第10話 いさかい

藤木は走った。必死で走って、館の上がり口に飛び込むと、そこにいた郎党達がぎょっとする。


「おっ御渡り様っ」


藤木はへたっ、とその場に座り込んだ。


「こはいかにっ」


藤木の様子に驚いた郎党達は、神様にうかつに触れるわけにもいかず右往左往している。そこへ、板張りの廊下をどすどすと鳴らして、忠興と秀次が飛んできた。


「御渡り様っ、いかがなされましたっ」

「こはいかなることぞっ」


郎党達や二人の驚きの視線が自分の下半身に注がれているのに藤木はやっと気づいた。


「…あっ」


藤木は慌てて直垂の前を押さえた。直垂の長い裾のおかげで、ふんどしと大事な部分は隠れていたが、すらっとした足がむき出しだ。忠興の顔が強張った。


「御渡り様…」

「あっ、いや、これはっ」

「殿はっ、殿はいずくに…何がありましたのかっ」


その殿が不埒な行為に及んだんです、と言うわけにもいかず、藤木は焦った。


「そのお姿はっ」

「あの、あの僕、その…」


言葉に詰まって咄嗟に叫んだ。


「僕、泳ごうと思ってっ」

「夜の海で…でござりますか…」


秀次が確かめるように言った。藤木はぎくっとなる。こればっかりは誤魔化しとおさなければ。藤木はこくこく頷いた。


「そう、そうなんだけど、急に泳ぎたくなったっていうか、夜の海ってすごく綺麗で、それでねっ」

「殿は何と…」

「あ…国明…は…僕の袴持っててくれて…」


なにか見透かすような秀次に藤木はますます焦る。だが、最後まで言い訳する必要はなかった。突然がばりっ、と忠興が土間に伏したのだ。


「御渡り様、海へ帰られると仰せられますや~っ」

「へ?」


藤木がきょとんとした。


「…海へ帰る?」

「なにとぞ、なにとぞ、御留まりくだされよ、海へ帰るなどと仰せになられますな~っ」


忠興は号泣せんばかりに声を震わせ額を土間に擦り付けた。他の郎党達も真っ青になる。次々と土間にひれ伏し、藤木に懇願しはじめた。


「御渡り様、お願いにござりまするーっ」

「榎本へ御留まりくだされませーっ」

「御渡り様ーっ」


泣き出すものまでいる。ただ一人、秀次だけが難しい顔をしたまま戸口に目をやっていた。


「あの、だから、海へって…あのねぇ…」


混乱する忠興達に藤木があわあわしていると、戸口に国明が現れた。藤木の袴を手に握っている。藤木の心臓がどきん、と鳴った。国明は不機嫌丸出しの顔つきだ。ちら、と藤木を見て、ムッとした顔のままぷいと横を向く。


ななななに、あの態度ーーーっ


悪いことを仕掛けてきたのは国明だろうに、まるでこっちが悪いとでも言いたげな態度だ。むかっ腹のたった藤木はギッと国明をにらみつけた。国明は知らん顔だ。そこへ、忠興が転がるように詰め寄った。


「殿っ、今まで何をしておられたのじゃっ。この一大事にっ」


血相をかえた忠興に国明が眉を顰めた。


「なんだ、叔父貴」

「御渡り様が海へ帰ると仰せなのじゃーーっ」


さすがに国明の顔色も変わった。ずかずかと藤木の前までやってくる。眉を寄せたままじっと藤木を見てくるので、負けじと藤木も睨み返した。


「帰るのか」


ぽつっと国明が言った。相変わらずの仏頂面だ。


「かっ帰らないけど…」


ムスッと藤木が答える。


帰れるのならとっくに帰ってるよ


そう言いたかったが、周りが悲嘆にくれているので藤木は黙っていた。


「…そうか」


国明は藤木の袴を投げてよこすと、ふいっとまた横を向いた。


「叔父貴、帰らんとの仰せだ」


そのまま国明は土間から上へあがり、藤木には目をやらず秀次に声をかけた。


「今夜はお前が御渡り様の側へ控えていよ」

「殿…」


困り顔の秀次に国明はぼそっと言い足す。


「おれはやることが多い。御渡り様を御寝所へお連れ申せ」


うっわ、そうきたか~~~っ


藤木はカッと頭に血が上った。暗がりを怖がった最初の夜以来、国明は藤木の寝所で隣に夜着を敷き、一緒に休んでいたのだ。それを、今夜は秀次に控えていろという。


あんなことしておいてーーっ


あんな行為に及んだからこそ一緒の寝所はマズイのだ、というふうには頭は回らなかった。国明の態度は藤木にはただのあてつけにしか思えない。


「あ~っそ。いいよ、僕もその方がいいかもーっ」


すくっと立ち上がり藤木は足を袴に突っ込んだ。藤木の言葉に国明がまたムッとしたようだった。じろっと睨んでくるのを藤木も睨み返す。袴の紐を結んでいないので手で押さえたまま、足音高く廊下に上がった藤木は、秀次ににっこり笑って見せた。


「行こう、秀次。あ、それから着替えを頼めるかな」


汚れちゃったからねーっ、と国明を横目で睨むと、国明は口をへの字に曲げたままぷいっと踵を返して行ってしまった。藤木もむぅっと口元を曲げて、自分の寝所へドタドタと向かった。腹が立って腹が立ってしかたがなかった。秀次が慌てて後を追う。土間には忠興以下、まだパニック状態の郎党達が取り残されていたが、カッカきている藤木の頭からそのことはすっぽり抜け落ちていた。








まさか秀次を横に寝かせるわけにも行かず、灯りをつけたままにしてもらって藤木は寝所で一人になった。板戸を隔てた隣の小部屋に秀次は控えている。夜着にくるまって藤木は横になった。

一人になってぎゅっと目をつぶると、ぐるぐる頭の中にいろいろなことが浮かんできて渦を巻き始める。

圧し掛かってきたときの国明の顔、掴まれた腕の痛み、丸い月、波の音、体を弄ってくる手の感触…

ぶるっと体を震わせて藤木は夜着の中で丸まった。なんだか、頭の芯がしびれたように麻痺している。


国明の顔、佐見の顔、どれがどれなのか判然としない。藤木はテニスウェア姿の佐見を思い出そうとしたが、いつの間にかその姿は直垂に太刀を佩いた国明に変わってしまう。藤木はごろりと寝返りを打った。佐見を思い出そうとする。桜の中で佇んでいた佐見、だが、黒い学生服の佐見はいつの間にか山道の先で自分を見つめる国明の姿になり、湯浴みをしたあと、髪をおろして立つ国明の姿に変わった。月明かりを受けて立つ国明、青白く染まった世界、じっと自分を見つめる国明…

藤木は目を開けた。シンとしている。遠くに海鳴り、ゆらゆらとひょうそくの炎がゆらめいていた。隣には誰もいない。


いつもなら…


藤木はぽっかりとした板の間を眺める。いつもなら藤木が目を開けると、横に国明の寝顔があった。畳を敷けばいいのに、床に一枚夜着をしいて国明は藤木の隣で眠った。端正な横顔を眺めていると気持ちが落ち着いた。たまに、眠れないまま夜中に藤木が見つめていると、国明も必ず目を開けた。目を覚ました国明はいつも微かに笑って言う。


眠れぬのか、藤…


そして藤木の手を握るとそのまま目を閉じて眠る。はじめは手を握られてびっくりした藤木だったが、国明の手が温かくていつもすぐに眠くなった。国明の手は温かい。温かい手が藤木の髪を梳く。藤木の手を握る。藤木を抱き寄せる。いつも藤木を安心させる国明の手、それなのに…


藤木は夜着を握る手に力を込めた。同じ国明の手が藤木の体を弄り、人に触らせたことのない部分にまで触れてきた。


なんで…


涙が出てきた。胸が痛くて、どうしようもなく胸が締め付けられて涙がこぼれた。


国明の馬鹿っ。


夜着の中で藤木は声を殺してただ泣いた。





翌朝、泣きはらした目でぼうっとしていると、秀次が水の入った盥と手ぬぐいを持って入ってきた。


「御前失礼つかまつりまする」


相変わらず律儀に平伏して、秀次は藤木の前に盥を置いた。


「…国明は?」


藤木よりも早く起きる国明は、大抵衣服を改めた後、朝一番に盥を持った郎党をつれて顔を出す。だが、今朝は秀次だけがやってきた。夕べの態度から、なんとなく国明は来ないだろうとわかってはいたが、実際にやられると腹が立つ。藤木がむっつり尋ねると秀次が恐縮した。


「今日は多忙ゆえそれがしがお側にて御仕え申し上げよとの仰せにござりますれば…」

「…ふ~ん、多忙ね~」


もごもごと口ごもる秀次を藤木は一瞥すると、後は黙ってばしゃばしゃ顔を洗った。手ぬぐいを受け取りながらぼそっと呟く。


「ウソばっか」


がばりっ、と秀次が床に額をすりつける。その慌てぶりに藤木は苦笑した。


「ごめん、秀次が悪いんじゃないから」


それから、いつも部屋に用意されている紙を数枚握って立ち上がった。秀次があとに続こうとするのを、トイレだよ、と断ってぱたぱたと廊下に出る。数人の郎党が廊下の脇に控えており、がばっと平伏した。


「?」


そのまま藤木はトイレへ続く廊下を歩いた。すると、廊下のあちこち、庭先でも郎党達が平伏している。なんだか今日は人が多いな、と首をひねりつつ、藤木はトイレに入った。

毎日のことだけにトイレに入るたび、元の世界が恋しくなる。


鎌倉時代のトイレって、心にもお尻にも負担が大きいよ・・・


日本のトイレが水洗化され便座に「お尻洗い」までくっついてきたのはここ十数年のことなのだが、その十数年しか生きていない現代っ子にはやはり鎌倉時代のトイレと紙は辛かった。本当はこの時代、紙は貴重だ。自分が神様扱いだから毎回トイレで使うことが出来るのだと頭ではわかっているのだが、やはり体が拒絶する。


「おまる」とかも絶対イヤだし。


金銀蒔絵の特注おまるが届いて以来、忠興達の「おまる攻勢」は日々激しさを増していた。「便所ではのうてこれをお使いくだされ。」と毎朝飽きもせずやってくる。


あれ?


そこでハタと藤木は思い至った。


今日は忠興、まだおまる持ってこないな…


そういえば夕べ、藤木が海に帰ると思い込んだ忠興はじめ郎党達は随分取り乱して泣いていた。泣きすぎて朝寝坊でもしたのだろうか。

首を捻りながら藤木はトイレから出た。ざざっと音を立ててトイレの前に居並ぶ郎等達がひれ伏す。


何これ…


さすがに驚いた藤木はぽかんとその場に立ちつくした。人が多いのではなく、これはまるで…


「…あのさ…」


一番近くにひれ伏している郎党に向かって藤木が口を開こうとしたとき、秀次が手ぬぐいを捧げて進み出てきた。


「御渡り様、これを」

「あ…」


藤木はつくばいで手を洗いながら秀次に囁いた。


「秀次、何か、監視されてる気分なんだけど、これって国明?」


秀次は両手をぶんぶんと振る。


「めっめっそうもござりませぬ、けっして殿はかような仕儀は…」

「ふ~ん、やっぱ監視なんだ」

「いっいえっ、けしてっ」


慌てる秀次を横目で睨むと、藤木は足音も荒く部屋へ向かった。足を縺れさせるように秀次が後を追ってくる。そして部屋へ入った藤木は、また目を剥いた。


「なっ何これーっ」


部屋の中にはすでに朝食が運ばれていた。だが、その朝食が昨日までとは段違いだ。

塗りの膳が三つも並んでいる。中身は地鶏の白焼きに姫サザエとトコブシの煮物、結び昆布に烏賊、山芋の蒸し椀、タケノコと山菜の炊き合わせ、鹿肉、地魚の焼き物数種類、小豆入り玄米ご飯、そういったものが盛りつけてあった。三つの膳以外に、野菜のたっぷり入った羮椀と折敷きの上には干した柿とクルミまである。そして料理の横にドンとおかれた白磁の徳利。


朝っぱらから酒だよ…


宴会でも始まりそうな朝食に藤木が思考を停止していると、後ろから秀次が恐る恐る声をかけてきた。


「お…おそれながら…」


はっと我に帰った藤木は、もう一度目の前の宴会料理を眺める。フツフツと怒りがわいてきた。国明が夕べのことをどう思っているのかは知らないが、いやらしいにもほどがある。自分では何も言わず、郎党どもを監視よろしく周りに配し、朝食はやたらと豪華、これで何が伝わるというのだ。こんなセコイ男だとは思わなかった。藤木は声を荒げた。


「秀次っ、下げてよ、こんなものっ。国明がどういうつもりか知らないけどねっ、だいたい…」

「殿ではござりませぬっ」


秀次が足下にひれ伏した。


「殿は、殿はこのことをご存じありませぬ、これらの手配はすべて…」

「すべて誰?」


秀次の体がびくっ強ばった。藤木は無機質な声で再度尋ねる。


「誰さ、こんな馬鹿げたこと命じたの」


がばりと秀次は、顔だけあげて必死で訴えた。


「悪意あってのことではございませぬ。御渡り様を大事に思うがあまりのこと、忠興様は…」

「忠興?」


藤木は首をかしげた。これらのことは国明の命ではなく、忠興のしたことだというのか。だがいったい何故。


「忠興が?」

「さ…左様で…」


温度のない藤木の声に身の置き所なく秀次が縮こまった。

ぷちっと藤木の中の何かが切れる。国明とのことで気分は最悪、トイレはゆっくり出来ないし、あちこちに畏まる郎等達の視線は鬱陶しい。そして今度は忠興。


「忠興ーーーーっ」


廊下に向かって藤木は大音声を上げる。どうせ近くに控えてこっちの様子をうかがっているに違いないのだ。


「たーだーおーきーーっ、ただおきっ」


案の定、どたばたと慌てた足音がして、忠興が飛んできた。


「忠興っ」

「ははっ、御前にっ」


仁王立ちの藤木の前に忠興は大きな体をひれ伏させる。忠興の後ろには、呼んでもいないのにわらわらと郎党どもがついてきて同じように平伏した。藤木はきっとまなじりをつり上げて忠興を睨んだ。


「忠興っ、これどういうことか説明してくれるんだろうねっ。いきなり監視してみたりこんなご飯もってきたりっ」

「かっ監視など、滅相もございませぬ」


忠興がひげ面を青くして見上げてきた。だが、キレた藤木は聞く耳もたない。


「監視でしょうっ。朝っぱらからトイレの前まで、あれが監視じゃなくなんだって言うのっ」

「御渡り様が海へ帰られると…」


見上げた男の目から大粒の涙がぼろっと零れた。


「海へ帰られると仰せじゃから…」


ぽろぽろと涙をこぼして忠興は泣き始めた。後ろに控えた郎等達からも嗚咽やすすり泣きの声が起こる。おいおい泣き出す侍の一団を目の前にして、藤木はあっけにとられた。それはそうだ、筋骨たくましい無骨な男どもがこうもあけっぴろげに泣くなど、藤木の時代ではあまり見られない光景だ。


「…えっと…」


すっかり毒気を抜かれ、うろたえる藤木の足下で忠興がすすり上げながら言った。


「儂は嫌じゃ、御渡り様がおらねば榎本はさみしゅうなる、ここにおって下され。帰るなど仰せらるるな」


子供のような物言いをする。困り果てた藤木が脇に控える秀次を見ると、やはり困り顔で藤木を見返した。


「秀次…これって…」

「その…夕べ御渡り様が海で泳ぎたかったと仰せになられたので…」

「………え?」


確かに、袴をはいていない言い訳に海で泳ぎたかったと言った覚えがある。その後なんだか大騒ぎが起こったのだ。国明までいきなり帰るのか、とかなんとか変な事を聞いてきて…


「もしかして、僕が海に帰るって勘違いしたわけ?」

「左様かと存じまする」


秀次がわずかに苦笑した。藤木はがくっと脱力する。そういえば、夕べは国明のことで頭が一杯で他に気が回らなかった。


「で、いなくなるのが心配で側にいて、引き留めるためご馳走用意したってわけか…」

「お…おそらくは…」


秀次が恐縮する。藤木ははぁっとため息をついた。

なんという思考の飛躍、そしてこの短絡的な行動、おいおい泣いている忠興や郎等達の背中を眺めて、藤木はなんだかなぁ、と呟いた。と同時に、気持ちがひどく穏やかになってくる。床に額をこすりつけて泣いている忠興の前に膝をつくと、藤木はその背中をぽんぽんと叩いた。忠興がぐしょぐしょの顔を上げる。


「ありがと、忠興、皆も…」


藤木は笑った。


「大丈夫だよ。僕、帰ったりしないから」

「ほっ本当にござりまするか…?」


藤木は手に持っていた手ぬぐいを忠興に差し出すと、こくりと頷いた。


「ここにいるよ。でも…」


ぎくっとまた体を強ばらせる忠興に肩をすくめてみせる。


「僕、あんまり御利益とかないんだけど、それでもいいかな」


目を大きく見開いていた鎌倉武士は、すぐに相好を崩した。


「御渡り様はおってくださればよいのじゃ」


のう、そうじゃろう、と後ろを振り返る忠興に、郎等達もそうじゃそうじゃと声を上げた。顔は涙でくしゃくしゃのくせに、もう笑いが起こっている。


今泣いたカラスがもう笑うってやつ…


藤木は心底、この人々を好きだと思った。それから、ふと思いついて白磁の徳利と塗りの杯に手を伸ばす。


「じゃあさ、どこにもいかないってことで、このお酒、皆にあげる。朝だけど少しだからいいでしょ」


わいわいと郎等達は嬉しそうに酒を飲み回した。それから安心したように退出していく。


「忠興と秀次は一緒にご飯食べよう。僕一人じゃ食べきれないからね。」


ただし地鶏と鹿肉はキープ、と案外せこい膳の配分をやった後、藤木は恐縮する二人を促して朝食にした。


朝からまったく…


しかしこの大騒ぎのおかげで気分は浮上している。そして、これだけの大騒ぎがあったにもかかわらず、ちらとも顔をみせない国明にムカつきを新たにする。


夕べ何であんなことしたのか、納得するまで許してやらないんだからねっ。


地鶏を噛みきりながら心の中で怒りの拳を握ってみるが、胸にトゲが刺さったような感覚は消えない。苛立ちがつのるばかりで、藤木は自分でも国明の何に腹を立てているのかよくわからなかった。



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