第8話 朝比奈義秀
「おお、流石じゃわい。飲み込みが早うござりまするぞ~。」
いくつもの楽しげな笑い声に混じって浮き浮きとした声をあげているのは忠興だ。藤木は庭で忠興に弓を習っていた。
藤木がこの世界にやってきて十日あまりが過ぎていた。最初の数日こそ藤木も、神様然としていなくては、と意識していたが、元が明るい性格である。自由に館を歩き回ってはあれこれ皆にちょっかいをかける。そんな藤木に初めは恐れ戦いていた人々もすっかり馴染み、今や家人、郎党、下働きの者にいたるまで、皆のアイドル状態になっていた。御渡り様、御渡り様、とどこにいても藤木は大もてだ。
特に忠興は藤木にかまった。可愛くて可愛くてしかたがない、という風情で、やれ浜に連れていってやるだの、馬を教えてやるだの、やれ茶と菓子を御渡り様に届けろだのとかしましい。ただ、散歩と乗馬だけは国明が頑として譲らず、そのせいで庭での弓の稽古となったのである。
「なかなかの膂力、いやはや、こりゃ先が楽しみじゃ」
よい天気で、四月はじめとはいえ、動き回ると汗が出る。午前の太陽の下、藤木はジャージを脱いでテニスウェア姿になっていた。もちろん、白地に青の鮮やかな秀峰レギュラーの格好だ。幾人もの郎党達が、仕事や稽古をさぼって見物していた。
パスッ
小気味よい音をたてて矢が的にささる。藁でできた的は館の土壁の前に据えられていた。
「上手じゃ、上手じゃ」
郎党達がはやしたて、忠興は満面の笑みだった。
「御渡り様には、弓をあっという間に覚えられましたな」
弓矢を触るなど、藤木には初めての経験だった。忠興に誘われて庭に出たが、最初の数本は射るどころの話ではなく、やっと飛ばせるようになっても矢はあらぬ方向へ飛んでいった。それはそれで家人や郎党達の目には微笑ましく映ったようで数々の声援が藤木に送られていたが、もともと運動神経は並外れている藤木涼介だ。細く見えても部活で鍛えてそれなりに体もできている。あっという間に矢を的に当てられるようになった。
「忠興の教え方がいいんだよ」
にこっと藤木が忠興に振り向くと、この強面の武士は相好を崩した。
「なんじゃあ、忠興叔父殿、顔が弛んでおる~っ」
「ええぃ、喧しいわ。御渡り様の御前なるぞっ」
郎党達がはやすと忠興はことさらしかめっ面で怒鳴り散らした。それが面白くて郎党達はますます囃す。
「そりゃ叔父殿も同じじゃろうに~」
ぷっと藤木は吹き出した。初めはゴツくて恐い印象しかなかった鎌倉武士達は、案外素朴で可愛いところがたくさんある。この忠興も例にもれず、藤木は好感をもっていた。
その藤木はというと、郎党達の目にはどれほど神々しく映っているのか全く自覚がなかった。、スラリと伸びた手足を持ち、明るい髪の毛と白い肌の神様は、みたこともない鮮やかな白と青の衣、つまりテニスウェアを纏って自分達の前に降臨なされたのだ。しかもいつも優しく微笑んでくれる。誰もが畏れ多いながらも御渡り様に微笑みかけてもらいたいと願っていた。だから、忠興が藤木を庭に引っ張り出すのは大歓迎なのだ。
「じゃあ、もう一度やってみるよ。今度は的の真ん中」
藤木はコートでラケットを構えた時のように、弓で的を指し示した。どよっと郎党達がどよめく。
「御渡り様が宣言なされたぞーっ」
やんや、やんやと騒ぐ雰囲気がテニスの試合を思い出させて、藤木は楽しかった。心地よい緊張感に満たされて、弓の弦を引き絞った藤木はひょうっと矢を放つ。パスッと矢は違わず的の真ん中を射抜いた。
「お見事」
野太い声が響いた。大柄な逞しい男が庭先に立っている。年の頃は四十すぎの忠興と同じくらいか、辺りをはらう威容はひとかどの人物であることを示していた。
「いや、館の奥にましましておるかと思えば弓の稽古とは、たいした神様じゃ。板東武者の家に渡られただけのことはある」
黄みがかった灰色の直垂を身につけたいかにも剛直そうなその男は、数歩、藤木に歩み寄ると、恭しく平伏した。
「それがしは和田義盛が一子にて榎本国明が伯父、朝比奈義秀と申す。御渡り様にはお初に目通りかない、光栄至極に存じ上げる」
朝比奈義秀?和田義盛?
どっかで聞いた事ある名前だな、藤木は首をひねるが、なかなか思い出せない。まじまじと義秀を見つめる藤木の周りでは、忠興はじめ郎党達があわあわと狼狽していた。明らかに格上の人物が平伏しているのに、今の今まで、自分達は礼もとらず藤木の弓を囃していたのだ。
確かに御渡り様は畏れ多くも神様であらせられ、しかし皆に優しく微笑み、親しく言葉をかけてくれる大好きなお方で…
「伯父上、皆が困っておろう。藤木も平伏は嫌いだと念を押したではないか」
相変わらずお人が悪い、そう言ってやってきたのは当主国明だった。
「なんの国明、はじめてお目通り叶ったのだ。礼をつくして何が悪い」
「だからお人が悪いと申しておる。たいがいになされよ、伯父上」
パンッと膝を払って立ち上がった義秀に国明は嘆息した。それから藤木に苦笑する。
「こちら、義秀の伯父上は亡くなられた母の兄上でな、とは言っても母上は腹が違うゆえ和田には入らず那須縁りの家であったから表向き、三浦や和田との繋がりは父上のほうだけとなっている」
「……腹が違う?」
怪訝な顔をする藤木に義秀が豪快な声を響かせた。
「親父殿はおなごが好きでのう。あちこち子をこさえたはよいが、全て引き取るわけにもゆかず、国明の母は実家で育てられたのだ。まぁ、館が近かったせいで小さい頃はよう遊んだわ。その頃はまさかその妹が榎本に嫁ぐとは思っておらんかったがな。これも縁かのう」
懐かしそうに表情を和らげる義秀の前で藤木は数歩、引いた。
今、今、何かすごいこと、サラリといわなかったか…?
ついで藤木の脳みそは考える事を拒否した。
考えるな、ここは鎌倉時代だ、僕の時代の倫理観で考えちゃだめだ…
ああ、日本人がわからない、と頭を抱える藤木の横では、義秀が忠興をからかっていた。
「武骨ものの忠興が弛みきっておるというから来てみれば、なるほどなるほど」
「わっ儂がなんじゃと、妙なことを言い出すでないわっ」
「ほほぅ、忠興が照れておる」
「義秀殿っ」
「あーっ、思い出したっ」
突然、藤木が義秀を指差した。
「年末時代劇スペシャルの「義経」に出てきてたっ、和田義盛って、そーだよ、それだっ」
国明はじめ、全員がぽかんとするなか、藤木は感動で拳を握った。
「すごいっ、和田義盛の息子って本物なんだよね、ドラマじゃないもんね」
「藤木?どらまとは、おじじ様がどうかしたのか?」
藤木の言動に慣れきっている国明がまっ先に反応した。
「あ、えっとね、年末にテレビでこの時代のドラマ、やったんだよ。姉さんの好きな俳優が義経やるっていうんで、僕達も無理矢理見せられたんだけどさ、その時、和田義盛って出てきて、あ、そういえば息子が朝比奈って、ああ、そうか、そうなんだ」
「御渡り様っ、御渡り様には義経を諌めた親父殿の武勇を御存じであらせられましたかっ」
国明が口を開くより早く、朝比奈義秀ががばりっとその手を取った。目がきらきらと輝いている。
「義経が奴輩の増長を、侍別当であられた親父殿は一喝なされてな、あの時は鎌倉の御家人ども挙ってよう言うてくれた、それでこそ板東武者と胸のつかえを下ろしたとか、いや、いまだ宴の席で話がでるほどでな」
なんかこのシチュエーション、前にもあったぞ…
引きまくる藤木の様子にかまわず、義秀は更に熱を込めた。
「なにせあの当時は京の都で飛ぶ鳥を落とす勢いの義経じゃ、法王の覚えも目出度く、逆らう者などおらぬというに、親父殿は一歩もひかなんだ。土下座して礼をつくせという義経に親父殿は言うたそうな。この和田義盛が土下座するは鎌倉殿のみ、じゃとな」
いや愉快愉快、と両手で藤木の手を包んだまま笑う義秀に忠興が不満の声を上げた。
「もう何度も聞いて耳にタコができたわ。それよりなんじゃい、御渡り様の御手を握って不敬きわまりなしっ」
「そうでござりまするっ、だいたい、御渡り様には那須のおじじ様の話もよう御存じであらせられたのですぞっ」
いつのまに現れたのか、秀次も声をはりあげた。
「ええ、那須の小倅が、生意気言いよる」
「だからその手を放せというに」
「けちくさいぞ、忠興」
「なんじゃとぉっ」
三人が睨み合ったとき、間に挟まれていた藤木の体がふいっと浮いた。
「国明…」
藤木は国明の小脇に抱き込まれていた。見上げるとむっつりとした顔をしている。
「藤、義秀伯父が都から参った商人を連れてきた。来るといい。面白いものがあるやもしれぬ」
そして藤木の肩をしっかり抱いたまま、くるりと踵を返した。
「こりゃ待て、国明、商人を連れてきたのは儂であろうに」
大柄な体躯を揺らして国明の後を追う義秀に慌てて忠興と秀次も続いた。
「手を握るはまかりならんぞ、義秀殿ッ。聞いておるのかッ」
「そっ某も参りまするっ」
藤木は笑いをこらえるのに必死だった。何故かむくれ顔の国明もどことなく可愛いが、いい年をして張り合う義秀と忠興も微笑ましい。しかもいつもは実直を絵に描いたような秀次まで同じように張り合っている。
ドラマと全然違うな…
クスクス笑いを漏らしながら、国明と共に藤木は館の中へ入る。この後、名前だけ知っていた歴史上の人物のことを深く調べようとしなかったことを藤木は後悔するのだが、神ならぬ身の知る由もなかった。
都から来た商人というのは色白の小男で、青灰色の水干を身につけていた。館の一室で既に荷ほどきを終え、あれこれ並べているところに藤木達が入っていくと、卑屈なほどペタリと床に這いつくばる。
「よい、面をあげよ。おぬしがそうでは品物がわからぬ」
国明が声をかけやっと男は体を起こしたが、藤木を見てまた慌てて平伏した。
「この度は畏れ多くも御渡り様の御前にて某の選びましたる品々をお目におかけします光栄に拝し…」
「よいよい、使い慣れぬ言葉を操ると舌を噛むぞ」
もごもごと口が回らなくなってきた男に朝比奈義秀は助け舟をだした。藤木は立ったままきょとんと目の前の品物を眺めている。板の間には数々の塗物や反物が並べられていた。
「で、忠興、おぬしゃ御渡り様に何ぞ買うてやりたいと言うておったではないか」
義秀に水を向けられ、忠興がハタと膝を叩いた。どっかり品物の前に腰を据えると、嬉しそうな顔を藤木に向ける。
「そうじゃ、御渡り様の食事に使う椀をの、求めたいと思うておったのじゃ」
「え、僕、今のでいいよ」
目をぱちくりさせる藤木の前に都の商人がずずっと進みでた。細い目をさらに細めて品物自慢をはじめる。
「左様でござりましたか。なればよき品が揃っておりまする。こちらの塗り椀なぞ、金泥にて文様をかたどりました、なかなかの品かと存知まするが」
さすがは諸国を巡る商人である。商売の前には畏れ多さも吹き飛んで、ぺらぺらと口がまわりはじめた。
「こちらの青海波の椀なぞは、京で一番の蒔絵職人から買い取ったものでございましてな」
藤木が困ったように国明を見た。いくら道具類に縁のない高校生でも、並べられた品が高価なものだというくらいはわかるのだ。国明は戸口にもたれて立っていたが、助けを求めるような藤木の視線に苦笑を浮かべた。
「藤、叔父貴がそうしたいのだ。遠慮のう選ぶがよい」
「なんなら和田が買うてやってもよいぞ。国明、婚儀で銭がかかろう」
義秀の言葉に藤木がハッとする。国明はこれ以上ないほど渋い顔をした。だが、何か言う前に忠興のドラ声が響く。
「京の姫じゃろうが何じゃろうが、板東武者の家に嫁ぐのじゃ。支度なぞ質素が当然。じゃが御渡り様は榎本の神様じゃい。銭であれこれ言うでないわ」
ふいっと国明はもたれていた柱から体を離し、藤木の手を取った。そのまま品物の側まで引っ張っていく。
「藤の一番好きな物を選べ」
国明の目がやけに真摯な光を帯びていて藤木は戸惑った。国明の婚儀、と聞いた時にはズキリと疼いた胸の痛みが、嘘のように引いていく。握られた手にどぎまぎした。
「く…国明…」
「ならわしは反物を買うてやろうかのぅ」
義秀がバンバンと己の膝を叩いた。
「さぁ、お好きなのを言うてくだされよ、御渡り様」
義秀はすっかり藤木の事を気に入ったようだ。
「義秀様、御顔が弛んでござるよ」
秀次が呆れたように茶々を入れた。
都から来た商人はホクホク顔だった。好きなものを、と促されて藤木が指差したのは、品物の中でも特に高価なものだった。
「流石でござります」
商人は黒塗りに螺鈿細工の椀を取り上げ、とうとうとぶちあげる。
「かように色鮮やかにて大きな貝を使っておる品は他にはございますまい。文様の珍しさといい、御渡り様のお目の高さ、感服つかまつりまする」
そこではじめて藤木は慌てた。高級品だったのだ。どれがいいかと言われて見回して、その椀の模様に目がいった。
テニスボールみたい…
螺鈿の部分がテニスボールを思わせるその椀を、藤木は選んだ。
「これがいい」
ところが、それはこの品々の中で一番値のはる椀だったのだ。
「あのっ、国明、僕は別にそんな高いお椀いらないからっ」
パタパタと手を振り焦る藤木に国明は微笑んだ。
「藤がよいと思ったのだろう?ならばおれもそれがよい」
ひどく優しい目で藤木を見る。藤木の心臓がまた跳ねた。それを誤魔化すように俯いた藤木はぼそぼそと口を開いた。
「…それ…テニスボールみたい…って思ったんだ…」
「てにすぼおる?」
国明の言い方が可愛くて、藤木は俯いたままくすっと笑った。
「テニスボール、僕、テニス部だから…ほら、写真みせたでしょ、テニス部の仲間の…」
「佐見を思い出したのか…?」
えっ、と顔を上げた藤木は国明の傷付いたような表情にぶつかる。
なっ何?
戸惑う藤木からふいっと国明は目をそらすと、忠興に後はまかす、と言いおいてたちあがった。
怒らせた?
国明の態度に藤木は不安になる。何か、気に触るようなことを言っただろうか。国明はからかってきたりはするが、避けるように視線を外したことはない。
「国明っ」
呼び止める藤木の声に国明が振り向いた。
「国明…あの…」
声に不安が滲んだのだろう、国明の表情が和らいだ。戸口で立ち止まり微かに笑みをのぼらせる。
「藤、義秀伯父は気前がいいぞ。なんなりと買わせるがよかろう」
「おお、買うてやろうぞ、何なりと仰せられよ」
義秀は上機嫌だ。国明は藤木に頷いてみせると、部屋を出た。
国明…?
その背中に藤木は一抹の不安を感じる。それが何なのか、形が見えない。
「これなぞ、御渡り様にはよう映えましょうぞ」
「忠興、儂はこっちがよいと思うがな」
忠興と義秀がそれぞれ、反物を握って口論をはじめた。その騒ぎに藤木はハッと我に帰る。
「なんの、こっちじゃわい」
「ええい、忠興めが、どこに目がついておるやらっ」
「ならば勝負じゃあっ」
「おおよ、弓か、相撲かっ」
お互い頑固者らしく、一歩も譲らない。四十男がわぁわぁと大騒ぎだ。秀次が額を押さえた。
「お二人、大人げのうござりまする…」
藤木は盛大に吹き出した。笑い転げているうちに、藤木はいつしか国明に感じた不安を忘れていた。
昼食にはさっそく「テニスボール」の塗椀セットが出てきた。汁椀に口をつけてみて、漆器の類いに縁のない藤木にもえらくこれが高級品なのだということが理解できた。手にしっくり馴染み、触り心地もいい。そして中身は…
素材の味100%…だよねぇ…
貝の煮びたしを咀嚼しながら藤木は涙した。
別にマズいわけではない。新鮮な食材を丁寧に料理してくれている。藤木は神様だから、他の皆が食べているものからすると、これはきっとものすごく贅沢な膳なのだ。ここへ来てすでに十日あまり、日々の膳から、気を使って工夫して料理されているのもわかる。しかし、しかし…
カレ-が食べたい、激辛のカレー…
藤木は根菜の煮付けをかじった。
ラ-メン食べたい、カップ麺でいいからラーメン…
焼き魚をほぐして口に入れる。
キムチ食べたい、
ボテチ食べたい、
コ-ラ飲みたい、
パン食べたい、
食パンでいいからパンにバター、
スパゲティのトウガラシ入ったヤツ、
ピザにタバスコかけて…
贅沢は言わないッ、ピザソース、舐めるだけでもいい~~~っ。
現代っ子藤木の味覚が刺激を求めて悲鳴を上げていた。
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