第7話 お風呂パニック
藤木は内心、ほっとしていた。いつもの国明だ。桜の散る中で自分を見つめた国明ではない。
何で…
藤木は戸惑う。強い瞳だった。黒い炎のような眼だった。だが、その瞳の意味するものを藤木はあえて考えないようにした。何故かわからないが、その意味に行き当たるのが恐かった。
「どうだ、藤」
国明の声にはっとする。少し考えに沈んでいたらしい。
「え?何?」
国明にかわって忠興が恭しく答えた。
「御渡り様が我ら榎本にお渡りくだされました時より、我ら一同、身を浄めておつかえ申し上げねばと寺へ使いを出しておったのですが、先ほど、寺より使いが戻りまして、是非とも御渡り様に湯を奉りたいと申しておりまする」
「?」
藤木は目をぱちくりさせた。言葉が足りないと思ったのか、秀次が説明をはじめた。
「御使い様のお側に控え申し上げるのでござりますから、穢れを落とさねばなりませぬ。ゆえに寺へ使いをだしておったのですが、寺のほうでも御渡り様より功徳をいただきたいと、それはもう強く願い申し上げあげておる由、今晩湯屋を整え御用意もうしあげるとのことでござります」
「…?」
ますますわからない。国明が吹き出すのを堪えるような顔をした。
「風呂だ、藤」
「…え」
「だから、風呂だ。知らんのか」
「え…ええぇ~っ」
藤木は国明に飛びつかんばかりの勢いで迫った。
「風呂って風呂、お風呂あるの?お風呂っ」
「あ…あるぞ、風呂であろう?」
藤木の目が感動で煌めいた。
「お風呂…」
く~っ、と両手を握りしめる。
「お風呂に入れる…」
食事でもトイレでも散々な目にあった。三日目にしてだいぶ慣れたが、実は皆結構「体臭」が強い。だが正直、藤木はもう、何も期待していなかったのだ。
海で体洗っているんだと思ってた…
よかった、よかった、これで春の海で体を洗うなんて辛い思いをせずにすむ、と一人感慨にふけっていたが、ハタとパンツの問題に行き当たった。
目の前の忠興や秀次は藤木が喜んでいるのをみて純粋に嬉しいのだろう、ニコニコしている。ちら、と上目遣いに国明をうかがうと、なにやら楽しそうな目でこっちを見ていた。
また面白がっているな。
いちいちカンに触るヤツだ、と向かっ腹がたつが、相談しないわけにはいかない。パンツも三日目になると、もう限界だ。
「…ねぇ、国明…」
もごもごと藤木は名前を呼んだ。ん?と国明が首をかしげる。
「あの…その…パンツ…ある…わけないよね…」
男同士なのだし、そう恥ずかしがることでもないと自分に言い聞かせてみるのだが、どうも国明相手だと言いづらい。
佐見にそっくりなのがいけないんだよ…
内心、ため息をついていると、国明が怪訝な顔で聞き返してきた。
「ぱんつ、とは何だ」
やっぱり…
予想はしていたが、それでも藤木はがっくり肩を落とす。
「だから…下着のことだよ」
「下履きなら、これであろう」
国明は直垂の下の袴を引っ張ってみせた。
いや、袴のことじゃなくて…
こうなったら、わかるように説明するしかない。
「袴の下に君たちも何か佩いてるでしょう?その、だから、パンツって…」
「殿、袴の下といえば、ふんどしのことではござりませぬか?」
秀次がはっと閃いた、とばかりに注進する。
「あ、そうかも、っていうか、ふんどしじゃないんだけど、そういう下にはくヤツ…」
話が通じたとほっとする藤木の前で忠興がぽんっと手を打った。
「おお、御渡り様にはふんどしを御所望であらせられましたか」
「なんだ、ふんどしか」
「やはりふんどしでござりましょう?」
「いかにも、ふんどし」
ふんどし、ふんどし、と連呼しないで欲しい…
便所の時といい今といい、なんでこう、この人達ってデリカシーというかなんというか、繊細さに欠けるんだろう、藤木は頭を抱えた。
繊細な鎌倉武士というのもそれはそれで大問題なのだが、藤木は多感な高校生だ。無理もなかった。そんな藤木の内面にはとんと気付かず、国明はあっけらかんと言い放つ。
「藤のふんどしと形が違うのであろうな。秀次、見せてやれ」
秀次がははっと畏まって袴のヒモに手をかけるので、藤木は慌てた。
「いいっ、秀次っ、見せなくていいっ」
「なんだ、遠慮はいらぬぞ。秀次が嫌ならおれの…」
「だから脱ぐなってっ」
「では藤のふんどしを見せてみろ」
ひょい、と国明が藤木のジャージを引っ張った。
「ぎゃーーーーっ」
「「殿っ」」
ばちーん、と高らかな音が響き、国明の頬にくっきり藤木の手形がついた。
明々と松明がたかれ、玄関には飾り立てた輿がすえられている。藤木はその場で呆気にとられていた。良く見ると、国明以下、郎党達すべて衣服を改めている。口を開くものはなく、聞こえるのは厩より引かれてきた馬達のしわぶきだけだ。
何?この厳かな雰囲気って…
上がり口に突っ立っていると、国明が恭しい態度で藤木の側に来た。黙って手をとり、輿へと導く。雰囲気に飲まれて、藤木は小声で囁いた。
「ねぇ、僕、これに乗るわけ?」
「おれに抱いていって欲しいか?」
やはり小声で、しかしとんでもない事を言い出す国明を藤木は睨むと、むっとしたまま輿に這い登った。国明が打って変わった厳粛な態度で輿の入り口の垂れ布をおろす。見事な錦の織物だ。良く見ると、木の部分も細工がしてあり、中の敷物も真綿入りの絹だった。
鎌倉時代の乗り物って豪華。
藤木はその時あまり考えなかった。もっとも、普通輿にのるのは身分の高い女だとか、榎本の館にはそんな女性はいないのにとか、高校生の考え及ぶところではない。
藤木が乗り込むと、ぐらりと揺れて輿が動きだした。
「うわっ」
よろめく体を支えながら垂れ布の隙間から覗くと、屈強な郎党数人が輿を担いでいる。輿の周りも松明を掲げた郎党達が取り囲むように歩いていた。国明や忠興は馬で先を行っているらしい。
それにしても、たかが風呂にこの仰々しさは何なのだ。家人や郎党達全員が出てきたような人数にも驚くが、その人々がだれも口を聞かず黙々と歩いているのだ。
まぁ、お風呂に入れるからいいか。
藤木は考えることをやめた。災厄は降り掛かるときには降り掛かるのだ。しかもそれは藤木の想像を絶するものばかりで、当然避ける術などない。
何かあったらその時考えよう。
三日間過ごして得た教訓だった。
寺についたのか、輿が大きく揺れて地面に降ろされた。乗り心地は最悪で、まだ国明に抱かれて馬に揺られた方がましな気がする。ふいに垂れ布があげられ、国明が手をさし伸ばしてきた。
「藤、立てるか?」
囁くようにいう。この男にしては殊勝な態度だな、と首を捻りながらも藤木は国明に助けられながら外へ出た。
「わっ」
目の前には寺の坊さんと小憎さんらしき幾人かの坊主頭が平伏していた。
「御渡り様にはかような所へ御身御渡りを賜り、拙僧、喜びにたえませぬ」
びっくりして固まった藤木にやはり平伏した国明が言上した。
「御渡り様、お言葉を賜りとう存じます」
「え?あ?あの…」
国明がちらっと顔をあげて、何か言え、と合図をよこした。藤木は困った。
何か言えといわれても…
「あの…今日はありがと。お風呂、入らせてくれるんだよね」
ははははーっ、と坊さんは感動に打ち震えた。どうも、神も仏も一緒らしい。仏の化身に目通りかなって、寺の者達は皆一様に感極まっている。
「御坊、御渡り様を湯屋へ」
国明が声をかけ、住職みずからが先導し、藤木の後をぞろぞろ小僧さん達がついてくる。そう大きい寺ではない。湯屋とおぼしき建物の入り口までくると、小僧の一人が木の戸を開け、他の小僧が白い浴衣を捧げる。国明が立ち止まったので、藤木は慌てた。
「国明?」
「御用のむきはその者達にお申し付けくだされ。着替えは湯屋の中にて…」
「国明っ」
冗談じゃない、藤木は焦った。湯屋だと言われた部屋は暗く、素焼きの皿のようなものに灯った明かりが一つあるだけだ。こんな暗くて狭いところに、知らない人間と押し込められてはたまらない。
こうなったら、オレ様藤木は神様だ、どんな無体も通るはず。
「国明がきて」
「いや…しかし…某は…」
何が「それがし」だ。普段は「おれ・おれ」と馴れ馴れしくからかってくるくせに。
んっとに外面のいいヤツ。だったら見てろ。
藤木はわざと尊大な態度になった。
「着替えは国明がやってよ。部屋にはいるのも国明だけ。わかった、くーにーあーきっ」
国明がぐっと詰まったのがわかった。
「…おれ…か?」
「それがし、じゃないんだ」
国明がしかめっ面をした。それは藤木が佐見にふざけかかった時の顔によく似ていて、胸がチリっと痛んだ。
「殿、御渡り様のお望みどおりになされますよう」
一瞬、国明は躊躇って、それから白い浴衣を小僧の手から受け取った。
「知らぬぞ、どうなっても」
「何が?」
耳元でぼそりと呟かれた言葉に藤木はきょとんとした。国明は一つ、ため息をつくと藤木の手をとり、中へ入る。住職が木の戸をガラガラと閉めた。
そこは三畳ほどの板張りの部屋で、窓も何もない。明かりは皿に油を入れて芯に火をともしたひょうそく一つで、ほとんどが闇に沈んで見えなかった。どうもこの暗さには慣れることができない。
「…国明」
不安げな声だったのだろう。ふっと国明の微笑む気配がして、温かい手が頬に触れた。
「お主は暗さに慣れぬのであったな」
そっと抱き寄せられると国明の匂いがした。藤木はほっと力を抜く。
「大丈夫だ、藤」
耳元に国明は囁いた。それから体を離し、悪戯っぽく言う。
「風呂に入りたいのであろう?」
「あっ、そうだった」
この物々しさにすっかり忘れていた。自分は風呂に入りにきたのだ。風呂が何故寺にあるのかよくわからなかったが、別に深く考えることでもなさそうだ。
「ね、お風呂、どこ?」
「そこだ」
国明が指差す先は、暗くて見えないが、もう一つ部屋があるようだった。温かい湯気が洩れてきている。嬉しくなって藤木はいそいそと服を脱ぎはじめた。
国明がいるが、暗いのであまり気にならない。国明は藤木が脱いだ服を、いくつか塗り盆の上に乗せていた。さすがにパンツには触らせたくなくて、自分で盆の上に置く。藤木は全裸になった。そこへふわっと浴衣が肩にかけられた。
「え?なんで?お風呂はいるんでしょ?」
「だからこれを着るのではないか」
へ?と間抜けな声をあげた藤木に国明はしっかり浴衣を着せ、ぼそっと言った。
「そうポンポン思いきりよく脱ぐな。丸見えではないか」
付き添いがおれでよかった、とブツブツ言うのに、藤木はぎょっとした。
「みっ見えるの、国明っ」
「明かりがあるのだ。見えるに決まっておる」
鎌倉人の視力って…いやそれより、僕、すっぽんぽんで国明の前に…
「ぎゃーっ」
藤木は浴衣の前を押さえると大慌てで風呂だと指差された戸を開けた。一段高い所にある木の引き戸は人一人が腰をかがめて入れるくらいの大きさで、いわば茶室のにじり口のような感じだ。あたふたと中へ入ると、天井は高く体をおこすことが出来た。むっと湿った熱気がこもっている。
「ゆっくり入るといい。おれはここにいる」
そう言って国明は戸を閉めた。とたんに真っ暗だ。明かりがない。藤木は仰天した。あちこちに手を伸ばすと、すぐ板壁にあたる。狭い部屋なのだ。手探りするが、湯舟らしきものはない。狭くて、ただ蒸し暑いだけだ。しかも真っ暗、外からの音もしない。
「くっ国明…」
藤木はごくりと喉を鳴らした。息が詰まりそうだ。
「国明…」
返事がない。いると言ったのに。
「国明」
藤木は引き戸と思われるところに手をかけた。開かない。
「国明」
がたがたと引き戸をひっぱりながら、藤木はパニックになりかけた。
「国明っ」
がらり、と戸が開いた。国明が顔をだす。暗くてよく見えないが国明だ。転がるように藤木は外へ出た。蒸し暑さと緊張で汗びっしょりだ。国明にしがみつく。
「どうした、藤木」
「お風呂はっ?」
噛み付くように尋ねると国明は不思議そうに答えた。
「今、入ったではないか」
「お風呂って…お風呂って…」
国明の直垂を掴む手がぶるぶる震える。
「お風呂ってもしかしてあれーーーっ?」
「風呂とはあれだろう?」
さも当然といった風の国明に、今度こそ藤木は全身の力が抜けていくのを感じていた。
藤木は寺の一室で茶のもてなしを受けている。といっても、国明以外の者にとって藤木は「神の使い」であるから、扱いは「神仏」だ。特別に設えられた座に藤木は一人鎮座ましましていた。目の前の抹茶をぐびっと飲む。舌に広がる苦味も喉が乾いていれば旨いものだ。はぁ~っと藤木はため息をついた。風呂といわれて舞い上がっただけに落胆は大きかった。風呂がまさかサウナとは。しかも狭い、暗い、息苦しいと三拍子揃っていた。
鎌倉時代、マジ舐めてた
もとの時代に帰ったらちゃんと日本史の勉強をしよう、いや、その前に館へ帰ったら「教育委員会監修 郷土の歴史と文化」を熟読しなければ、
決意も新たに藤木は抹茶を飲み干し、目を外に向ける。暗がりを嫌がる藤木のために部屋の中には多めにひょうそくが置いてあり、庭には松明がたいてあった。辺りはシンとしていた。今、国明以下、榎本の郎党家人にいたるまで、風呂を使っているはずだ。それなのにこの静けさはどうだろう。人の話声どころか、足音すら聞こえない。ただ、松を渡る風の音と、松明のはぜる音ばかりが耳につく。
お風呂って、特別なのかなぁ…
藤木は寺へ向かう行列の雰囲気を思い出していた。そう言えば、館を出る時から誰もしゃべらず、妙に重々しい空気が漂っていたような気がする。国明ですら声を顰めて慇懃だった。
ふと、真っ暗なサウナから飛び出して国明にしがみついた時の事を思い出し、藤木は顔を赤らめた。むっとこもる熱気のせいでいつもよりきつい国明の匂いに、藤木はどぎまぎしてしまった。
他の人間のものならば、汗臭いとか体臭がきついとか、そう思うはずなのに、国明の匂いだけは嫌じゃない。この匂いに包まれるとき、佐見と同じ顔で同じ声をしていても、国明はやはり違う人間なのだと強く思い知る。そして藤木が不安や恐怖を感じた時にはいつもこの匂いがそれらを払ってくれるのだ。
同時に耳元に囁かれる言葉、「大丈夫だ、藤」と低く囁かれる言葉…
藤木はぶんぶんと頭を振った。
これじゃまるで国明のことを好きになっているみたいだ。
違う、と藤木は己に言い聞かせた。
国明は佐見じゃない。同じ顔をしていても佐見じゃない。こんな時代に飛ばされて気弱になっているから、佐見にそっくりな国明に心がざわめくのだ。佐見そっくりの顔で優しくするから、力強く抱きしめてくるから、あんな目で見つめてくるから…
「なにを百面相しておる」
「うわっ」
目の前に国明が立っていた。
「なっ何、君、いつの間にっ」
「呼べどいらえなきゆえ心配したではないか。のぼせたのかと思ったぞ」
ずかずかと部屋へ入ってきた国明は、碗を差し出した。
「水だ。茶では足りぬと思ってな」
他の者達が来る前に飲んでしまえ、と国明は笑った。確かに、忠興あたりがいたら、茶か酒にしろとうるさそうだ。藤木は碗を受け取ると一気に飲んだ。存外、喉が乾いていたらしい。藤木はほっと息をつく。
「ねぇ、皆は?」
「順に風呂を使っておる。じきに忠興叔父と秀次が参ろう」
「ふーん…」
相変わらず辺りは静まりかえっている。松明がばちっとはぜて火の粉を飛ばした。しんとした闇、ゆらゆらとひょうそくの灯りが揺れると闇も揺れる。かさっと直垂の擦れる音がして、国明が身じろいだ。ゆっくりと国明の手が伸びてくる。藤木の髪に触れた。じっと藤木を見つめてくる。
国明の瞳、黒く燃えるような瞳…
国明の大きな手が髪を梳く。ぼんやりとしたまま見つめ返していた藤木は、うっとりと目を細めた。
国明の手は温かい…
「藤」
国明が低く藤木の名を呼ぶ。安心できる国明の声。
「藤…」
国明の手が頬を撫でる。そのまますっと唇に触れた。灯りの炎が国明の瞳に写っている。黒い炎が宿っている。国明は指で藤木の唇をなぞった。
「くにあ…き…?」
炎に引き込まれそうな目眩を感じて、藤木は怯えた。国明は名を呼ぶ唇を指でたどる。
「くにあ…」
「殿ーっ、殿ーっ」
「いずれへおわしますやーっ」
響いてくる声に藤木はハッと我に帰った。国明がさっと身を引く。
「殿っ。」
だみ声は忠興だった。続いて秀次が姿を現す。
「また殿のこれへあるやっ。御渡り様への邪魔がすぎましょうぞっ」
「いつもながらお主ら、まっこと不粋よ」
国明は藤木の手前に座ったままむすっとしている。
「なにが不粋じゃ、殿っ。風呂は御仏に仕うる大事の行ぞ。皆が風呂の行をおこのうておるに、長がおらんでどうする」
「お探し申せば案の定、御渡り様の側におるっ。ここは寺じゃ。館におる時のようなされては困るとあれほど申し上げましたにっ」
「殿っ、聞いておるのかッ」
「ああ、聞いておる聞いておる。お主らの声は格別耳によく通る」
しれっと答える国明に二人が切れかけた時、衣擦れの音がして小僧をともない住職が廊下を渡ってきた。
「おお、殿にはこちらにおわしましたか」
部屋の前で住職は平伏した。国明を咎めようと躍起になっていた忠興と秀次もハタときづいて藤木に平伏する。住職が恭しく言上した。
「館の方々の風呂はまだ時がかかりますゆえ、ささやかながら膳を用意させてござります。御渡り様には何とぞ御寛ぎくだされますよう」
あ、ご飯か。
もともと藤木はカンがいい。三日目ともなるとまわりくどい敬語を使われても何を言わんとするのかわかるようになってきていた。
「ねぇ、皆で食べない?僕ひとりじゃつまらないし、忠興や秀次…住職さんも一緒に食べようよ」
一人だけ食べるのをじっと見られるのはどうにも慣れない。恐縮する住職達を押しきり、藤木は膳を運ばせた。もぐもぐと精進料理を口に運びながら藤木は風呂のことを聞いた。どうやらこの時代の風呂とは、修行の一環らしい。風呂でおしゃべりするなど、もってのほかなのだ。
ど~りで、皆、雰囲気重いはずだよ~
箸をもったまま、は~っと藤木は脱力していた。
「僕らの時代のお風呂ってね、たっぷりのお湯に入って、ボディソープとかシャンプーで洗ってね、だから…その、修行じゃないんだ」
ぼでぃそおぷ?と目をぱちくりさせる忠興達に藤木は苦笑する。と、国明が突然聞いてきた。
「藤は…」
えほん、と秀次と忠興が咳払いする。顔を顰め、国明は言い換えた。
「御渡り様には、お湯の中にはいることを所望でござりましたか」
「え~、そうだけど、いいよ、ないんだし」
「湯ならばいくらでも沸かせますぞ」
なぁ、御坊、と国明が問いかけると、住職が箸を置いて平伏した。
「風呂に使う石を焼いておりますれば、湯を沸かすのは造作もないことかと」
藤木はきょとんとした。
石を焼く?
国明がさりげなく言った。
「我らは火で石を焼き、風呂の下にすえて水をかけ、湯屋を蒸しまする。なれば御渡り様お一人が入る湯を沸かすのも容易いことかと存じ上げます」
藤木の目が輝いた。
「ほんと?ホント国明。お湯に入れる?」
期待してはいけない、今まで嫌というほど学んだにも関わらず、胸が踊るのをどうしようもなかった。実際、湯屋で蒸された汗がベタついて気持ち悪かったのだ。
「しかしながら殿…」
おそるおそる、といった体で住職が割って入った。
「御渡り様がお入りになれるほどの大きな桶がありませぬ」
「あ、いいよ。お湯で体、拭けるんだったらそれでいいから」
本当にそれだけでいい、藤木はそう思った。この際、期待もしないし贅沢もいわない。その時、国明がぽんと膝を打った。
「あるではないか、御坊、人ひとり、充分入る桶が」
皆が怪訝な顔で国明を見る。国明は至極真面目に頷いた。
「せんだって三の辻の婆様が葬式の途中で息を吹き返したであろう?その時の棺桶が使わぬまま寺に置いてあるではないか。あれならば御渡り様が充分入れる大きさ…」
「「「とっのーーーーーーーっ」」」
三人分の飯粒が景気よく飛び散った。
結局、部屋に湯を張った盥を持ってきてもらい、腰まで入ることができた。もちろん全員外へ追い出した。誰か供のものを、と住職や忠興が主張したが、珍しく国明が強く却下した。
誰もいないので当然裸で藤木は腰湯を使う。温かい湯に入り一息つくと、どっと疲れが押し寄せた。
疲れた…
藤木はこの三日間を思い返した。本当にとんでもなかった。とんでもない目にあってばかりだ。もし国明に拾われていなかったらどうなっていただろう。
ふと、人の気配がした。戸口は開け放したままで、布を垂らした衝立を置いている。気配はその衝立の前で止まった。腰をおろしたようだ。
「国明…」
「うむ?」
やはり国明だ。部屋を出ていけといわれて、律儀に廊下に控えているのが可笑しかった。
いつもはオレ様のくせに。
藤木がくすくす笑っていると、むすっとした声が返ってきた。
「なんだ、何を笑っている。」
「ううん、ただね、ただ…」
ありがとね。
小さく藤木は言った。国明の気配が和らぐ。
「いきなりどうした」
「うん、ちょっとお礼言ってみたかっただけ」
「なんだ、またふんどしを締めてほしいのかと思ったぞ」
「ばっばっかじゃないのっ」
目の前にいたら、お湯を引っ掛ける所だ。人がちょっと殊勝になってみたらすぐ調子づく。暗がりとはいえ、湯屋でふんどしの締めかたを教わりつつ国明にやってもらったのは顔から火が出るほど恥ずかしかった。くっくっと国明の笑い声が聞こえた。
「案ずるな。湯屋は暗かったであろう。藤の裸は見ておらぬ」
「…嘘ばっか」
見えてたくせ、とふて腐れると、国明がいっそう笑った。
藤木は思う。こうやって茶化してくるのも案外国明の思いやりかもしれない。
遠くに人のざわめきが聞こえてきた。皆、風呂をすませたのだ。藤木はちゃぷりと水音をさせて盥から出た。
「もうよいのか?」
藤木が布で体を拭いていると、国明が声をかけてきた。
「うん、さっぱりした。ありがと、国明」
「…うむ」
どこか照れた響きに藤木は胸が温かくなる。
「あのね、国明…」
「うむ?」
「…あのね、拾ってくれてありがと」
一瞬、国明が息をのんだようだった。それから小さいため息が聞こえる。
「藤…」
「なに?」
藤木がきょとんと答えると、国明はぽつっと小さく呟いた。
「藤はおれに拾われていろ」
ずっとだ、と無愛想な声が続く。
「何それ、変なの」
藤木はくすくす笑った。がやがやと人のざわめきが近付いてくる。辺りが急に賑やかになってきた。馬の嘶き、犬の吠え声、足音に混じって忠興のだみ声が響いている。藤木は急いでジャージを身につけ、衝立の外へ出た。国明がいる。
「帰ろうよ、国明」
藤木はにこっと笑って手を伸ばす。握り返された国明の手は温かかった。
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