第9話 何すんだっ


『この次参る折には菓子を持参しますゆえ、楽しみにしていてくだされよ』


朝比奈義秀が帰るまぎわに言った言葉をふと思い出す。


『儂が持ってくる菓子は甘うござりまするぞ。そこな忠興めが塩羊羹とはわけが違いますからな』


カッカッカッ、と高笑いする義秀に忠興がむっつりとしていた。

実は数日前、忠興が上機嫌で藤木に羊羹を持ってきたのだ。和菓子が好きなわけではなかったが、久しぶりに甘いものが食べられると藤木は大喜びした。そして数分後、藤木は鎌倉時代をナメたらいかんと再び己を戒めたのだ。


羊羹は塩味だった。


『いや、郎党どもに聞き申した。御渡り様、羊羹を召し上がられて甘うないと驚かれた由、義秀、胸が痛みましたぞ。まっこと忠興の武骨一辺倒なことよ』


どうも義秀と忠興はお互い張り合う間柄のようだった。家柄は格下の忠興に突っかかるということは、忠興の武勇に一目置くからなのだろう。だが、なんとも子供っぽい意地の張り合いをする。

実は反物一つ求めるにしてもお互い譲らず、結局別々の物を買い求めていた。忠興は緑地の錦、義秀は赤地錦で互いに自分の趣味がよいとこれまた譲らない。だから塩羊羹の一件を聞き及んだ義秀が、ここぞとばかりに言い立てたのだ。

流石に忠興は反論できず渋い顔で唸っていた。一人京より参ったという商人だけが、なんなりと御用立ていたしますぞ~、とホクホク顔で帰っていった。


「でも、ホントに甘いお菓子、持ってきてくれたらいいけど」


藤木は膳を綺麗にたいらげ、箸を置きつつひとりごちた。何だかんだといって高校生、食欲は旺盛だ。

秀次が郎党に白湯を注がせる。茶よりお湯がいい、と藤木の希望で、食後は必ず白湯が出された。例のごとく忠興が騒いだが、抹茶をお湯に溶いたようなものより白湯のほうがよっぽどいい。ましてや酒など、もう真っ平だ。

白湯を受け取った藤木は、義秀の言葉を思いだしながら部屋の奥に奉られた三宝を見た。義秀と忠興が買った反物がそれぞれのせてある。直垂にしたてるのだそうだ。その横に、もう一つ三宝が据えられていた。何かのっているようにも見えず、藤木は怪訝に思って近付いた。


「…あっ」


それはミルクキャンディだった。七つの小さなキャンディの包みがスティック状のパッケージに入っている。


「これ…」

「おそれながら、御渡り様のお召し物を洗い申し上げた折、見つけましてござります」


白湯を注いでくれた郎党がそう言った。


あ、ポケットに入れてたんだ…


藤木はミルクキャンディのパッケージを手に取った。

この世界にくることになったあの朝、佐見がくれたのだ。二人で歩いていた時、父のヨーロッパ土産だとかいって。


『え?なんか意外。佐見へのお土産がミルクキャンディなんて』


そう藤木が笑うと、佐見は少し照れた顔をした。


『おれは甘い物は別に食べないんだが、これだけは昔から好きで、だから家族はおれへの土産というとその土地で見つけたミルクキャンディを買ってくるんだ』


意外すぎて目を丸くした藤木に佐見は肩を竦めた。


『やっぱり変か?』

『…いや、なんていうか…』


佐見って案外可愛い、というと額を小突かれた。


『結構旨いぞ。疲れもとれる』


ぶっきらぼうに手渡してきたのはやはり気恥ずかしかったからだろう。嬉しくて藤木は受け取ったそれをポケットにしまった。


『ありがとう、佐見がくれたんだから、僕の宝物にするね』


冗談めかして本音をまぜた。佐見が笑ってくれたのが、また嬉しかった。


「忘れてた…佐見のキャンディ…」


手にとって藤木は佐見の笑顔を思いだす。胸が締め付けられた。


また自分は佐見に会えるのだろうか、あの笑顔に出会えるのだろうか。


泣きそうになって、藤木は慌ててキャンディに意識をそらす。


泣いたら秀次が心配する。そしてそのことを聞いた国明も…


藤木はペリペリとパッケージをはがした。デフォルメした乳牛の笑っている絵がついた包み紙を剥がして一つ、口に入れた。久しぶりに味わう強烈な甘味とミルクの香り。じんわりと舌に、胸に甘さが沁みた。


国明にも食べさせてあげよう…


藤木はふとそう思った。ミルクキャンディが好きだと言った片思いの人にそっくりな男の顔を思い浮かべる。佐見と同じように、国明もミルクキャンディを好きだろうか。手元をみると、6個ある。


忠興にもあげよう、それから義秀にも。


喧嘩になったらいけないもんね、と藤木は小さく呟いた。

病気の国明のお父さんにも食べさせてあげたい。毎朝、藤木が見舞うのをあの人はとても楽しみにしている。それがわかる。

藤木は後ろを振り向いた。秀次と、秀次に付き従い手伝いをする若い郎党が控えていた。若いというよりまだ幼いと言った方がピンとくる感じで、おそらく藤木より年下だ。現代なら中学生くらいだろうか。国明の側近であり多忙な秀次だ。藤木の側に控えられない時はこの若い郎党が代わりを努める。


「秀次」

「ははっ」


嬉しげに近寄ってくる藤木に秀次は平伏した。何があっても礼を欠かないのがこの男である。


「ねぇ、秀次、これあげる」


藤木は小さなキャンディを包み紙ごと秀次に渡した。それから、その隣に控える若い郎党にも一つ渡す。


「君にもね。でも、誰にも言ったらダメだよ。皆のぶん、ないから」


藤木は唇に指をあてて悪戯っぽく笑った。その郎党は藤木に微笑まれて真っ赤になった。うやうやしく手渡されたキャンディを捧げると、しげしげと手の中のそれを眺めた。秀次もじっとキャンディを睨むように見つめている。


「な…なにやら顔のごときものが描いてござるが…なんでありましょうや…」

「宝のように光っておりまする…」


秀次がぽつっと漏らすと、若い郎党は頬を紅潮させたまま言った。藤木はぷっと吹き出した。そういえばキャンディの包み紙の素材は現代のものだ。ツルっとした手触りといい、白にホルスタインの顔をデフォルメした絵といい、何もかもが不思議だろう。しかも文字は金色だ。まさか金色や銀色のインクがあるなど思いもよらない彼らにとっては宝のようにみえるのだ。


「それ、牛の絵だよ」

「うっ牛でござりますか」

秀次が素っ頓狂な声をあげた。

「かような白と黒の牛などおりませぬ」

「さっさようでございます。牛の顔とも思えませぬ」


藤木はたまらず笑い声をあげた。確かに、この時代ホルスタインはいないしこういうデフォルメも目にしたことはないから牛には見えまい。


「いいからそれ、あけて食べてごらんよ」


おそるおそる二人は包み紙を開ける。開いた包み紙の内側は銀色で、その上に乳白色の丸いキャンディが現れた。二人は息をつめてそれを凝視している。


「ミルク味、おいしいよ」


ほら、と藤木は口をあけて自分が舐めているキャンディを見せた。秀次と若い郎党は藤木の口と手元のキャンディを交互に見比べていたが、うながされておずおずと口に入れた。数回、もごもごと口の中でキャンディを転がした二人は、次の瞬間、惚けたように動きを止めた。目を見開いたまままばたきもせずじっとしている。


「え?ちょっちょっと、秀次、ねぇ、君、大丈夫?」


尋常でない様子に藤木は慌てた。


ミルクキャンディは鎌倉人にはマズかったか、やっぱりジャンキーなんだろうか、『御渡り様』に貰った物だから吐き出せないでいるのか。


焦った藤木が、吐き出してと言おうとしたその時、二人はペチャペチャと涎を垂らしそうな勢いでキャンディを舐めはじめた。一心不乱に舐めている。その異様な迫力に藤木は声もかけられない。黙ってみていると、口の中のキャンディがなくなったのか、二人はほうっとため息をついた。うっとりとした表情だ。


「…この世のものとは思えぬ美味でござりました…」


秀次がぼうっとしたまま呟いた。まだ唾が出るのだろう、口をモゴモゴさせている。


「なんでござりましょう…匂いまで甘うござりました…いまだ鼻の奥まで味がいたしまする…」


ごくっと秀次は喉を鳴らした。二人とも目線が宙を漂っている。


「…ひ…秀次…?」


藤木はますます狼狽した。秀次もこの郎党もどこかおかしくなったのだろうか。不安げに名を呼ばれた秀次はぼんやりと藤木を見返し、へらっと口元を緩めた。


「…こってりとした乳のような…なのに甘うて…唾がとまりませぬ…」


極楽浄土をみたようじゃ、と秀次が呟くと、こくこくと若い郎党は子供のように頷いた。


「…まこと…天上の食物にて…」


若い郎党は意識がどこか飛んでいるようだ。


なんだ、要するにおいしかったんだな。


藤木は安堵した。


おいしすぎてああいう反応だったわけね。


納得すると、むらむら悪戯心が沸き起こってきた。

鎌倉人、面白すぎる。忠興は義秀と並べて食べさせた方が面白そうだ。とりあえず今は…


「ねぇ、国明は?」


秀次がまだ霞みのかかった目でのろのろと答えた。


「あ…殿には本家へ出向かれたまままだお戻りになられておりませぬ…」


な~んだ、つまんない。


ぼうっと座り込んだままの二人を置いて藤木は部屋を出た。国明の父親の部屋へ向かう。手の中のミルクキャンディをきゅっと握った。


「疲れもとれる、か」


佐見の言葉をそのまま繰り返す。病床にある国忠に持っていこう、少しでも元気になればいいな、そんなことを考えながら。







国明が帰ってきたのは、もうとっぷりと日の暮れた時間だった。

とっくに夕食を食べ終わっていた藤木は実は少し拗ねていた。いつもなら午後、国明は必ず藤木を馬に乗せて外へ連れ出してくれる。それなのに今日は一日中ほったらかしだ。だから駄々の一つも捏ねてみようかと藤木は国明の帰りを待っていた。



馬の嘶きと郎党どもの騒ぐ声で国明の帰宅は知れた。秀次や忠興と何やら話す声が足音とともに近くなってくる。文句の二つや三つ言ってやろう、そう意気込んでいた藤木は、国明の声にほっと力が抜けるのを感じた。いくら皆が大事にしてくれても、国明がいないと自分はどうも落ち着けないらしい。


佐見と同じ声だからかなぁ、声聞いただけで安心するなんて…


それがなんだか癪に触って、やっぱり文句をいってやろうと藤木は決める。足音がすぐそこに聞こえ、国明が部屋に入ってきた。


「国明、遅か…」


最後まで言う事が出来なかった。ハッと藤木は息を飲む。国明はひどく疲れた顔をしていた。身に纏う空気もどことなく強ばっている。


「…国明…?」


憔悴した顔で、それでも藤木を見て国明は目元を和らげた。


「すまぬ、遅くなった。すぐに湯あみの支度をさせよう」


秀次に合図するのを藤木は慌てて止めた。


「あ、いいっ、今日はいいから、秀次も行かなくていいから」


バタバタ手を振ると秀次が困ったように立ち止まった。国明がどかりと藤木の側に腰をおろす。


「どうした。藤は湯あみを楽しみにしているではないか」


怪訝な顔をする国明を藤木はじっと見つめた。どうしたのだろう、いつも生気に溢れている国明に力がない。国明の手に藤木は思わず手を重ねた。


「いいんだってば。今日は汗、かいてないし」

「弓矢の稽古で藤は汗だくだったぞ?」

「う…」


藤木は言葉に詰った。確かに国明のいうとおり、午前中汗まみれになったのだ。昼食前に湿ったテニスウェアを脱ぎ、今はジャ-ジ一枚だった。だが、藤木は疲れを滲ませている国明に余計な手間をかけさせたくない。困った藤木は無意識に国明の手をぎゅっと握りしめた。


「ははぁ」


突然、国明がからかうような笑みを浮かべた。


「さては藤、おれがいなくて寂しかったか。それで拗ねたのだな。」

「ばっ…」


馬ッ鹿じゃないのっ、と叫ぼうとして、しかし言葉にならず藤木は口をぱくぱくさせる。確かにさっきまで拗ねていたので否定はできない。国明は藤木の手を握り返し、自分の方へ引き寄せた。


「うわっ」


藤木はバランスを崩して、国明の膝にもたれかかる格好になる。


「ならば詫びだ。今宵は藤の背中を流してやろう。そうだな、おれも汗をかいた。一緒に湯あみをするか」


藤木は茹蛸のように赤くなった。

寺で風呂を使って以来、国明は毎晩、藤木のために湯を沸かしてくれていた。はじめは体を拭くだけだったが、二、三日していきなり大きな盥がやってきた。秀次に聞くと、国明が急かして作らせたのだとか。

部屋に盥を据えて湯を張った。小さいながら、立派なお風呂だ。湯を張った後の世話は国明だった。といっても、人払いをして廊下に控えるだけなのだが。

見ないでよ、と藤木が念おしして、笑いながら国明が庭の方を向くのが毎晩のことだった。男同士なのにと思いはするが、どうも国明相手だと気恥ずかしい。それが一緒に風呂などと。

あ~、う~、と赤い顔のまま焦る藤木に国明は肩を揺らした。


「いや、すまぬ。戯れ言が過ぎたか」


くつくつ笑いながら国明は藤木の体を起してやる。藤木は少しほっとした。秀次に指示しようとする国明の手を再度握り、引っ張った。


「…藤?」

「だって国明、疲れてるじゃない」


国明が驚いたように目を見開いた。藤木は俯き加減に言う。


「疲れてるんでしょう?だったら国明、自分のことやって。ちゃんとご飯食べてさ、休まなきゃ」


僕のことはいいから、と藤木が笑うと、国明がなんとも言えない顔をした。しばらく藤木を見つめていたが、その肩をポンポンと叩き柔らかい目をした。


「藤が湯を使った後、おれも汗を流したい。だから気にするな」


察した秀次がスッと退出した。湯の用意をさせるのだ。


「…国明…」

「だが、おぬしの湯をおれが使うと皆に恨まれるな」


まぁ、たまにはいいか、とひとりごちる国明に藤木は首を傾げた。


「なんで君が恨まれるわけ?…ってか、君、僕の残り湯、使う気だったの?それって汚いでしょっ」


焦りはじめた藤木を国明は面白そうに見た。


「なんだ、藤は知らなんだか。おぬしが湯を使ったあとはな、浄めの湯だと皆、ありがたがって使うておるぞ。一晩に五人と言うておったか、順番を決めてな」

「なっ。」


藤木は卒倒しそうになった。


自分の入った残り湯が浄めの湯?いや、浄めって汚いだろう、絶対汚い、それがなんで浄め…


目眩がした。どうりで盥を下げる時、何やら大事そうに運んでいたはずだ。本当に鎌倉人、あなどりがたし、である。


がくっと脱力しているところに、件の盥が運ばれてきた。心なしか湯を運ぶ郎党達の目が輝いている。おそらく今日「浄めの湯」を使う順番が回ってきた者達なのだろう。そこへ国明が声をかけた。


「今日は湯を下げるにおよばぬぞ。御渡り様の後、おれが使う」

「なんと~~っ。」


悲鳴に近い声があがった。じろりと国明に睨まれ、郎党達はしおしおと引き下がる。その打ち萎れように藤木は複雑な気分だった。


「…僕の残り湯なんて、捨てればいいのに…」

「御渡り様だからな」


国明は廊下に出ると外の方を向いて座った。いつものことながら盥は衝立で四方を囲われている。その影で服を脱いでいると、ぼつりと国明が言った。


「よい月の夜だ」


衝立の間から国明を見ると、廊下の柱にもたれて国明は空を見上げている。


国明…?


青白い月に照らされた国明は静かだった。不思議と胸が掻き乱され、慌てて藤木は目をそらした。湯に入ってもなかなか治まらない動悸に藤木は途方に暮れていた。







「ちょちょちょちょっとっ」

「なんだ?」


藤木の目の前で国明はするりと直垂を脱ぎ捨てた。


「こっここで脱ぐわけっ?」

「脱がねば湯を使えまい」


下に着ている単衣の着物を脱ぐと、褌ひとつだ。だが、躊躇いなく国明はその姿になった。


「わぁっ」


叫んではみたものの、引き締まった逞しい体躯に藤木は目をそらせなくなる。

刀剣や馬で鍛えられた体はスポーツで鍛えられた体とはまったく違った。武骨で力強く、そこへ当時の褌、つまり首から紐で吊るしたような褌をしているものだから、見ようによっては裸体にサロンエプロンだ。

つまり「裸エプロン」状態の国明に藤木の目は釘付けになっていた。ただ、裸エプロン状態とはいえそこに猥雑な感じは微塵もなく、鍛え上げた体に男性的な色気が漂う。思わず藤木はその体に見愡れた。


「どうした?藤」


ぼんやり見つめていたらしい、声をかけられ藤木はハタと我に帰った。国明と目があう。


「わ~~~~っ」


今度こそ藤木は真っ赤になって廊下に飛び出した。柱の影に縮こまる。心臓が爆発しそうだ。


「おかしなやつだ」


国明が苦笑するのがわかった。うろたえた藤木は言い返すことなどできない。国明の湯を使う音を聞きながら、藤木はドギマギ騒ぐ胸を押さえた。


落ち着け、落ち着け僕、落ち着くんだ藤木涼介っ。


夜風が火照った頬をなでる。座り込んだ藤木はぎゅっと胸の前で手を握る。


佐見と全然違う体だった…


部室で着替えるので佐見の上半身は見慣れたものだった。合宿の風呂で全裸だってみたことがある。片思いの相手の裸体にドキドキしたが、今ほどの衝撃は受けなかった。


国明は全然違う…


佐見と国明が全く違う事がショックだったのか、単に国明の裸体の色気に衝撃を受けたのか、藤木は自分の混乱の理由が全くわからなかった。







しばらくすると、衣擦れの音がして国明が湯から上がったのがわかった。藤木の座る縁側とは違う方向からザバリと湯を庭に流す音がする。あの大きな盥の湯を一人で抱えて捨てるのだから、とんでもない膂力だ。

驚いて振り向いた藤木はまた息を飲んだ。そこに立つ国明は髪を洗ったのだろう、いつもの折烏帽子はなく、結い上げた髪をおろしている。肩まで届くつややかな黒髪はクセがあり、毛先があちこち跳ねている。

まるで佐見の髪のように、佐見そのもののように。


「佐見…」


国明と佐見は全く違うと今、思い知ったばかりだというのに、目の前に佐見国明そのもののような榎本国明が立っている。藤木は震えた。混乱して何がなんだかわからない。


「藤?」


座り込んだまま呆然と見つめてくる藤木の様子を不審に思ったのか、国明が盥を置いて藤木の側に寄った。


「どうした、藤」


黒い瞳が気づかわしげに覗き込んできた。国明の手が藤木の頬に触れる。温かい手、藤木が眠る時、必ず髪を梳いてくれる温もり、ふっと藤木の体から力が抜けた。


「…なんでもない…」


藤木は国明の腕に体をあずけた。


「藤?」

「なんでもないよ…くにあき…」


抱き込まれるような形になっても藤木は抵抗しなかった。何も考えたくない。ただ、国明の腕の中は心地よい。黙って頬をすり寄せると、抱き込む腕に力がこもった。


「藤…」


掠れた声で国明が名前を呼んだ。


「…ん?」


抱きしめられたまま藤木はぼんやりと答える。


「藤…今宵は望月だ…」


国明は耳元に囁いた。


「月を…月を眺めにゆこう…」


藤木はただ、国明の胸に顔をうずめた。





いずれへゆかれますや、と騒ぐ秀次や忠興に、国明は一言、浜に月を眺めに降りるだけだ、と答えた。

いつもならばやれ供をつけろだの危のうござりますだのかしましい二人が、今夜は不思議とあっさり引き下がった。館からすぐの浜だからだろうが、それにしてもうるさ型の二人には珍しい。履物を出させる国明の横顔を見つめながら藤木は秀次の漏らした言葉を思いだした。


『殿は三浦の本家へ出向かれたまままだお戻りになられておりませぬ』


何かあったのだろうか、藤木は訝しむ。そういえば国明が帰ってきてから秀次や忠興の表情もどこか冴えない。


「重々お気をつけられませよ。殿」


忠興が念をおしていた。秀次が再度、進言する。


「やはり供を数人、お連れにはなりませぬか」

「いらぬ」


国明は素っ気無く答えた。


「それより早く履物の用意をいたせ。藤が待っている」

「なにをそう急かすかの、月は逃げはせんぞ、殿」


忠興が呆れたように、しかし心配を滲ませて言った。


「だいたい殿は鎌倉より馬を飛ばしてきたばかりではないか。お疲れであろうに」

「疲れてなどおらぬ」


国明はむっつりした。忠興はだが、かまわず引き止める。


「また何ぞあらばいかがなされる。月は館の上にも出ておるじゃろう」

「叔父貴、半日やそこら馬を駆けさせたくらいで刀の鈍るおれではないぞ。ぐだぐだ申すな」

「そりゃ殿お一人ならば心配はいらぬじゃろうが…」


話を打ち切った国明が外へ出ようとするので、忠興は藤木に振り向いた。


「御渡り様の御身が心配じゃ」


国明は足を止め忠興を宥めるように声をかけた。


「忠興叔父、すぐそこの浜ではないか。何ぞあらばとく駆けつけよ」

「御渡り様、恐いことのありましたら叫んでくだされませよ。この忠興がお助けに参上いたしますからな」

「…忠興」


国明が顔をしかめた。おろおろと藤木を案じる忠興は、年頃の娘の父親のような心配ぶりだ。藤木はくすっと笑った。


「大丈夫だよ、忠興。国明が守ってくれるから」


三宝の上の、これまた紫の布の上に鎮座しているスニーカーを無造作に取り上げて足を突っ込む。


湯上がりで藤木は直垂に着替えていた。部屋でしばらく国明に抱きしめられていた藤木だったが、ハタと我に帰ってジャージが汗臭いのに気付いたのだ。

着替えるというと、藤の匂いだからおれはかまわぬのに、とか、ここではやはり不都合があろうな、たれやら来ても面倒だ、とか、わけのわからないことを国明はぶつぶつひとりごちていた。が、先ほど郎党が準備した黄色地に銀糸の縫い取りのある直垂を着せてくれた。袴の紐を結ぶ時、国明が眉間に皺をよせて、むっ、と唸っていたが、藤木はさして気にもとめていなかった。一日中館の中にいたので、月を眺めに行こうという国明の誘いが嬉しかったのだ。

藤木は夜の散歩にわくわくしていた。新しい直垂も嬉しかった。物珍しいし、金糸銀糸の縫い取りのある衣服なんて現代にいたら身につけられない。 湯あみをしたあとの混乱した気分は微塵もなかった。月夜の浜辺へ遊びに行く、それに浮かれて自分がさっきまで国明に固く抱きしめられていたことなどすっぽり頭から抜け落ちている。だから国明の目の中に、いつになく切羽詰まった色があることに藤木は気付いていなかった。





出入り口に立ち、藤木はくるっと忠興に振り返った。


「ほら、忠興」


両手を広げてみせる。新しい直垂を着ると、藤木は必ず忠興にこうやって似合うかどうかを聞いた。衣服を選ぶのに忠興が心を砕いてくれていると知ったからだ。どうも国明すら口をはさめないらしい。黄色地の直垂を揺らして藤木はニコッと笑う。


「おぉ、おぉ、ようお似合いじゃ。望月のようじゃ」


忠興は手を打って喜んだ。直垂にスニーカーはなんだかなぁ、という気分なのだが、靴だけはこの時代のものを履くことが出来ない。足が痛くなる。少々洗わなくてもスニーカーだし、そう藤木は開き直っていた。


「藤」


急かすように国明が名を呼んだ。国明はとっくに外へ出ている。


「じゃあ、行ってきます」


国明に腕をひかれ、藤木は秀次と忠興にひらひらと手を振った。空には皓々と満月が輝いていた。







月明かりがこんなに明るいなんて

夜道を歩きながら藤木は辺りを見回した。



人工の光に慣れた藤木は本当の月明かりを知らない。世界は青白く染まっていた。道に落ちている石も木々も青白い光を宿している。昼には見慣れた道筋や風景がまったく違った姿をしていた。



館の裏手の浜に向かう道筋にところどころに桜の木があった。もう満開をすぎ、枝の先端は若葉に覆われている。最後の花びらが風もないのにちらちらと舞っていた。



藤木はチラリと横を歩く国明を見た。国明は藤木の手を掴んだまま早足で浜に向かっている。もう少しゆっくり夜の散歩を楽しみたいと思うのだが、国明は妙にせかせかと足をすすめた。




何焦ってるんだか…?




少し疲れた藤木は国明に文句を言った。




「国明、もっとゆっくり歩いてよ、もう、月は逃げないって忠興もいってたじゃない」




国明はむっつりした顔のまま藤木を見た。




「月なぞどうでもいい」




ぼそっと呟くと、また藤木の手を引いた。




何だよ、自分が月を見に行こうって誘ったくせ。




ぶっとむくれた藤木は国明の横顔を睨んだ。国明は髪を下ろしたままだ。端正な横顔だった。蒼い月明かりに染まっている。下ろした黒髪が月の光を受けて濡れているように見えた。艶があって綺麗だと藤木は思った。









ずんずん歩いて辿り着いたのは、館の裏手の道から下におりた浜辺だった。浜辺に立つと視界が開けた。波の音が大きく響く。




「うわ、すごい…」




夜空を見上げて藤木は声を上げた。空には真ん丸の月がかかり、それが海に銀色の光をなげかけている。波が月光にキラキラ光っていた。夜空を流れる雲が月明かりにぼうっと白く浮かび上がる。その間で銀の砂粒のような星々が白い光を放っていた。




「…知らなかった…」




藤木がため息とともに呟いた。




「夜空って、色んな光があったんだ…僕、暗いんだとしか思っていなかった…」




今度は藤木が繋がれたままの国明の手を引っ張って波打ち際へ走る。砂がざくざくと音を立てた。波が月の明かりを映してきらめいている。青白く光る砂は波打ち際の白い泡をはじいていた。




「うわ…」




大きな波が来た。波打ち際を歩いていた藤木は濡れないように波をよけて跳ねた。大きく跳んだので手がはずれた。国明は足首を濡らしている。




「藤」




国明に呼ばれたが、藤木はそのまま波をよける遊びはじめた。楽しかった。風は凪いで暖かい春の宵だ。




「ふふ…国明、濡れちゃうよ」




月明かり、星明かり、ただそれだけの世界は美しかった。蒼く美しい世界、聞こえるのは波の音、心も体もふわりと軽い。藤木は夢中で波と遊んだ。ふと、振り返ると国明が立っている。月明かりの下、すっと立つ姿は見愡れるばかりの武者ぶりだ。足首を波に洗われ、国明はじっと藤木を見つめていた。




「国明」




側に駆け寄った。一緒に遊びたかった。




「国明」




藤木は国明に笑いかける。国明が眩しそうに目を細めた。国明の手が伸びてぐっと藤木の二の腕を掴む。




「痛っ」




思いのほか強い力で、藤木は顔をしかめた。




「藤」




そのまま国明は藤木をぐいっと引き寄せる。ぽふっと藤木は国明に倒れこんだ。その時国明の肩ごしに光るものがあった。




「あれっ」




興味を引かれた藤木はパッと身を翻した。はずみで腕がはずれる。藤木はそのままキラッと月明かりを反射したものの方へ走りだした。




「藤っ」




慌てたような声がした。国明が追ってくる。藤木はなんだか鬼ごっご気分で楽しくなった。テニスプレーヤー、足だけは早いのだ。鎌倉人には負けていない。




藤木が駆けた先にあったのは、海神の祠だった。はじめて国明に会ったところだ。白木の祠の屋根に飾られたかねの飾りが月光を弾いていた。館の表の道を行くと結構な距離だったが、浜沿いならばすぐの場所だった。藤木は後ろから草をかきわけて来る国明に振り向いた。




「ねぇ、国明、ここって…」




最後まで言うことが出来なかった。くるりと視界が反転する。草の上に引き倒されたのだ。どさっと落とされた背中がジンジン痛んだ。冲天にぽかっと月が浮かんでいる。その光を遮るように国明が覆いかぶさってきた。




「藤っ」




熱にうかされたように国明は名前を呼んだ。せわしなく動く手が藤木の袴の紐を解く。あっという間に袴を引き抜かれ、すらっとした藤木の足が月明かりにさらされた。藤木は何が起こっているのか全く把握できていない。頭の中は真っ白だ。




「藤…藤…」




股間に熱い吐息がかかった。ぬるり、と足の付け根に湿った感触がくる。湯を使った後、藤木は忠興が特注した褌にはきかえていたのだが、その絹の褌に国明の手がかかった。あっさり横へずらされる。




えっ、なっ、なっ、何っ???




パニックをおこした藤木が固まっているうちに、ずらされて露になった藤木の大事なモノがやわやわともみこまれた。




えっえっえっ?




熱い湿った感触が敏感な部分に移動してきた。熱い濡れたものに包まれ藤木の体が跳ねる。その衝撃で藤木は肘をついて下を見た。自分の股間に国明が覆いかぶさっている。刺激でゆるく勃ちあがった藤木のモノに国明が舌を這わしていた。荒い息が下腹部にあたる。




「ぎゃーーーーーーっ」




ショックで藤木は足を思いきりばたつかせた。




「ぐっ」




踵が国明の頬を直撃する。国明がひるんだ隙に藤木はその下から抜け出した。




「なっ何すんだ、馬鹿ーーーーー」


「ふじ…っ」




藤木はそのまま館に向かって走り出した。




「藤っ」




国明の声が聞こえたが、藤木は必死で浜を走った。後には藤木の袴を握りしめたまま、呆然とする国明が取り残されていた。



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