揃って、うぬらの頭は木石か。あやうく御渡り様を本家に取られるところであったろうが」

「しっしかし、大殿、小和賀様に二心なしとは大殿の…」

「だからうつけと言うんじゃっ」


おずおずと反駁した秀次は一喝されて首を竦めた。


「雅兼殿自身が謀られておるとしたらいかがする。」

「…あっ」


郎党達がどよめいた。国忠は呆れたように郎党達を見回した。


「雅兼殿の御気性はおぬしらよりもよう知っておる。長いつきあいじゃ。情に篤く気持ちのよきお方よ。そしてまた、本家を大事に思い疑いを知らぬ」


秀次が目を見開いて、今更ながらに青くなった。そうなのだ。小和賀は榎本よりもはるかに大きく家柄もいい。かといって、恐れられるほどの勢力は持っていない。三浦党の中にいれば、家を保つのは易きことなのだ。雅兼は一族の結束にさえ気を配っていれば、謀略や勢力争いからは遠いところにいられる立場にあった。国忠は厳しい声で告げた。


「我らにとっての大事は何ぞ、御渡り様ではないか。それを雅兼殿じゃからいうて、あっさり渡ししていかがする。一度本家へ取られなば、二度と榎本の手は届かぬぞ」

「めっ面目次第もござりませぬ」


ようやく事の重大さに気づいた秀次や郎党達が狼狽えながら手をついた。国忠は盛大なため息をつく。


「わしが泣かねばどうなっておったことやら、おちおち寝てもおられん」

「ははっ、もっ申し訳……は…?」


神妙にこうべを垂れていた秀次がひくっとわなないた。それにはかまわず国忠はやれやれ、と首を振る。


「あの手この手でかわさぬか。真面目一辺倒でほんにおもしろみのない奴輩め」

「あっあぁっ、大殿っ、まさかっ。」


秀次が、がばっと顔を上げた。


「また嘘泣きっ」

「また、とは何じゃ。人聞きの悪い。わしがいつも嘘泣きしておるようではないか」


秀次は言葉もなく口をぱくぱく開け閉めしている。藤木は呆気にとられて国忠の様子を見ていた。


もしかして、もしかしなくても、さっきの涙は嘘泣きで、そりゃあ自分を三浦に渡さないためではあるけど、でも、でも、ついもらい泣きしてしまった自分達って…


あまりの展開にぐるぐるしている藤木の目の前では、やはり秀次や郎党達が、また騙された、だの、これで何度目じゃ、だのぶつぶつ呟いている。そこへ国忠が焦れたように唸った。


「ええ、なにをぶつぶつほざいておる。病の身でいつまでも起きているのはかなわぬわ。とっとと皆をここへ呼べ。館におる郎党、家人、下人にいたるまで全て集めよ」


流石に体がきついのだろう。国忠の息が上がっている。秀次達は大慌てで皆を呼び集めるため、あちこちに駆けだした。


「大殿さん、きついなら、僕の部屋で横になったら?」


国忠の顔色が悪い。心配になった藤木が声をかけると、国忠はにこりとした。


「大丈夫でござりますよ、御渡り様」


優しい目だ。


「御渡り様」


慈しみに満ちた声で国忠は言った。


「それがしなぞのために、御渡り様が涙してくだされた。それだけでこの国忠、今まで命長らえてきたかいがあったというものでござりまする」


どたばたと大騒ぎをしながら館中の人間が集まってきた。御渡り様は上座へ、といわれ、藤木は畳の上に座った。秀次に支えられ、国忠も上座に移動し、藤木のすぐ下座にひかえる。部屋の中や廊下、庭に館の人々が集まると、国忠は表情を引き締め全員を眺め渡した。


「よう聞け」


大きくはないが、腹の底へ響く声だ。


「御渡り様は榎本の神であられる。何人たりとも、それを侵すことはあいならん」


たとえ鎌倉殿でもじゃ、と言い切る国忠の全身からは、すさまじい闘気が立ち上っている。ここにいるのは病にたおれた隠居ではない、いくさ場で鬼と呼ばれた男だった。


「それぞれが刀をとり、御身をお守り申し上げるべし。館の周りは弓矢を持って固めよ。不審なものは即座に射殺せ。夕刻よりは松明を絶やすな。国明が戻り、事の次第が明らかになるまでは、けして警戒おこたるべからず」


おぉっ、と空気を揺るがすほどの返事があがった。国忠の気に鼓舞されたように、皆のまなこが輝いている。


「大殿っ」


郎党の一人から声があがった。


「小和賀の殿様がおいていかしゃった輿はどうすりゃよいじゃろう。まだ庭先にござるぞ」

「売り払え。」


国忠がにやりと口元を上げた。


「三浦がわれらにくれたものじゃろ。銭に代えるも我らが勝手じゃ」


銭はいくらあってもよいからの、と言えば皆から笑いがおこる。


「秀次、配置はぬしにまかせた。しかとやれい」

「ははっ」


秀次は勢いよく立ち上がり、それぞれに指示を与えながら退出していく。おうおう、と郎党たちのいらえが上がり、全員が慌ただしく散っていった。気圧された藤木はただぽかんと見送るだけだ。その時、国忠の体ががくりと崩れた。


「おっ大殿さんっ」

「大殿っ」


付き添いの郎党が国忠の体を支える。国忠は額に脂汗を浮かべながら、それでも弱々しく微笑んだ。


「ちと、疲れましてござります。ただ、それだけでござりますよ…」

「…大殿さん…」


必死で藤木を助けたのだ、本当はこんなに体がきついのに。


「御渡り様、ご心配召されますな。必ずや御身、お守り申し上げまする」


それだけ言うと、国忠はふっと意識を失った。


「大殿さんっ」


郎党二人が、国忠を抱え上げるようにして部屋へ下がった。藤木はただ、畳に座っている。


何もできない自分、無力な自分…


何事もなかったように、部屋の中まで心地よい海風が吹いてくる。廊下に差し込む真昼の日差しが目にしみた。



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