第18話 再び現代に繋がる


「はて、殿には喧嘩をなされておるとばかり思うておりましたが、秀次めの勘違いでござりましたか」


にんまり口元を上げる秀次に、国明は苦虫をかみつぶしたような顔をした。藤木はその様子を笑いながら眺めている。手の上では土鈴がころんころんと音をたてていた。


「お察しいたしまするが、殿、旅の埃も落とさねば、御渡り様に嫌われてしまいましょう」

「…わかっておる」

「食事もお済みになっておりませぬ」

「わかっておるというに」


むすっと国明は立ち上がった。秀次はにこやかに藤木に向かって一礼した。


「御渡り様、ただいま湯の支度をさせておりまする。しばしのお待ちを」

「秀次、着替えはおれが用意する」


間髪いれずに国明が言った。秀次は一瞬、驚いたように国明をみつめたが、すぐに得心したという表情を浮かべる。


「なれば殿、御渡り様のお使いあそばされたお湯は下げぬよう、命じておきましょう」


国明は廊下に踏み出しながら、ちらっと藤木を見た。


「…一日馬を駆けさせて埃まみれだからな、他意はないぞっ」

「わかってるよ」


子供のようにムキになるのが可笑しくて、藤木はくすっと笑った。


「それより、はやく食事すませてくれば。お腹すいてるんでしょう?」


ころんころん、と鈴を手のひらで転がしながら、藤木はにこっと国明を見上げる。国明はどこか狼狽えたように目を泳がせると、秀次を従えて部屋を後にした。


ころんころん…


鈴が柔らかい音をたてる。先程とうって変わって、一人になっても寂しさを感じなかった。なんだか胸の奥からほかほか温かくなってくる。


僕も結構、現金だよね。


藤木は鈴を目の前に持ち上げて振ってみた。つたない筆で描かれた子供の顔が揺れ、ころんころん、と鈴が鳴る。


「似てないよ~」


くすくす笑いながら、藤木は鈴の顔を突っついた。にこにこ顔が揺れて鈴が鳴る。


ころん…


その時、ぐにゃり、と部屋が歪んだ。足下が消える浮遊感、真っ白い光に辺りが包まれる。


「うわっ」


藤木は思わず手をかざした。まばゆくて目が開けられない。しばらくして、足下の感覚が戻ってきた。目をつぶったままの藤木の頬をひんやりとした風が撫でていく。


…え?


目を開けると、藤木は海沿いの道路に立っていた。明るい陽光が降り注いでいる。きらきら光る海辺は見覚えのある風景だ。


何…?


自分は館の中にいたはずなのに、しかも日はとうに暮れて、月が出ていたはずだ。半月が…


ぶぉっ、とうなりをあげて、藤木の横を車が通りすぎた。足下を見ると、アスファルトの道路だ。


僕…帰ってきた…?


呆然と立ちすくんでいると、道路の向こうから何人もの人影が近づいてきた。誰かを呼んでいる。藤木はよく見ようと目をこらした。声が聞こえてくる。


「藤木ーーっ」

「藤木せんぱーいっ」

「藤木ーっ、藤木ーっ」


秀峰テニス部のメンバー達だった。必死で藤木の名前を呼んでいる。


「中丸っ」


藤木は大声で友人達を呼んだ。


「立石っ、みんなっ」


だが、友人達は藤木に気づかない。目の前まで来ているというのに、藤木の姿が見えていないのだ。藤木の名を呼びながら、脇をすり抜けていく。藤木を探している。


「藤木せんぱーいっ」

「せんぱーいっ」


立石達の後ろから、上城と堂本が藤木の名を呼びながら走ってきた。


「上城っ、堂本っ」


藤木は上城と堂本を遮るように、二人の正面に飛び出した。だが、上城と堂本は走るスピードを緩めない。


ぶつかるっ。


次の瞬間、後輩達はふっと藤木の体を通り抜けた。


「藤木せんぱーいっ」


上城と堂本はそのまま駆け去っていく。藤木は硬直したまま走り去る後輩達の背中をみやった。


まだ僕、完全に戻ってきていないんだ…


藤木は自分の手を見つめた。この世界の人間には見えない藤木の体、それでも、最初に戻った時とくらべたらずいぶんと現実感が増している。皮膚の感覚があり、なにより、この世界の音が、友人の声が聞こえるのだ。


もしかしたら、このままこうしていたら、帰れるかもしれない。


藤木の心臓が激しく打ち始めた。


帰ってこられる…


ころん。


何かが鳴った。


「藤木せんぱーいっ」


後輩達の声が遠ざかっていく。


ころん、ころん…


ふっと浮遊感が襲ってくる。足下の感覚がおぼつかない。膝から何かが転がり落ちる感覚がする。


ころん…


ぐらっと視界が歪んだ。まばゆい光に目が眩む。


ころんころんころん…


「…はっ…ぁ…」


息を荒げ、藤木は手をついていた。がくがくと肘が震えている。藤木は再び、館の部屋の中にいた。円座に座ったまま手を畳についている。


僕は…


ようやく藤木は顔を上げた。ひょうそくの灯が揺れている。庭の奥からは馬の嘶きと郎党達の声がしていた。胸がまだどきどきしている。藤木は二、三度、大きく息を吸った。


僕はまた、帰ったんだ…


そう、確かに藤木は現代に帰っていた。不完全な形ではあるが、これで二度目だ。しかも、前回よりも感覚がリアルだった。自分を探す友人や後輩達の声が聞こえ、頬に風を感じた。このまま、何度かこれを繰り返していると、現代へ帰れるのだろうか。いや、帰れるに違いない。静まらない動悸を収めるように藤木は胸に手を当て、円座の上に座り直した。ふと、膝の前に国明から貰った土鈴の転がっているのが目に入る。


鈴…


そういえば、音がしなかったか。その音に引きずられるように、自分は現代から引き戻された。あれは鈴の音だったのか。鈴が膝から転がり落ちて鳴ったのだ。藤木はのろのろと鈴を拾い上げた。ころん、と素朴な音がする。素朴な、温かな音、国明の手の温もりのような…


「あぁ…」


藤木は鈴を握りしめたまま顔を覆った。


帰りたい、帰りたいんだ僕は…


なのに何故戻ってきてしまうのか。鈴の音、この鈴が僕を引き戻したのか、国明のくれたこの鈴の音が。藤木の唇から微かに呻きが漏れた。


帰りたい…


「御渡り様」


板戸の向こうから声がかけられた。ハッと藤木は顔を覆っていた手をはずす。廊下に若い郎党が躙り出てきて、平伏した。


「失礼つかまつりまする。お湯の支度が出来てございます」


秀次がよく連れている郎等だった。


「あ…あぁ、お願いするよ…」


藤木はなんとか返事をする。数人の郎党達が部屋へ入り、衝立をたてたりお湯をはった盥を運んだりしはじめた。もうすっかりなじんだ日常だ。藤木は虚ろにそれを眺める。ころん、とまた鈴が音をたてた。

藤木が湯浴みを終える頃、国明がやってきた。寝間着に着替えるのを廊下で大人しく待っている。白い寝間着に着替えて衝立の外へ出ると、国明が振り向いた。いつもの折り烏帽子はなく、髪を下ろしている。くせのある髪が肩にばさりとかかって、不思議な色気が醸し出されていた。藤木が我知らず、その姿に見とれていると、国明は穏やかな笑みを浮かべた。


「湯を使わせてもらう」


そう言って無造作に直垂を脱ぎはじめる。


「うわっ」


慌てて藤木は目をそらし、廊下に飛び出した。


「ちょちょっとっ、服脱ぐなら衝立の影にいってよっ」


国明は少し目を細めたが、そのまま黙って衝立の影に入った。藤木はへたへたと廊下に座り込む。心臓がひっくりかえりそうだった。


おっ落ち着けっ。


ばくばくする胸を押さえる。


落ち着け、僕の心臓っ。


藤木は髪を下ろした国明にどうしてこんなにも動揺するのか、よくわからなかった。折り烏帽子をかぶっているときより、髪型が佐見に近くなるせいで混乱するからなのか、裸になった国明を思い出すからなのか。


裸…


藤木の心臓がまた飛び跳ねた。あの満月の夜も、国明は今夜と同じように湯を使った。藤木の前でためらいなく衣服を脱ぎ、たくましい裸体がさらされたのだ。ちゃぷん、と国明が湯を使う音が聞こえた。


うわわっ。


月影に浮かびあがった国明の裸体がまざまざと蘇る。それと同時に藤木は、月夜の浜辺で自分を組み敷いたたくましい腕の感触まで思い出してしまった。素肌を這う国明の手、熱い吐息、ねっとりとからみついてきた舌と唇…


わーっ、わーっ、わーっ


居たたまれずに藤木はぶんぶん首を振った。


何思い出してるんだ、僕はっ。


気を落ち着けようと藤木は大きく息をした。春の暖かい風に頬の熱さがなかなか引かない。ざばっと大きな水音が、もう片側の廊下の先からした。国明が湯を使い終わって、庭先に空けたのだ。藤木は振り向けなかった。どういう顔をしていいのかわからない。心臓の音がやけに大きく耳に響く。背後に人の立つ気配がした。国明だ。


「藤」

「はっはいっ」


声を掛けられるとわかっていて、それでも藤木は飛び上がった。


「なっなっ何っ」


無意識に後ずさりながら何か用がと言いかけて、藤木ははっと口をつぐんだ。国明は黙って藤木を見つめている。その瞳がひどく傷ついた色を浮かべていた。ふいっと国明は視線をはずす。


「何もせぬ」


ぼそり、と国明は言った。


「心配せずとも、何もせぬ」

「…くにあ…」


国明はくるりと藤木に背を向けた。


「秀次に…夜具の支度をさせる…」


国明はそのまま部屋を出ていこうとした。


「国明っ」


気がつくと、藤木は国明の腕を掴んでいた。国明がゆっくりと振り返る。


「あっ…えっと…あの…」


咄嗟のことで、藤木自身戸惑っていた。しかし、ここで国明の腕を放してはならない。それだけは確かだった。藤木は国明が離れないようひたすら手に力を込める。


「あっあの…くにあき…」


もごもごと口ごもりながら、藤木は俯いてしまう。


「あの…」

「おれが手を握らねば眠れぬか?」

「…へ?」


きょとん、と見上げると、目の前に国明の顔があった。悪戯っぽい笑みを浮かべている。


「そうか、寂しくて泣いておったか」

「なっなっ…」

「藤は存外、甘えん坊であるな」

「だっ誰がっ」


藤木はかかーっと顔を赤くする。国明が楽しげに肩を揺らした。


「わかった。おぬしが寂しがらぬよう、おれが寝ずの番をしていてやろう」


藤木が声もなく口をぱくぱくさせているうちに、国明は郎党を呼んだ。


「たれぞある。御渡り様の夜具の支度をいたせ」


バタバタと数人の郎党達がかけつける。てきぱきと衝立や盥を片づけると、畳に真綿入りの夜具を揃えた。


「ちょっちょっと、国明っ」

「照れずともよいぞ」


笑いながら国明は、真っ赤になっている藤木の手を引いて夜具の側へどかりと座った。


「何も心配はいらぬ…ゆっくりと休むがいい」


穏やかな声だった。藤木の胸がとくん、と鳴る。それを悟られたくなくて、藤木はごそごそ夜具に潜り込んだ。目を上げると、国明が慈しむような眼差しとぶつかった。


「藤…」


藤木の髪の毛を国明の手がゆっくりと梳く。


「大丈夫だ、藤…」


髪を梳く国明の手が温かい。体の芯がずっしりと重くなり、藤木は自分がひどく疲れていたのだと初めて知った。髪を梳かれるたびに、とろとろと眠気が全身を包む。


「藤…」


自分の名を呟く声がだんだん遠のいていく。国明の温もりを感じながら、藤木は眠りに落ちていった。

その夜、藤木は夢を見た。フワフワと漂う感覚、足が地についていない。夜空には明るい満月が輝いている。


あぁ、夢か…


夜風に身をまかせながら、藤木はぼんやりそう思った。


夢か…


藤木はいつしか、白い部屋に立っていた。青白い月明かりが窓から射しこんでいる。どこかで見たような部屋だ。ふと、前を見ると、白いベッドに誰かが寝ている。青い病院のものらしいパジャマを着て、白い布団を胸まで掛けている。


誰?


藤木はそっと近づいた。濡れたような黒髪に端正な面差し。


誰…?


月の光に照らされたその顔をのぞきこんで、藤木は息が止まりそうになった。


国明っ。


藤木は縋りつくようにベッドに取り付いた。


「国明っ、国明っ、どうしたの国明っ」


国明は目を覚まさない。ぴくりとも動かない国明の顔を月明かりが青白く照らす。


「国明、ねぇ、具合悪いの?国明、国明っ」


まるで死んだ人のよう。もう、死んでいる人のよう…


「起きてよ、国明っ」


藤木の胸が切り裂かれるように痛んだ。涙が出てくる。


「国明、国明」


藤木は手を伸ばした。パジャマをぐっと握り締める。確かな布の感触、ぼろぼろ涙があふれる。国明が死んでしまったらどうしよう。


「国明っ」


悲鳴のようにその名を叫んだ藤木は、ハッと目を開けた。辺りは真っ暗だ。平仄のわずかな光が部屋の隅で揺れている。


「ゆめ…」


藤木はほっと力を抜いた。天井を見上げたまま呟く。


「へんな夢」


いっぺんに色々なことがあったから、疲れているのだ。だから妙な夢を見た。


だいたい、国明がパジャマ着てたし…


「へんな夢…」


もう一度呟いた藤木は、ふと、自分が何かを握り締めているのに気づいた。顔を横に向け、藤木は今度こそ心臓がひっくり返りそうになった。目の前に国明の顔がある。正確には国明の寝顔がある。国明は直垂のまま夜具も敷かず藤木の隣で眠っていた。


うそっ。


そして自分は国明の直垂をしっかり握り締めている。藤木はそのまま真っ赤になって硬直した。


いっいつから僕、握ってたんだ?


夢で国明のパジャマを握った時感触があったのは、実際に直垂を握ったからだったのか。小さな子供じゃあるまいし、国明に知られたらこれは恥ずかしい。なにより、またからかわれるに決まっている。国明が目を覚まさなかったのをこれ幸いに、藤木はそろそろと指をはずそうとした。力を込めて握っていたせいか、指がこわばっている。そっと国明を起こさないよう指をはずし、手を引っ込めようとする。


「…む…ぅ」


国明がわずかに身じろいだ。びくっと藤木は手を止めた。


「…藤…」


国明の手が引こうとした藤木の手に重ねられる。目を閉じたまま国明がぼそりと言った。


「だいじょうぶだ…ふじ…」

「…国明…起きて…え?」


目を見開いた藤木の目の前で、国明はスースーと寝息を立てている。


「…寝言…」


ポカンと藤木はその寝顔を見つめた。国明は藤木の手を握ったまま眠っている。起きた気配は微塵もない。


「やっぱり寝言…」


ほうっと藤木は息をついた。それからだんだん可笑しくなってくる。


「ばっかだなぁ、こんなに疲れてるのに…」


重ねられた手が温かい。


「疲れてるくせ、人の心配ばっかり…」


胸の中に熱いものが流れ込んでくる。藤木は目をしばたたかせた。


「ばっかだなぁ…くにあき…」


藤木は国明の方へ体を少し寄せた。すぅすぅと寝息が聞こえる。藤木は微かに微笑むと再び目を閉じた。




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