第3話 おトイレパニック

どうやって館に帰ったのか覚えていない。気がつくと馬から抱きおろされるところだった。家人や郎党達が大騒ぎしながら集まってきて、国明が困り顔で何か言っているのを藤木はぼんやりと眺めていた。

それから昼間寝かされていた部屋へ戻される。ぼうっと座っていると、国明が膳を運ばせてきた。


「何か口にしたほうがいい」


国明の声がするが、藤木の耳にはどこか遠く聞こえていた。座っているのに何かおぼつかない。ゆらゆらと虚空を漂っているみたいだ。


ふと、唇にひやりとしたものが触れた。わずかに開けた唇の間からそれは口の中に滑り込んでくる。そのまま藤木は飲み下した。味も何も感じないが、ただそれ は冷たくて柔らかかった。また唇に触れる。それを飲み込んで藤木が目をあげると、国明の気遣わしげな顔があった。国明は木の匙で膳の上の白いかたまりをす くっている。


「口をあけろ、藤。豆腐だけでも食べるんだ」


いわれるままに藤木は口を開け、国明は豆腐を食べさせた。食べ終わると、国明は藤木を一畳だけ敷いてある畳に寝かせ、夜着をかけた。


「次の間に秀次が控えている。入り用があれば声をかけよ」


藤木はぼんやり天井を眺めたままだ。国明は立ち上がろうとして、ふと、動きをとめた。国明は何か言いかけ、しかし言葉にはならずただ藤木の髪を梳く。そして部屋を出て行った。






しんとしている。遠くに潮騒が響き、時折、馬達の咳く音や蹄を打ちつける音がする。静かだ。犬の声がする。静かで真っ暗な夜。

藤木は横になったまま部屋を眺めた。昼間、開け放たれていた雨戸はきっちりと閉められ、部屋の奥も廊下も闇に沈んでいる。外灯の明かりも道路を走る車の音もない世界。

突然、心臓を掴まれるような恐怖が襲ってきた。静かすぎる夜、真っ暗な夜、藤木の世界とは違う夜、藤木の知らない夜。


「母さん…」


藤木は小声で呟いた。


「母さん…母さん母さん…」


藤木の呟きは闇に溶けて消えていく。呼んでもこの世界には存在しないのだ。母も父も、姉の裕子も弟の健太も。藤木の脳裏に家族の笑顔が、秀峰の仲間達の顔が浮かんでは消える。誰もいない。真っ暗やみに藤木は独りだ。


「皆…どこ…」


誰もいない。誰も存在しない世界。


「ここ…来てよ…」


夢ならばいい。悪い夢を見ていて、うなされている自分を誰か起こしてくれればいい。合宿所のベッドで、秀峰の仲間が起こしてくれるのだ。もしくは家のベッドで、健太が不機嫌丸出しの顔で自分を起こしてくれれば…


「誰か来てよ…」


祈るように藤木は呟く。だが、誰が藤木の側へ来てくれるというのだろう。これは夢ではない、ここは藤木の世界ではないのだ。


「誰か…誰か…佐見…」


ふいに、佐見の顔に榎本国明と名乗る男の顔が重なった。藤木はがばっと起き上がる。真っ暗だ。


「く…くにあき…」


掠れるように名前を呼んだ。暗い、とても暗い。


「くにあき…国明、国明、国明っ。」


悲鳴をあげるように藤木は必死で名を呼んだ。隣の板戸がガラッと開けられ、秀次が飛んできた。


「御渡り様っ、いかがなされましたっ」


だが、秀次の言葉は藤木には届かない。うろたえる秀次には目もくれず、藤木は身をよじるように叫んだ。


「国明っ、国明ーっ」


涙が出てくる。恐い、恐い、恐い…


「国明ーっ」


ドタバタと廊下で人の騒ぐ声、運ばれてくる明かり、だが、藤木はもうわけがわからなかった。


「国明国明国明ーっ」


しばらくすると、白い夜着をまとった榎本国明がやってきた。真直ぐ藤木の側へ来ると横に膝をつき、その手をとる。


「どうした」


宥めるように声をかけられ、藤木はやっと我に帰った。見上げると国明の顔がある。そのまま藤木は国明にしがみついた。


「国明っ」


一瞬、国明はうろたえたが、すぐに優しく藤木を抱き返す。その手がゆっくりと髪を梳いた。藤木はしがみついたまま弱々しく訴えた。


「暗いよ、国明…」

「すまん、これからはずっと明かりを灯しておこう。」

「畳、固い…」

「うむ?」

「これじゃ寒いよ、国明…」


ポンポンと国明は藤木の背中をあやすように叩いた。藤木はしがみついて離れそうもない。国明は困ったように微笑むと、目で郎党達をさがらせ、藤木を胸に抱き込んだまま夜着の中に横たわった。


「一緒に寝てやる。これなら寒くはなかろう」


国明はそう言い、藤木の髪をなでた。


「大丈夫だ、ずっとここにいる」


穏やかに国明は藤木の背をさする。


「大丈夫だ、藤…」


国明の腕の中は暖かかった。背をさすられながら、いつしか藤木は眠りにおちていた。








「おっおっおっ御渡り様ーーーっ」

「とととと殿ーーーっ」

「おっ起きてくださりませーーーっ」


悲鳴とも怒号ともつかない騒ぎに藤木と国明は飛び起きた。


「何事だ」


国明は藤木を胸に抱き込んだまま駆け込んできた郎党達に対した。藤木をみて郎党達はがばりと平伏するが、その様子はただごとではない。真っ青になってガタガタ震えている者もいる。


こんどは何だよ…


まだ眠い目をこすりながらぼけっと郎党達を眺めていた藤木だったが、自分が国明の腕の中にいることに気付いて慌てた。


「あっあれっ、僕、何で君、ここで…」


あたふたと逃げ出そうとする。しかし、国明はがっしりと藤木を抱き込んだままだ。


「ちょっちょっと、離してってば、国明っ」


もがく藤木に、国明はしれっと答えた。


「何だ。お主がおれを呼んだのだぞ」

「なっ…」


そういえば夜中に…


一瞬で青ざめた藤木に、国明は悪戯っぽい笑みを浮かべた。


「共寝をしたというのに、そうつれなくするな」


今度は藤木の顔が真っ赤になる。


「ばっ…」


馬っ鹿じゃないの、と叫びかけた藤木の声は切羽詰まった秀次の声に遮られた。


「殿っ、仲良う戯れておる場合ではござりませんぞっ」

「仲良くって、君ねっ」

「だから無粋だというのだ、お前は」


国明はふっと笑って茹蛸のようになった藤木をますます胸元に抱き込んでしまう。


「ぎゃ~~~っ」

「ぎゃあって、あのなぁ…」

「たっ祟りでございますっ」


別の郎党が泣きそうな声で訴えた。それをきっかけにひれ伏す者たちは口々に訴えはじめる。


「おっ御渡り様、お助け下さいませ」

「お願いにござりまする」

「御渡り様っ」


屈強なもののふ達が皆一様に脅え震えている。駆け込んできた様子から敵襲ではないなとのんびり構えていた国明だったが、ここへきてはじめて眉をひそめた。

自惚れではなく、榎本水軍はこの一帯最強の軍団だと自負している。数こそ本家に劣るが、それを補ってあまりあるつわもの揃いなのだ。本家三浦が一目置くのもそのためだった。その一騎当千のつわもの達がここまで恐怖を露に狼狽するとは尋常ではない。


「秀次」

「とっとにかく、御神器をお祭り申し上げておる部屋へっ」


国明は藤木の腕をとって立ち上がった。


「ななな何?」


藤木は目をぱちくりさせたまま国明に引っ張られる。藤木が通ると、郎党達は平伏したまま縋るように見上げてくる。


「御渡り様、何とぞ何とぞ」


げっ


異様な光景に藤木は逃げ出したくなった。髭をたくわえたごつい男達に縋られても恐いだけだ。


「藤」


国明にうながされて、藤木は渋々後ろについていった。







庭にも廊下にも、青ざめ平伏しているものであふれている。下働きの下男、下女など、見ているのが気の毒な程ぶるぶる震えて地面に伏していた。異様な静けさ が辺りを包んでいる。時折ぶつぶつ経を唱えるような声がするだけで、しわぶき一つ聞こえない。館全体が恐怖に覆われているようだ。秀次が強ばった顔で振り 向いた。


「こちらにござります」


部屋をでて廊下を曲がると、なにやら音がする。


ピコーンピコーンピコーン…


耳になじんた音。


ピコピコピコピコピコピコ…


前を行く秀次がびくっと身を竦ませた。


「こっこれ以上はそれがしも…」


絞り出すように言うと、秀次が後ずさる。


ジュワッチ


「ひっ」


秀次が耳をおさえて尻餅をついた。


ピコーンピコーンピコーン…


再び同じ音がはじまる。蒼白になった秀次が情けない声をあげた。


「面目次第もござりませぬ~。なれど、そっそれがし、これより先には~っ」


ピコーンピコーンピコーン


藤木は彼らの恐怖の原因を悟った。


これって僕の…


頭を抱えたくなった。国明と並んで音のする部屋へ向かう。


ピコピコピコピコピコジュワッチ


僕のスマホの目覚まし音だよ…


そのスマホは白木の三方の上で和紙と榊の葉に飾られ恭しく奉られていた。







がっくり膝をつかなかった自分を誉めてもらいたい…


藤木は真剣にそう思った。

神棚のしつらえてあるその二畳程の小さな部屋は特別なのだろう、廊下から入った正面に一段高い床があり、そこに白木の三方が三つ、並べられている。一つにはスマホ、もう一つには宿から借りた「郷土の歴史と文化」の本、三つ目には祠で拾った小刀がのせられていた。

いずれも白い和紙の上で、まるで正月の鏡餅だ。御丁寧に榊の葉が白い壷に活けられ、塩と米と酒がこれまた白いかわらけに盛ってある。海神への素朴で敬虔な信仰に満ちたその部屋で、三方にのせられたスマホが点滅していた。


ピコピコピコピコジュワッチ


間抜けすぎ…


スマホは律儀にウルトラマンのカラ-タイマ-音を繰り返している。藤木は目眩がした。あまりに間抜けな光景、しかし、館全体を恐怖のどん底に突き落としているのは紛れもなく自分のスマホなのだ。

元はといえば、このスマホの目覚まし音、合宿に出る前、姉の裕子が無理矢理ダウンロードしていれたのだった。


「涼介、今月のラッキーアイテム、ウルトラマンだから」


にっこりそう言われた時はどうしようかと思ったが、涼介のピンチを救うラッキーアイテムなのよっ、と主張する姉に反抗するのがめんどくさくてそのままにしておいた。


ラッキーアイテムって、ラッキーなのか、これがラッキー?ごっつい男達が恐怖に震え上がっている、これってラッキーなのか、いや、だいたい、「今月のラッ キーアイテム」にウルトラマン持ってきた時点で間違っているよ、姉さん。ほら、そのせいなのか知らないけど、僕のスマホ、お正月飾りになってカラータイマー 音ならしてる…


だがそれが恐怖の根源なのは間違いない。藤木は脱力しながら足元をみた。腰を抜かしたまま、それでも果敢に秀次が這いよってきている。秀次は震えながら懇願した。


「おっお怒りをお沈めくださいませ。」


いや、お怒りっていわれても


国明が困り顔を藤木に向けた。


「藤、なんとかしてくれ。」


藤木は三方からスマホを取り上げると目覚ましを切った。目に見えて野郎どもがほっと力を抜く。


ああ、姉さん


力がぬけたまま藤木は姉に語りかけた。


なんだか気がぬけちゃった…


違う世界に、おそらくは過去に飛ばされてしまって、このありえない現実に打ちのめされていたのだけれど、ホントにホントに、どうしていいかわからないくらい絶望していたのだけれど。


「ねぇ、国明」


ジュワッチ、に腰を抜かしてる侍みてたら…


「スマホと本、返してもらってもいいかな」

「ああ、もともとお主のものだ」


藤木は無造作にスマホと本をジャージのポケットに突っ込む。


なんとかなるでしょ、って気分になってきちゃった…


「藤、刀はどうする。」


国明にいわれて藤木はムスッと答えた。


「そんなのいらない」


この刀が悪いんだ、この刀がっ。


八つ当たり君に刀ののった三方を藤木は睨んだ。


「あげるよ、君に」

「おおお~っ」


国明のかわりに秀次が雄叫びをあげた。


「殿っ、御渡り様から刀を賜るとは、これで我ら榎本水軍は益々勢い増しましょうぞ」


こうしちゃおれん、とさっきまで震えて腰を抜かしていたとは思えない身のこなしで秀次は駆け出した。どうやら皆にふれまわる気らしい。

朝っぱらから藤木はどっと疲労を覚えた。同時に空腹も。トイレにも行きたくなってきた。

そういえば、昨日は何も食べずトイレにもいかず、よく平気だったと思う。やはり何もかもがおかしかったのだろう。寝る前に国明が何か食べさせてくれた気はするが、ぼうっとしていて記憶は曖昧だ。

とにかく、昨日は昨日、今日は今日、まずはトイレに駆け込みたい。


「あ、あのさ、国明」

「ん?」


この水軍の長はさっきから面白そうな顔で皆の狼狽えぶりを傍観していた。


他人事だと思って、いや、他人事なのだけれど、こんなに自分が切羽詰まっているっていうのにムカツク奴。


これも藤木の勝手な八つ当たりなのだが、当面、目の前の切羽詰まった状況を解決しなければならない。


「あのさ…トイレ、どこ?」

「………」


沈黙が流れる。嫌な予感がした。念のため、藤木は繰り返す。


「だからさ、トイレなんだけど」

「といれ とは何だ」

「………」


本当の意味で、藤木の試練は始まったばかりだった。






「いやだーっ」


廊下に藤木の絶叫が響き渡る。


「おっ御渡り様、お静まりくださりませ。」

「今日のところはこれで御容赦願いまする」


「いっやっだっ」


「只今、御渡り様にお使いいただく品を特別に職人どもに申し付けておりまする故」

「ささ、御渡り様、これへ」

「これをお使いあそばされよ」


「だからっ、何で僕がオマル使わなきゃなんないのーーーっ」


とうとう藤木はぶち切れた。

郎党達は平伏したまま、それでも周りを動かない。正面に平伏している強面の侍、ゴワついた針金のような髭を四角顔の鼻の下にも顎にもはやし、大きな目のギラリとしたゴツい侍が何やら細工を施した箱型の椅子のようなものを捧げ持っている。その椅子の調度お尻のあたる部分には穴が開けられていた。


「いざいざ」


穴開き椅子を捧げ持った侍はずいっと膝をすすめる。四十半ばのその男の脇に秀次が控えているということは格上なのだろう。だが、オマル捧げ持って何が「いざいざ」だ。


「国明ッ」


藤木はギッと館の当主を睨み付けた。一歩離れてまた傍観を決め込んでいた国明は肩をすくめた。


「忠興叔父、御渡り様はそれを使うのは嫌だと仰せられておるようだぞ」

「若っ。不敬がすぎましょうぞ。御渡り様が我らと同じ便所であそばされるなどっ」

「だがなぁ、本人が便所にいきたいと仰せられておる」

「だからというて、左様でと便所にお連れする若の気が知れませぬっ」

「便所じゃいかんか」

「いけませぬーーっ」


不毛な会話だ。便所便所とリピートされて目眩がする。しかし、藤木の生理現象も限界が近い。


「あのさ、だいたい、その箱に僕がしちゃったらその始末しなきゃいけないんだよ。大変でしょそれって」


誰だって人の汚物の始末なんて嫌だろう、しかもおっきいのなんて。そう言いたかったのだが、何故か皆の顔がぱぁっと輝いた。


「ありがたき幸せ」

「身にすぎる光栄にござります」


ちょっとまてーっ。


心の中で藤木は絶叫した。いや、口にも出した。


「ぼっ僕のをどーするつもりっ」

「ははっ、御渡り様のあそばされた物にござりますれば」


畏怖と憧憬の込められた視線が藤木に集まる。オマルを捧げ持ったまま、国明から「ただおきおじ」と呼ばれた男が至極真面目に答えた。


「館の一角を清め注連縄をはり、そこへ奉らん」

「ぎゃーーーっ」


そのまま藤木は忠興を突き飛ばし、便所だと指差された場所へ駆け込んだ。あわあわと郎党達が後を追う。


「おっおんわたりさまぁ~~っ」

「来たらだめっ。祟るよっ」


ピタリと郎党達は動きをとめる。しん、と沈黙が落ちた。皆が便所を凝視している。そして再び藤木の絶叫が響き渡った。


「くにあきっ、紙がないーーーっ」

「誰ぞ紙をお持ちしろ」

「国明でなきゃダメーっ」

「若っ」

「殿っ」


国明は頭痛をこらえるように額に手をあてた。






朝から藤木はもうくたくただった。

スマホの目覚まし音、ウルトラマンのカラータイマーだったが、それに恐怖した郎党達に大騒ぎされ、トイレにいくといえばオマルを持ち出される。

そして、当然と言えばそうなのだが、窮して飛び込んだトイレはいわゆる「ぽっとんトイレ」。都会っ子で豊かな環境に育った藤木にはそれだけでも倒れそうな衝撃だった。しかもトイレのなかに紙はなく、国明が持ってきた紙はお尻に負担のかかる固さだ。


皆、「大」の後、どーしてるんだ…


何かの本で、江戸時代の宿屋には荒縄がはってあって、泊まり客は「大」のあと、その荒縄に尻をこすりつけて紙のかわりにすると書いてあった。思い出して藤木は目眩を感じる。


しかもなんか、手、洗ってないみたいだし…


一応、手水鉢とかなんとかいう石の何かはあった。中に水も溜っていた。そう、溜っていたけど。


「手、洗わないやつ、側に来ないでッ」


便所から出てわらわらと再度集まってきた郎党達に藤木は怒鳴った。もう、遠慮だの慎みだのといっていられない。


オマル持ち出して人のモノを「奉らん」とする奴らなんぞに負けてたまるか。


すっかりキレた藤木に普段の温厚さは微塵もない。「おれ様」化した藤木は足音も荒く部屋へ戻った。もちろん、国明を引っ張って行く事も忘れずに。



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