第5話 神器スマホ

庭には明々と松明がたかれ、広間にも煌々と灯りがともされていた。

藤木は上座の一段高くなった畳の上に座らされていた。目の前には塗りの膳がいくつもならべてある。注連縄のまかれた白い大きなとっくりみたいなものまで並んでいた。


ジュース…なわけないか…


ずらりと下座に居並ぶ強面達の顔を眺めて、藤木は嘆息した。彼らの前の膳は、塗ではなく木目のみえるものだ。

国明は藤木の畳の少し下がった左脇に控えるように座っていた。いつになく見事な衣装を身につけている。


えっと、武士の正装、とかいって本にあったよね…


藤木は昼間よんだ『郷土と歴史と文化』の挿し絵を思い出していた。普段着の直垂と違って平安時代の男のような格好だ。


本当に、本に描いてある通りだよ…


藤木はまじまじと国明を眺めた。脚まですっぽりおおうような袴は歩きにくそうだ。黒っぽい地色に銀糸の刺繍がほどこしてある衣装は国明によく似合っていた。


こっちのほうがよっぽど神様っぽい服じゃない?


ジャ-ジ姿の藤木はそう思う。実は夕方、せっかく着た直垂を脱ぎながら藤木はちょっともったいないな、と思っていたのだ。

神様ならばこの時代劇みたいな衣装の方がよほど神様っぽいのに、国明はジャージを着ろという。金糸の刺繍が気に入っていた藤木は脱ぐのが残念だった。


まあ、この時代にはないからね、ジャージなんて。


レギュラージャージの下は秀峰高等部の白地に襟と袖が明るい青のテニスウェアだ。乾きやすい素材でよかったと今更ながら藤木はスポーツウェアの性能の良さに感心している。しかし…


パンツ、どうしよう…


昨日からはいているので流石に今夜は着替えたい。なんだか厳粛な宴らしい今、考えることではないのだが、切実な問題である。だが、この時代にパンツがあるはずもなく。


もしかしてふんどし?でも僕、ふんどしなんて締めたことないし…


ちらっと国明を横目でうかがった。流石にこればかりは国明を頼るわけにはいかない。男同士ではあるが、すっぽんぽんのところに国明にふんどしを締めてもらうなんてとてもできない。しかも、国明は恋しい佐見と同じ顔なのだ。


性格は結構違うみたいだけどね。


今朝、寝ぼけた自分を抱きしめたまま楽しげにからかってきた国明の顔がふと浮かんだ。どきん、と心臓が跳ねる。


む…むかつくんだから…


赤くなりそうな頬を一叩きすると、国明が怪訝な顔で藤木を見た。


あれ、そういえば…


さっき国明は『おれの婚礼』とかいっていなかったか。


国明って、結婚…するのかな…


今が鎌倉時代ならば、国明の年で結婚しないほうがおかしいだろう。むしろ遅すぎるかもしれない。


国明が結婚…


胸の奥がずきっと痛んだ。そのことに藤木は戸惑う。ちらっとまた、国明の顔を見た。佐見と同じ顔だけれど佐見ではない男。なんだかもやもやしてくる。


佐見じゃないし…別に佐見が結婚するわけじゃないんだから…


広間へ消えた国明の背中を思い出して、藤木は何故だか泣きたい気分になってきた。どうも、この時代に来てからの自分は涙もろくなっていていけないと思う。唇を噛みしめて俯いた時、騒々しい物音と大声が聞こえてきた。


「国忠殿はいずれへおわす。国忠殿」


どかどかと男が広間へ入ってきた。年の頃は忠興叔父と同じくらいだろうか、ただひょろりと痩せて、細面に細い目が小狡そうに光っている。藤木が見ても上物とわかる派手な直垂を身につけたその男の後ろには、やはりそれなりに身なりの好い男達が数人、付き従っていた。男はじろりと辺りを聘睨し、それから上座の藤木をじろじろ眺めた。


なっなんだ、コイツ。


不躾な視線に藤木は向かっ腹が立ってくる。男はふん、と鼻をならすと、座についている榎本の人々をかきわけ、当然のように上座へきた。そして国明の向いにどかりと座った。


なになになにーっ、何だよ、こいつはっ。


あまりに図々しい男の態度に呆れた藤木が国明を見ると、驚いたことに国明は両拳を床について一礼している。


「これは胤義殿。本家三浦がわざわざ我らが内輪の宴におこし下さるとは、いたみいります」

「おお、国明。久しいの。息災にしておったか」


胤義とよばれた男は、どうやら榎本の本家筋らしい。わざと国明を見下したような言い方に藤木はカチンときた。


「ときに、国忠殿はいかがした。国明、そこは国忠殿の席ではないか」

「父上は病床に臥せっております故、今はそれがしがつとめおります」


威圧的な胤義に国明は顔色一つ変えない。えほんえほん、と下座より咳払いが聞こえた。忠興だ。胤義は不快そうに眉を顰めると、今度は藤木に目を移した。品定めするような目つきだ。


げ~っ


藤木は逃げ出したくなった。オヤジに見つめられる趣味はない。

ほうっとため息のようなものが聞こえ、藤木は鳥肌がたった。


「これはまた、美しいのぅ」


ぎゃ~~~~っ


心の中で悲鳴をあげる。だが、広間に入る前、何があっても黙って座っていてくれ、と国明に頼まれているのだ。当の国明はじっと黙って表情が読めない。


「これがかの神の御使いか。確かに、人外の美しさじゃわい」


人外はオノレじゃ、ぼけぇぇっ


心で罵り、藤木はひたすら目をそらした。この世界にきてから、むさくるしい野郎の熱い視線に晒されてばっかりだ。たとえそれが信仰からくるものでも、ムサいものはムサい。しかし、この胤義の視線は何だ。体全体を舐るように眺めてくる。嫌悪が背筋を這い登り、藤木は眉間に皺を寄せた。


「よきものを手に入れた。でかしたぞ、国明。我が三浦の運もこれで盛りかえすであろう。いつまでも北条ごとき新参者に大きな顔はさせぬわ」


どれめでたい、酒じゃ酒、と胤義は大声をあげる。藤木はムッとした。


手に入れるって何だよ、人をモノみたいに。


その時、国明の声が凛と響いた。


「暫しお待ちくださいますよう。胤義殿。祝いの儀式が始まっておりませぬ故」


国明はまっすぐ胤義を見た。言葉は丁寧だが、射るような眼差しだ。


「そもそも、我ら榎本は水軍にて、海神を祭り日々信心いたしおるに、今月雛の節句の折り、東の空に瑞兆あり。何事やあらんと神事を行えば、吉日を選び神の御使い様が我が榎本に渡られるとの神託を拝す。さても三月二十九日、明け方の空に白き星輝き、海神の祠に向かいて流れたり。吉日とは今日なり、御使い様の渡られたるや、と身を浄め衣服を改め、飾り立てたる馬を引きて祠へ参じるに、御使い様のおわしましたり」


うっわ~~、ウソつき


藤木は呆れた。


身を浄めって、君、汗臭かったじゃない、だいたい、飾り立てた馬を引いてって、乗ってきたでしょ乗って、しかもフツーの馬に。


国明は涼しい顔をしている。


「御使い様の御姿、四方に光を放ち、花の香り漂いたり。ありがたきかな、祠の御前にて御使い様より祝ぎ言葉あり。『これより我を御渡りの神として祭れ。さすれば榎本に大いなる幸もたらさん。』そう仰せられしゆえ、我ら御使い様を御渡り様と呼び申し上げ、ここに榎本一族あげて祝いの席を設けたり。ありがたきかな」


国明は上座の藤木に向かって深々と平伏した。それにならって一族郎党、みな平伏する。三浦胤義に付き従ってきた男達も慌てて平伏した。当の胤義は青くなってわなわなと震えている。


そりゃそうだよね…


藤木はくすっと笑みをもらした。


神様は榎本のものでアンタ関係ないって言われたんだもんね。


くすくす笑いを噛み殺しながら、藤木は胤義に言った。


「ね、君はお辞儀しないの?」


後輩へ対するように藤木はにっこり笑った。神様でいるときには、テニス部の藤木先輩で行こうと決めている。案の定、藤木先輩の微笑みは効果絶大で、胤義はあたふたと平伏した。そこへ国明の鋭い声が飛んだ。


「秀次っ」


からり、と奥の襖が開き、秀次が男を支えて現れた。まるで神官のような白っぽい直衣を身につけたその男は病持ちらしく、一人で歩くことが出来ないようだ。秀次に支えられてゆっくりと進みでてきた。


「御渡り様」


国明が平伏したまま藤木に言上した。


「これなるは我が父にして榎本水軍の長、榎本国忠にござります」


国明のお父さん…


まじまじと藤木は男を見つめた。年のわりに老いて見えるのは病のせいだろう。何度も顔をあわせた佐見の父親とはあまりに違う。


佐見のお父さん、洒落た都会のナイスミドルって感じだけど…


そこまで考えた藤木ははっとした。


国明は佐見じゃないのに…


いつの間にか二人を重ねていたことに愕然とする。


「御渡り様…」


絞り出すような声で藤木は我にかえった。白木の三方に大きな白い陶器の盃がのせられている。すでに秀次は後ろに控え、国忠が正面に平伏していた。国明が膝で進み国忠の腕をささえて、例の注連縄をはった大徳利を持たせていた。何やら白い液体が盃に注がれる。


もしかして…もしかしなくてもこれは…


嫌な予感に藤木は国明を見た。神様が飲むものといったら酒と相場が決まっている。


「御渡り様に奉り候」


国忠が三方を捧げ持ち、国明がそれに手を添えている。


僕、未成年なんだけど…


そりゃあ、部の皆とふざけてビ-ル飲んだこともある。正月にはお屠蘇に酒も飲んだ。しかしこの酒は…


まずそう…


どぶろく、という奴だ。清酒ならまだしも、高校生の飲めるしろものではない。

しかし、国明が目で『頼む』と言っていた。三方を捧げ持った国忠もひたと藤木をみつめている。その横では平伏したままの胤義が憎々しげに榎本親子を睨み上げていた。藤木は密かにため息をついた。


飲むよ、飲むけど、だったらこっそり何か先に食べさせてくれてたらよかったのに。


恨めしげに国明を睨む。藤木は観念した。


国明、この貸しは大きいんだからね。


目でそう言うと僅かに国明が苦笑したのがわかった。

藤木は盃を取り上げた。そしてぐいっと一息に飲み干した。


まっまっまっずーーーーっ


口から噴き出さなかった己を誉めてくれ

目を白黒させて何とか飲み込むと、ほっとしたような雰囲気が流れた。藤木もついにっこり微笑んでしまう。


「ありがたき幸せ…」


感極まったのか震えながら国忠が平伏した。一族郎党達も次々に祝ぎ言葉を口にする。平伏したままの国忠がすっと息を吸った。


「方々、今宵御渡り様の御恩寵をいただき我が榎本も安泰じゃ。この良き日にわしは隠居し、国明に家督を譲る。幸いここには本家三浦の方々もおられるの。さても祝うてくだされ」


さすが榎本水軍をたばねてきただけの男である。自力で歩けない程病が重いというのに、腹の底に響くようなすごみがあった。


「国明」


父親に名を呼ばれ、ははっと答えた国明は盃にまた酒を注ぐ。そして盃をのせた三方を藤木の方へ恭しく捧げた。要するに、家督をついだ国明の酒を飲んでくれ、というのだ。


マ…マジ…?


国明の目は真剣だ。


飲むのか、このまずいモノをまた飲むのかっ


さすがに量はさっきの半分程だが、飲み干すには勇気がいる。ちらっと藤木は国明の顔をうかがった。目が恐い。


断るのはもっと勇気いりそう…


事情のわかっていない藤木にも、この場で国明の捧げる酒を飲まなければまずいことくらい理解できる。藤木は国明の盃を飲み干した。くらりとくる。さっき飲んだ酒がまわってきたのか体がかぁっと熱くなってきた。


み…水…


国明に水を頼もうと口を開きかけたその時、突然三浦胤義が間に割って入って来た。


「榎本に渡られた御使い様なれば、本家にとっても御使いであろうぞ」


胤義は三方を国明からひったくるように取り上げると大徳利から酒をなみなみと注いだ。それから藤木ににじり寄り、三方を捧げる。


「当主三浦義村が名代として参りました三浦胤義にござります。御渡り様には是非にも本家の盃を受けてくださりますよう願い奉る」


ずいっと三方を突き出されて藤木は顔を顰めた。


こんなまずいもの、そう何度も飲まされてたまるか、だいたい、こんな嫌味なオヤジの酒を飲む義理はないっていうの。


しかも体がほうほう熱をもっている。喉が乾く。水が欲しい。


「本家三浦の盃を…」

「国明、水くれないかな」


すかさず国明が水の入った碗を捧げた。どうやら水を欲しがると踏んで用意していたらしい。くらくらする頭を振って藤木は水を受け取りごくごく飲み干すとほっと息をついた。無意識に国明へ笑みをこぼす。すっかり無視された胤義は真っ青になった。そこへ追い討ちをかけるような忠興叔父の声が飛ぶ。


「お気を悪くなされるな、本家殿。なにせ榎本に渡らせられた神様だからのう。いかに本家殿といえど、盃を受けるわけにはいかんのよ」


がっはっはっ、と高笑いまで付け加わった。胤義は怒りで真っ赤になる。険悪な空気が流れた。だが、酔いがまわってきた藤木はふらつく体を支えるのに精一杯だ。ぼうっとする藤木の視界に胤義のゆがんだ口元が映った。


「これは失礼つかまつった。傍流の跡目相続ごとき、本家がのりだすまでもなかったわ。いや、国明が心もとないとは申しておらんぞ。三浦本家ならばいざ知らず、榎本を束ぬるくらいは出来ようぞ。のう、国明」


いらぬ親心じゃ、許せ許せ、と胤義はうそぶいた。国明は黙っている。調子づいた胤義はわざとらしく膝を打った。


「そういえば、国明、今年でいくつになった」

「十八にござりますが」

「ならば子が何人かおろう。幾人なした。もうすぐおぬしの婚儀じゃ、妾腹の子はそれ、立場をわきまえさせねばならぬからの」

「それがし、そのような女も子も持ってはおりませぬ」


淡々と答える国明に、胤義は嫌味な笑みを浮かべた。


「おお、ぬしゃ希代の奥手であったな。忘れておったわ」


カカカ、と胤義は笑った。


「それ故、我が兄、義村が奔走したのじゃ。本家の力なくば京より姫君を迎えることなぞ出来まいて」

「その節はお手数かけ申した」


国明は軽く一礼する。藤木は腹が立ってきた。なんで国明は、皆は反論しないんだ。この嫌味な男が国明を馬鹿にしているじゃないか。


「じき京女を抱けるぞ、国明、楽しみじゃろう」


胤義の目が嫌らしく光った。


「おぬし、うまく抱けるか?ちとこっちの女子で稽古をつけたらどうじゃ」


藤木の頭にかっと血が登った。国明が馬鹿にされたのが頭に来たのか、女を抱くというのに腹が立ったのか、自分でもわからない。しかし、酒でキレかけていた理性の糸が引きちぎれるのには充分だった。


「それともなにか、馬にはのってもおなごにのったことはないか、国明」

「君、下品だね」


すくっと藤木は立ち上がった。よろけそうになるのをなんとか踏ん張る。ぎょっと皆が藤木を見上げた。藤木は胤義を睨み付ける。


「下品な男は嫌いだな」


御渡り様、目が据わっておる…


国明以下、榎本の郎党ども全員がそう思った。

しかし相手は神様、止める術はない。いや、ただの酔っぱらいならよけいに止めることなぞ不可能だ。


固唾を飲んで皆が見守る中、藤木は懐からスマホを取り出し胤義に向けた。


「天誅っ」


藤木の怒声とともに眩い光が炸裂する。

何のことはない、カメラのフラッシュだ。だが鎌倉時代の者達にとってははじめて見る鋭い光、その場にいた全員が硬直した。藤木がくすっと笑う。


「結構よく撮れてるよ、ほら」


くるっと向きをかえ掲げたスマホのの画面には胤義のひきつった顔がアップで写っていた。

ひっ、とあちこちで悲鳴がもれる。当の胤義は顔面蒼白だ。藤木はクスクス笑いを止めない。秀峰テニス部員なら誰でも知っている、そして誰もが恐れる、キレかけたときの藤木先輩だ。

藤木はその切れ長の目を胤義にひたと当てた。口元に浮かぶ笑みは壮絶だ。藤木涼介、一応周囲から天才の評価を得ている。しかも今は神様で、おまけに酔っ払いだ。その天下無敵の藤木がにっこり笑った。


「これ、どうしちゃおうか」


ひいぃっ、と潰れたような悲鳴が上がる。歴戦の武士達は竦み上がった。写真など知らない鎌倉人達にとって、一瞬のうちに姿を写した藤木のスマホは恐ろしい神器に他ならない。そしてそれを操る藤木はもっと恐ろしい。見目が細く優しげなだけに、畏怖はひとしおであった。

がばりっ、と胤義が藤木の足下に這いつくばった。


「おゆっおゆっお許しくっくださっ…」


がくがくと震えている。言葉が続かない。竦み上がっていた郎党達も次々に這いつくばった。とばっちりで胤義のように魂を抜かれてはたまらない。


「ふふふっ」


神様、その実、ただの酔っぱらいは楽しそうにその光景を眺めた。つんつんと足先で胤義を突つくと胤義は恐怖でひゅーひゅーと喉をならした。気を失わんばかりになっている。つっと国明が藤木の足下ににじり寄ってきた。


「御渡り様、御不興の段は平に御容赦あそばされますよう願い奉る。これは我が榎本にとりましても大事な本家の名代、このものの魂を御返し願えませぬか。榎本の当主、国明願い奉る。平に、平に願い奉る」


平伏しながらちらっと見上げてくる目が、いい加減許してやってくれ、と言っている。


そっか、写真に魂とられたって思ったんだ…


可笑しくなって藤木はクスクス笑った。


「ふ~ん、国明がそこまで言うなら、しょうがないかなぁ」


藤木はスマホを操作して画像を消去した。ついでにわざと電子音を大きく鳴らしてやる。ピピピッという人工音にもののふ達はまた震え上がった。


「はい、魂返したよ」


胤義は這いつくばったまま腰を抜かしている。蒼白のまま藤木を仰ぎ見る目は虚ろだ。にこぉっ、と藤木は凶悪な笑みを浮かべた。


「国明を~、またいじめたら~…」


だんだん藤木のろれつがまわらなくなってきた。足下がふらつく。ぐらぐら世界が回る。


「また魂~取っちゃうからねぇっ、わかったぁっ」


ぐらぁっと体が傾いだ。


「御渡り様」


藤木の状態に気付いた国明がはっと体をおこした。


「ふふっ、国明~~」


藤木は国明に向かって両手を伸ばした。慌てて国明が藤木を抱きとめる。


「国明、眠い~~」


藤木は国明の首に両腕を巻き付けて微笑んだ。


「国明~、連れてって、国明が連れてくんだよ~」


甘えるように藤木は額を国明の胸に押し当てる。国明もふっと笑みを浮かべ、そしてひょいと藤木を抱き上げた。


「御渡り様を御寝所にお連れ申し上げる。方々、あとは無礼講だ。遠慮のう楽しまれよ」


腰を抜かしたままの胤義も、それに付き従ってきた三浦の姻戚達も、ぽかりと口を開けたまま二人を見送った。藤木の甘い笑みにあてられたのか、広間はしんと静まりかえっている。

だが、当主の背中が広間から消えたとたん、榎本の一族郎党達がどっと沸き立った。めでたいめでたい、いやそれにしても御渡り様の霊験あらたかなことよ、と口々に囃し立てる。いつの間にか国忠の背を支えた忠興が、一際大声でよばわった。


「見たか兄者よぅ、国明の当主ぶりの見事なことよ、御渡り様の覚えも目出度い、これで榎本も安泰じゃぞぉ、よかった、よかったのう、兄者ぁ」


武骨な男の目に涙が滲んでいた。わいわいと皆酒を飲み騒ぎはじめる。榎本一族の隙間をぬって、こそこそと胤義達が広間を抜け出したが、気に止めるものは誰もいなかった。






藤木を抱いた国明は松明の焚かれた廊下を渡り寝所にしている部屋へ向かった。藤木は国明の首に手をまわし、胸に顔を押し付けたままぼうっとしている。飲みなれない酒ですっかりまいった藤木は、夜着に横たえられても目を閉じたままじっとしていた。


なんだか今日も目まぐるしかった…


くらくらして目が開けられない。

自分を寝かして国明は広間へ戻ったのだろうか。戻っているだろう。なにせ正式に当主になったのだ。当主なら宴の席に出なければならない。広間の方からだろう、どっと上がった笑い声が聞こえる。


国明…


ふっと、額に何かが触れた。誰かの指、それは優しく髪を梳く。何度も何度も優しく触れる。


「…国明…?」


目を閉じたまま藤木は名前を呼んだ。ふっと笑う気配がする。藤木も笑った。


「国明…」

「…なんだ?」


今度は返事があった。指は優しく藤木の髪を梳いている。


「ね、今夜、僕、国明の役にたったかな…」

「おぬしのおかげで助かった。礼をいう」

「…よかった…」


藤木はほっとして息をついた。国明は藤木の髪を梳いてやる。


「おぬしの天誅に皆肝を冷やしていたぞ」


藤木は胤義の顔を思い出した。真っ青になって震えていたっけ。


「あんなのただの写真だよ。今度国明も撮ってあげるね」

「…いや、いい…」


国明が躊躇したのが可笑しくて、藤木はふふっと笑い声をあげた。


「あのね…国明…」


目を開けられないまま、藤木はぽつぽつ言葉をこぼした。


「僕、色々迷惑かけちゃうけど、我が儘言うけど…」

「ん?」


髪を梳く手が頬へ降りてくる。優しく撫でられ、藤木はくすぐったくて首を竦めた。


「落ち込むの、やめたんだ。元に戻るまでしばらくこの世界でちゃんとやっていきたいから…」


ふっと国明の手が止まる。それが寂しくて、藤木は無意識に頬をすり寄せた。


「国明の側にいていい?」


国明の両手が藤木の頬を包んだ。


「案ずるな…藤はおれの側にいろ…」


国明の手は温かかった。藤木はとろとろと眠りに引き込まれながらにこっと笑う。


「ん…」

「おれの側に…」


最期に国明が何か言ったようだったが、その言葉は半ば眠りについた藤木の耳には届かなかった。




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