第2話 鎌倉時代へ

ひどい夢だった。全く、本当に散々な夢だった。佐見が人を殺す夢なんて。


ゆっくりと意識が浮上してくる。やはり自分は眠っているのだ。もうすぐ起きる時間なのだろう。今日も砂浜までランニングだ。目覚ましが鳴るまでまだ寝ていよう。あ、でも、途中まではいい夢だったのになぁ。せっかく佐見とデートしてたのに…


目を閉じたまま藤木はふっと笑った。


そう、デート。ただ歩いているだけでもデートったらデート。


誰かの手が額に触れる。その手が優しく髪をすいた。


誰だろう…


触れてくる手が気持ちよくて藤木は微笑む。その手の持ち主がほっと息をつくのがわかった。小さく呼び掛けられる。


誰?佐見…?


自分を呼ぶ声


佐見だ。佐見の声、ああ、まだ寝てるんだからこれも夢か…


大丈夫か?


気遣わしげな佐見の声。


ふふ、何心配してるんだか。大丈夫だよ、佐見。夢みただけ


夢?夢をみたのか?


うん、君の夢。はじめはよかったんだけどね、後がちょっと恐かったんだ


恐い夢か


そう、鎧着た男達がね、襲ってくるんだ。死んじゃうかと思った


もう大丈夫だ


そうだね、君が助けてくれたもの。でも君もちょっと恐かったよ


おれは恐くはないぞ


うん、守ってくれたんでしょう?


佐見が優しく髪をなでる。


ああ、良い夢。もうしばらく寝ていよう


…でもなんか、背中が痛い。藤木の眉間に皺が寄った


どうした。苦しいのか?


ううん、ただちょっと、ベッド、固くて


ベッド?ベッドとは何だ


やだなぁ、佐見。何言ってるの。あ、夢だからか、夢


首も背中も腰も痛くて、藤木はごろりと寝返りをうった。


おっかしいなぁ。宿のベッド、こんなに固かったっけ


ごいん、と頭が下に落ちる。


「ううう~」


藤木は思わず唸りながら目を開けた。目の前に木の箱のようなものが転がっている。


「?」


藤木は木の箱に手を伸ばした。


「…?ジャージ?」


自分は秀峰のジャージを着ている。


「あ…あれ…」


がばっと藤木は体を起こした。途端におお~っ、と歓声があがった。


「御渡り様がお目覚めになられたっ」


藤木はぎょっとした。


なっ何、この人達っ


「御渡り様ーっ」


人々がどよめく。


………おんわたりさま?


だだっ広い板張りの部屋に藤木は寝かされていた。寝具が敷かれたところは床より一段、高くなっている。間をあけて下座にずらりと男達がが並んで座っていた。その人々が一斉に藤木に向かって平伏した。皆、資料集の絵巻みたいな衣装を身につけている。


げっ、何これっ


板張りの部屋の周囲は廊下で雨戸が開け放たれ庭が見えた。もちろんガラス窓などない。大河ドラマのセットのようなその部屋から見える庭にも人、人、人。絵巻物に描かれた下男みたいな格好の人々がやはり平伏している。驚きで固まっている藤木の傍らから声がした。


「気分はどうだ」


聞きなれた声。


「佐見ーーーっ」


枕元に佐見国明が座っていた。これまた大河ドラマの格好のまま。


「佐見、何、これ、君まで何やってんのさ」


藤木は四つん這いになったまま佐見に詰め寄った。


「だいたい、さっきは僕が話しかけても変な言葉で…」


ハッと藤木は喚くのをやめた。フラッシュバックする光景。


「…あ」


胃の辺りから不安の塊がこみあげてくる。目の前にいる佐見は、夢の中の佐見と同じ格好だ。そして夢の中で佐見は人を殺した。しかしそれが夢でないとしたら…


「佐見…」


声が掠れる。


「さ…佐見…」


震える手で佐見にふれた。


「佐見、君、人を…」

「ああ、あの野盗どものことか。案ずるな、皆始末した。もう心配はいらぬ」


藤木は驚愕に目を見開いた。あれは夢ではなかったのだ。男達が襲ってきて、佐見がそれを斬った。確かに彼らは死んでいた。佐見が殺した。ショックだったが、それよりも人を殺して平然としている佐見が信じられない。たとえ正当防衛だったとしても。

動揺して声も出ない藤木の様子をどう思ったのか、佐見は安心させるように藤木の手をポンと叩いた。


「今度はおれの言葉がわかるようだな。喉は乾かぬか。白湯をもってこさせよう」


佐見は下座にひかえる一人に合図を送る。すると、平伏して居並ぶ最前列の男が佐見に声をかけた。


「若。いやしくも神仙の御使いたるお方に白湯はありますまいよ」


年の頃は四十半ば、いかめしい風格の男の言葉を隣に平伏する若者が受けた。


「膳を整えしかるべきもてなしをいたすべきが良きかと某も存じ上げる」

「しかるべきといってもなぁ、秀次」


佐見が若者に苦笑いをこぼす。


「この様だぞ?いきなり酒なんぞ飲ませられんだろう。飲めるとも思えんしな」

「しかしながら若っ」


秀次と呼ばれた若者は生真面目な面をきっとあげた。


「仮にも我ら水軍の守神たる海神様からの御渡り様でございますぞ」

「左様、せっかく我らがもとへお渡り下されましたのじゃ」

「若もちと御考えあれ」

「まっこと慶事ではござりませぬか」

「瑞兆ですぞ」


平伏していた人々がワイワイと口々に騒ぎはじめた。藤木は呆然と騒ぎをながめている。頭の中は真っ白だ。


おんわたり?慶事?訳がわからない。いったいこの人達は何なのだ、何を言っているのだ。佐見は何故…


藤木は混乱したまま縋るように佐見をみた。佐見はふと、目を細めると声を上げた。


「ひかえろ、御渡り様が驚いておわすではないか」


一瞬で静まり返り、皆、恐縮して再び平伏した。


「まずは白湯を持て。御渡り様はお疲れだ。しばし休んでいただく故、お主達は下がれ」


すっとその場にいた人々は退出した。庭にひかえていた者達も平伏したまま下がっていく。すぐに先程、秀次と呼ばれた若者が戻ってきて盆にのせた白湯の椀を佐見の前に置き、またすぐに退出した。後には藤木と佐見だけが残された。佐見が盆に載せられた白湯の椀を差し出した。


「白湯だ。飲むといい」


藤木がぼんやりしていると、佐見は椀を藤木の両手に握らせた。


「驚かせてしまったようだな。怯えずとも大丈夫だ。悪いようにはせぬ」


椀を持つ手をささえながら佐見は言った。


「お主の名は何という。どこから来たのだ?」


はじかれるように藤木は顔をあげた。


「なっ何いってるの、佐見」


この期に及んでまだ自分をからかうつもりなのか。怒りを滲ませながら藤木は佐見を睨んだ。


「どういうことだよ、佐見、ちゃんと説明してよ。君、さっきからなんで…」


しかし、佐見は当惑した顔で言った。


「待て、その佐見というのは誰だ」

「なっ…」


藤木は激昂した。


「いい加減にして。こんな時、冗談も何もないだろ?君が佐見じゃないならいったい誰なのさ」


だが佐見は静かな声でこたえた。


「おれの名は榎本三郎国明。父上が病床にあるので、実質榎本水軍の長をつとめている」


藤木は言葉を失った。まだからかわれている?しかし、目の前の佐見にそんな雰囲気は微塵もない。


「その、佐見という者におれは似ているらしいな。お主、ずっとおれのことを佐見と呼んでいたが」


藤木は全身から力が抜けていくのを感じた。いったい何がどうなっているのか、皆目見当がつかない。ただ、なす術もなく目の前の男の顔を見つめる。佐見、 いや、榎本国明と名乗る男は藤木が疲れていると思ったらしい。白湯の椀を盆に戻すと、藤木の背に手を添え横たえた。藤木はなすがままだ。国明は口元に微かに笑みをはい た。


「話は後だ。まずは休むといい。廊下に人を控えさせておこう」


立ち上がろうとして国明はふと、動きを止めた。


「名は何という?」


体を横たえたまま藤木はぼんやりと答えた。


「…藤木…藤木涼介」

「よい名だ」


国明は藤木にうなずくと部屋を出ていった。






天井をながめながら、藤木の頭はぐるぐるまわっていた。自分の身になにがおきたのか、さっぱりわからなかった。あの資料集の絵巻物な人々はなんなのだろう。いったい佐見はどこへ行ってしまったのだ。あの佐見そっくりの男、本人は佐見ではないと言っていたが、どこから見ても佐見国明なあの男もわからない。まだ自分は夢をみているのだろうか。本当は合宿所のベッドの中で…


「だったら背中、こんな痛くないよね」


がばっと藤木は起き上がった。


「固いっ、寝てらんないよっ」


どれが夢でどこからが現実なのか、藤木は改めて周りを見回した。 板張りの広い部屋、開け放たれた木の引き戸の先の庭は簡素で、白い庭砂が陽に輝いている。もう昼なのだろう。松の木の影が濃い。藤木はこの時になってはじ めて、自分が畳の上にいることにきづいた。一段高くなった板張りの床に一畳だけ青畳がある。その上に敷いてある薄い布の上に寝ていたのだ。


「背中、痛いはずだよ…」


上にかけられているのも、つやつやした手触りの着物のような布だ。


「布団くらい出してくれればいいのにさ」


枕にしていたとおぼしき木の箱を押しやりながら藤木はぼやいた。とにかく、家でも学校でも警察でも、連絡するのが一番だ。あの殺人事件が本当だとして も、自分が正当防衛だと証言すればいい。思い立つとドタバタ藤木は部屋を飛び出した。と、廊下に男が二人いた。藤木を見るとがばっと平伏する。藤木は目を パチクリさせた。だいたい、さっきからこの時代劇してる人達は何故自分にぺこぺこお辞儀するのだろう。


「あ…あの~っ」


おずおずと声をかけると、平伏していた男達はますます廊下にへばりついた。


「あの、電話、借りたいんですけど」

「………は?」


平伏していた男達はわずかに顔を上げた。あきらかに戸惑った表情だ。


「だから、電話を…」

「でっでんわ…にござりまするかっ」


困り果てた様子で二人の男は顔を見合わせた。


「えっと、僕のスマホ、繋がらなかったんで、電話お借りしたいんですけど」

「しっしばしお待ちをっ」


二人のうち、一人が平伏したまま後ずさると、転がるようにかけ去った。もう一人の男は目の前で床にへばりついたままだ。藤木は困惑した。このリアクション、冗談にしてもタチが悪すぎる。


「これって、何かのお祭りなんですか?案外、どっきりとか」


男ははいつくばったまま答えた。


「ははっ、御渡り様のお渡り下されました目出度き日なれば、祝い事の日と定めて祭り奉らんかと存じ上げまする」

「………?」


意味わかんない。 藤木は首をかしげた。佐見そっくりの男と初めて会ったときには、彼の訛りがひどくて聞き取れなかったが、今度は言葉がわかっても言っている意味がわからない。わからないが、気を悪くされても困るので藤木は引きつりながらフォローする。


「いや、あの、皆さん、そういう格好しているから、今日は何かあるのかな~って思って」


途端に男は青ざめた。


「御無礼つかまつりました。急なこととて、それがし、服装を改むるまで気がまわらず、平服にて控え申し上げておりました。ご不興のだんは平に御容赦をっ」


男は額がこすれんばかりに床に頭を押し付けている。


「あ、えっと、そんな、あの~」


身を縮めて平伏する男に藤木が困惑していると、廊下の奥から国明がやってきた。


「どうした」


藤木は困り果てた笑顔で男を指差す。国明は男を下がらせると、また藤木に聞いた。


「どうした。何か入り用か」

「っていうか…」


は~っと藤木はため息をついた。


「ねぇ、なんであの人達、すぐはいつくばるわけ?」


話しにくいったら、と顔をしかめると、国明が苦笑した。


「お主は海神様の御使いなのだろう?神の使いならば皆畏まって当然だ」

「は?何それ」

「だから、神の使いだ」

「はぁーっ? 」


藤木は思わず素頓狂な声を上げた。


「神の使いってゲームじゃあるまいし、何、本気でいってんの?」


そんなわけないじゃない、と脱力する藤木を見つめ、国明は妙に真面目な顔をした。


「まあ、そうだろうな。お主、神の使いには見えん。だが…」


国明は正面から藤木を見据えた。


「お主は何者だ。神の御使いには見えんが、さりとてこの世の者にも思えんのだ」

「佐見…」

「おれは佐見ではない。榎本国明、榎本水軍の長だ」

「だって、君…」

「海神様の祠の前ではじめてお主を見た。おれはそれまでお主を知らぬ」


藤木は目の前が真っ暗になった。ぺたりと廊下に座り込む。


「何なんだよ、いったい…」


涙が滲んでくる。


「何、皆して僕のこと、遊んでンのさ。ここ、どこだよ、君が佐見でないんならそれでもいいよ。もう、どうだっていい、君なんか…」


国明が藤木の側に腰をおろしてきた。藤木はそれを両手で突っ張っっておしやると吐き捨てるように叫んだ。


「君が榎本国明だっていうんならそうなんだろっ。なんだよ、いつまでもそんな格好しちゃってさ、いい加減にしてよね。とにかく、家に連絡いれるから電話かしてっ」


国明が困ったように言った。


「すまぬ。お主がどこからきたのかは知らぬが、おれ達にはお主の世界に連絡できるものはない」

「馬鹿いわないでよっ」


藤木はイライラと怒鳴った。


「今どき電話つうじてないっていうわけっ?はっ、まさか、電気も水道も通っておりません、なんて言うつもり?」

「藤木、といったな。ここには、お前の言う、そういうものはない。おれにはお前のいう物がわからない」


藤木は絶句した。じっと国明は藤木を見つめている。嘘を言っているようにはみえない。佐見と同じ顔で、同じ声で、藤木に理解できないことをいう目の前の男。はりつめていた糸が切れた。


「何だよ…何なんだよいったい…」


目の前がぼやけた。ぼろぼろと涙があふれてくる。


「いったい、何なのさ…何が…」


嗚咽がこみあげた。


「どうなっちゃってんのさ…」


不安と混乱でぐちゃぐちゃだった。藤木は体を震わせた。


「なんで…」

藤木は顔を覆った。呟く声が掠れてくる。突然、国明が藤木を抱き寄せた。


「大丈夫だ」


国明が耳元で囁くように言った。


「大丈夫だ、藤木涼介」


抱きしめて藤木の背中を優しくさする。


「大丈夫だから、藤…」


藤木は顔をあげた。佐見ではないという男、しかし、佐見の声で、佐見と同じ呼び方で自分を慰める男。思わずその腕にしがみついた。今はそれでもよかった。藤木には国明の腕しか縋るものがなかった。漠とした不安に押しつぶされそうになりながら、藤木は国明の腕の中にいた。






ひと泣きして幾分落ち着いた藤木は、広間を囲む廊下の一角に座ぶとんを敷いて座っていた。座ぶとんといっても藁を固くあんだ円座のようなもので、どうにも落ち着きが悪い。それでも、薄暗い部屋の中にいるよりはましだった。 傍らには干し柿を細く切ったものと抹茶のはいった碗がのせられた漆塗りの膳がある。国明が持ってこさせたものだった。何か飲むかと言われて、藤木はコーヒーと答え たのだ。案の定、怪訝な顔をされ、じゃあお茶でも何でもいいから頂戴、といったら抹茶がきた。それもたまに母がたててくれる泡だった奴ではなく、なに やらお湯に粉茶をといたような代物が。テニス三昧の高校生、藤木涼介が干し柿だの抹茶だのになじんでいるわけもなく、手付かずのままそれは置かれていた。


ここ、どこなんだろう…


藤木は空を仰ぎ見る。早春の空は霞みがかって柔らかい青だった。藤木はここの人々のことを考える。あまりに奇妙だった。祭りか何かで着ているのかと思っていた着物、正確には直垂だの小袖だのがここでは当たり前らしい。藤木のジャージ姿が不思議らしく、当主の国明が人払いを命じているにもかかわらず、こっそりと覗き見に来るものが絶えない。


しかもなんか、僕って神様あつかいだし…


はぁ~っとため息をついた藤木が視線を感じて目をやると、庭の隅から顔を覗かせていた人々が大慌てで平伏する。


なんだかなぁ…


ははは、と疲れた笑いを人々にむけながら、藤木の脳裏を国明の言葉がよぎった。


『神の使いということにしておけ。その方がお主の身を守りやすい』


身を守るって何から…?


そんなに危険な場所なんだろうか。ふと藤木は、先週末、姉が見ていたテレビを思い出した。土曜なんとか劇場とかいう二時間ドラマで、山奥の迷信深い村に迷いこんだ主人公達が神がかった村びとから酷い目にあわされていた。その時は、馬鹿げた設定だと思っていたが、まさかここの連中も似たような感じなのだろうか。いや、でもそのドラマだって服装は普通の現代人だったし電話もあった。


まぁ、主人公達が電話しようとしたら電話線、切られてたけどさ。圏外でスマホ使えない設定だったし


とにかく、あのドラマだってナチュラルに直垂だのを着こなした連中じゃなかった。


「とにかくどっかに連絡だよね」


むん、と握り拳で自分に気合いを入れていると、庭先から若者がすすっと進み出てきた。


「御前失礼つかまつります」


藤木の座る縁の下に平伏する。


げっ、今度は何だよ


思わず怯んだ藤木に若者は額を地面につけたまま恭しく言った。


「この度、殿より御渡り様のお側に控えるよう申しつかりましてございます。御用の段はそれがしに仰せ下さいますよう」


あれ、この人…


生真面目な声に覚えがあった。


「あれ、あの、あなた、さっき…」

「ははっ、それがしもお側近く控え申し上げておりました」


そうだ。国明が白湯を持ってこさせようとしたら、それじゃ神様に無礼だとか何とか意見してた若い人だ。 藤木はその時の国明を思い出してくすりと笑った。それにしても、平伏されたままではどうも居心地が悪い。


でも国明は神様でいろと言ったし…


神様らしい口調なぞ見当もつかない藤木はしかたがないのでテニス部の後輩にしゃべるつもりで物を言う事にした。


「ねぇ、頭、下げたままだと話しにくいよ。顔、あげてくれるかな」

「ははーっ」


だからそれ、やめてくれって…


頭を抱えそうになった藤木の前で、若者が顔だけあげた。年の頃は国明と同じくらいだろう、小作りな顔に誠実そうな目が印象的だった。なんとなく副部長立石の造形をコンパクトにしたような感じだ。


「名前、教えてくれる?」


にこっと笑いかけると、若者は頬を赤らめた。


「そっそれがし、那須与三郎秀次と申しまする。秀次とお呼び下されませ」

「へー、那須の与一みたいな名前だね」


藤木は何気なく言った。古典の授業でもやったし、参考書にもよく出てくる平家物語の一部分「扇の的」の那須の与一と同じ名字だったので、本当に何気なく言ったのだ。ところが若者、那須与三郎秀次はがばりと体をおこした。


「おっおっ御渡り様には、与一の殿のことを御存じにあらせられますかっ」

「…は?」


藤木は面喰らった。秀次は目をキラキラ輝かせながら自分を見つめている。


「えっえっと、あれでしょ、平家の船の上に立てた扇の的を見事に射落としたって話…」

「御意ーっ」


またまたがばっとひれ伏した秀次を藤木は呆然と眺める。


ぎょい?ぎょえーっ、って言ったのかな?何?僕、何かマズいこといった?


ぐるぐる埒もないことが頭をまわる。平伏したままの秀次は慌てる藤木には気付かず、興奮した口調でまくしたてはじめた。


「身に余る光栄にござりまするっ。実は与一の殿は那須の本家筋にあたられまして、それがしの与三郎は与一の殿より一文字頂戴いたしました。与一の殿におか れましては酒席にて必ずこの扇の話をなされまして、それがしなど館に参る度に平家との戦話しを聞かされておりまする。いや、御渡り様も御存じとは、一族の 誉れ、与一の殿のいかに喜びましょうやっ」

「…………???」


藤木はただ目をぱちくりさせるだけだ。要するに、那須与一が御先祖だと言いたいのだろうか。


「あの~、那須の与一さんって…生きてる人…っていうか、その…」

「ははっ、五十の坂をこえますます意気盛ん、じき六十になりまするが健勝でござります」


………いや僕、親戚のおじさんの話じゃなくて平家物語の話、したんだけど…?


秀次は頬を紅潮させ興奮気味に藤木を見上げた。何と答えていいのかわからず藤木がわたわたしていると、向いの渡り廊下を国明が歩いている。助かったと藤木は立ち上がってぶんぶん手を振った。国明が気付いて側へ来る。


「何だ、どうした」

「あっあのね佐…いや、えっと榎本国…」

「殿ーっ」


藤木が口を開くより秀次が早かった。興奮した面持ちで縁のふちまでにじり寄る。


「殿、聞いてくだされ。本家の与一殿の話をでございますなーっ」

「落ち着け、与三郎。そのように大声では御渡り様がびっくりする」


お前は声が馬鹿でかいからな、と笑う国明に秀次はむぅ~っと口をとがらせた。


「本家、与一殿の武勇が御渡り様のお耳にまで届き申し上げておったとは、これが落ち着いておられましょうやっ」

「ああ、あの文治元年の戦の話か。あれはおれも耳にタコができるほど聞かされているぞ。こう、身ぶり手ぶりでなぁ」

「いかにも。萌黄おどしの鎧に重藤の弓、矢は十二束三伏の鏑矢にて」

「あ~、もうよい。そういう口調は宗高殿そっくりだ」


国明は目を見開いたまま二人を眺めている藤木に苦笑してみせた。


「この秀次の母はおれの乳母でな。それゆえ那須の与一宗高殿も伯父のようなものなのだ。子供の頃より、館を訪ねると屋島の合戦の話がはじまってなぁ」

「与一の殿が干し柿だの珍しい菓子だのをくだされるもので、それがしも殿もつい」

「こっこら、与三郎」

「あっあの…さ…」


それまで呆然としていた藤木がやっと声を出した。


「あの、それって平家との戦の話…だよね…」

「いかにも」


胸をはって言う秀次を藤木は見つめた。至極真面目な顔をしている。冗談を言っているようにはみえない。なにより、国明とのこの自然な会話は何だろう。鎌倉時代の人物の話をまるでまだ生きているかのような口ぶり…


「今…今…何年なの…?」


国明と秀次は怪訝な顔をみあわせた。


「健保元年だ」

「じゃなくって、西暦何年かって聞いてるのっ」


秀次はぽかり、と口を開けている。国明が宥めるように言った。


「お前の世界の暦はわからんのだ、おれ達には」


ぐらぐらと世界が揺れた。藤木はぺたんと円座に座り込む。嫌な汗が背中を伝った。


「か…鎌倉時代…の話…だよね…」

「鎌倉殿ならば鎌倉におわしますが…」


秀次が恐る恐る答えるのを国明は目で制して藤木の横に腰をおろした。


「お主の世界ではそう呼ぶのか?」


国明は穏やかに声をかける。


「お主の暦はわからぬが、平家は四十年程まえに滅んだ。今は源氏の世で鎌倉殿は源実朝様だ」


藤木は真っ青になったまま、ただ国明を凝視した。






がんがんと耳鳴りがする。わけがわからない。平家が滅んだのが四十年くらい前だとか、今が源氏の世の中だとか。


「古典の授業じゃないんだからさ…」


俯いたまま、ぽつりと藤木は呟いた。国明は秀次を下がらせ、今は二人きりで廊下に座っている。


「ばっかみたい。そりゃ、この間も平家物語の例文、解いたけどさ…」


わからない。彼らの話がわからない。自分が鎌倉時代に来てしまっただなんて、安手のSFじゃあるまいし。 藤木は顔を覆って呻いた。


「やだ、こんなの…いやだ…」

「藤…」


国明が気遣わしげに名を呼んだ。藤木は国明を見あげた。


「佐見…ほんとは君、佐見なんでしょ。佐見だよね、ここが鎌倉時代だなんて、冗談でも笑えないよ。ねぇ、佐見…」

「おれは佐見ではない。榎本国明だ」


僅かに顔を歪め、しかし国明はきっぱりと言った。だが藤木は食い下がった。


「だって君、僕のこと『藤』って呼ぶじゃない。みんな『藤木』っていうけど佐見だけは『藤』って呼ぶんだ。だから」

「それは…」


榎本国明がきまり悪げに頬をかいた。


「お主をはじめて見た時、花のようだと思った。名を聞けば藤木という。ならば花の名で呼ぼうと思ったのだ」

「はぁ?」


一瞬、ぽかんとなった藤木はがっくりと肩をおとした。やはりこの男は佐見ではない。


「っつか、キザ~」


その時、ピンと思いついた。


「榎本…さん」

「国明でいい」

「じゃあ国明」


国明の腕をつかむ。


「案内して。この辺りの街とか、どこでもいいよ。人が暮らしているとこならどこでもいいから」


一瞬国明はためらったが、藤木の必死な面持ちに頷いた。


「わかった。ついてくるがいい」


国明は藤木の手を取って立ち上がった。







「なんで馬ーーーっ」

「めっそうもござりませぬぞーーーっ」

「若殿、ならば我らも共にお連れ下さりませーーーっ」


藤木の悲鳴と同時に、厩の前で大騒ぎがおこった。白木の三宝に艶のある紫の絹布がかけられその上に藤木のスニーカーがのせられている。自分のスニーカーが恭しく捧げもたれてやってきたのに腰を抜かした藤木だったが、国明に連れられていった先が厩なのにはもっと腰を抜かした。


「どれがいいって、君、これ、馬じゃないーーーっ」

「馬だぞ?」

「だからっ、なんで出かけるのに馬なのさっ」

「出かける時は馬であろう」


噛み合わない押し問答をしていると、血相を変えた郎党達が飛んできた。


「危のうございますっ。御渡り様を外にお連れするなど」

「先程、野盗に襲われたばかりではございませぬか」

「だからおれが藤についていく」

「若殿っ、御渡り様を名前で呼び捨てとは、不敬がすぎますぞっ」

「あ、別に僕はいいけど…」

「あー、わかった。だから、御渡り様にはおれがついていくといっている」

「それが危ないと申しておるのですーーーっ」


郎党達の様子では、どうやら神様の使いがフラフラ出歩いてはまずいらしい。しかし、藤木はどうしても周りの様子を確かめたかった。時を越えて鎌倉時代に来ただの、馬鹿げた疑いは早めに払拭するにかぎる。


「わかったわかった。では先触れを出せ。御渡り様が我らの田畑を見回る故、加護に預かりたき者どもは平伏してお迎えせよと。辻や要所にはそなたらが警護に立つがよい。それぞれ、家にひかえておる者共も外に出て周辺を警護せよと伝えい。ならばよかろう」


それならば、と家人、郎党どもは早速門を飛び出していった。後にのこった国明がやっと藤木に向きなおる。


「で、どの馬にする」

「……………」


堂々回りに藤木は顔をしかめた。それを見た国明が可笑しそうに肩を揺らした。


「乗れぬのだな。よい。おれが抱いていってやろう」

「なっ」


藤木が抗議の声をあげる間もなく、国明は片腕でひょいと藤木を抱えると栗毛に跨がった。


「ぎゃーーっ」

「騒ぐな、馬が驚くだろう」


国明はぽんぽんと栗毛の首を叩き、鞍に横座りしたままの藤木を抱える腕に力を込めた。


「降ろし…」

「つかまっていろ」


はっ、というかけ声とともに、国明は馬の横腹を蹴る。馬は勢いよく駆け出した。


「うぎゃーーーーっ」


カエルの潰れたような悲鳴を藤木はあげた。馬が駆ける度にお尻は跳ねるわ顎がはずれそうなくらいガクガクするわで必死に国明の腕にしがみつく。国明は楽しそうに笑った。


「くっくくくくにあきーーーっ」


泣きそうな声にやっと国明は馬の速度を緩めた。今度はゆったりとした歩調で馬をすすめる。藤木は涙目になりながら国明を睨み上げた。


「ひっひどいよっ。お尻、痛いじゃないっ」

「そうか、馬ははじめてか」


何が楽しいのか、国明はまた声を上げて笑った。むっとした藤木が足をバタつかせるが、腕の力はいっこうに緩まない。それどころか引き寄せられてかえって胸に抱き込まれるような格好になった。


「周りを見たいのだろう?ならば馬上がよいではないか。それに見ろ」


国明が耳元に口を寄せた。藤木はそれにどきっとする。


「御渡り様の御加護に預からんと皆が出てきておる。笑みでもみせてやれば喜ぶぞ」


おぬしの笑みはよい風情だからな、と言われて藤木はますますむくれた。本当に、佐見と同じ顔をしているくせこの男はナチュラルにキザったらしいことを言う。からかわれていることにムカつきはするが、馬から降りるわけにはいかない藤木は、なんとか横座りから普通に馬にまたがると、後ろから更に抱き込んでくる国明を無視して周辺観察に専念した。 道といってもひどいでこぼこで、道の脇の田畑の畦には人々が平伏していた。皆、同じように汚れた小袖を着て裸足だ。彼らの家とおぼしき掘っ建て小屋があち こちに散らばっている。茅葺きで土壁の家々には窓もなく、どうやら中には床もなさそうな感じだった。ところどころに、少しはましな家が建っていたが、それ は家人や郎党達のものだということだった。

藤木は改めて愕然とした。どうみても、現代の日本ではありえない光景だ。それが延々と続いている。


「ね…ねぇ…」


藤木はやっとのことで口を開いた。


「皆、こんな家に住んでいるの?これが普通の人の格好?この人達って、何なの…?」

「あの者共は田畑を耕して糧を得ておる。藤木には珍しいのか?」


こくこくと頷く藤木に、国明はいろいろと話はじめた。


「どこの庄でもまぁ、似たようなものだ。榎本の庄はまだ豊かだぞ。皆が餓える事はない。おれの水軍の兵もいつもは田畑をたがやしている。秀次や、そうだな、一族のごく近しいものは館に住まっておるがな」


藤木は思わず振り向いた。


「じゃあ、この辺りに街はないの?」

「鎌倉のことを言っているのか?確かに、あそこは人が多いな。家も重なるようにたっている。だが、もう夕暮れが近い。これから向かうには遠すぎる」


藤木は呆然と前を見つめる。平伏した人々が藤木を拝んでいた。皆、手をすりあわせ、涙を流さんばかりの顔をしている。ありがたや、と口々に呟くのが 聞こえてきた。藤木の胸は次第に絶望に塞がれていく。信じたくない現実から目をそらすように藤木は空を仰いだ。太陽は傾き、西の空が赤く染まりはじめてい る。国明は鎌倉のことを話していた。


「藤が行きたいのであれば朝早く出立しよう。鎌倉には鶴ヶ岡八幡宮といって大きな社もある。海神が祭られておるのは江ノ島だ。美しい所だぞ」


ああ、そうだよ、僕が知っている鎌倉にだってあるさ、鶴ヶ岡八幡宮も江ノ島も由比が浜も。だけど僕が知っている鎌倉の近くにこんな場所なんかない…


藤木はぼんやり空を仰ぎ見たまま、ふと、飛行機でも通らないかな、と思った。大平洋岸沿いは国内線の航路だ。それだけではない。横須賀へ向かうアメリカ軍 の飛行機や自衛隊のヘリもよく飛んでいる。あまり気候に違いが感じられないということは元の場所からそう北や南に移動していないということだ。よしんば飛 行機が見つからなくても狭い日本、車のヘッドライトの軌跡くらいは必ず見える。ここは大平原のど真ん中ではないのだ。そうだ、生活の光をみつければいい。藤木はがばっと後ろを振り向き、はずみで馬から落ちそうになった。


「藤っ」


慌てて抱きとめる国明の腕に掴まりながら藤木は叫んだ。


「国明、高い所、どこでもいいから一番高い所、下が見渡せるところに連れてってっ」


その剣幕に国明は戸惑った。


「しかし、暗くなるぞ」

「いいんだ。暗くなった方がわかるから、お願い」


藤木は必死だった。国明はしばらく黙って藤木を見つめていたが、ふっとため息をついた。


「よかろう。ならぬと言っても、その様では一人で走って行きかねん」


それから周りを一瞥して言った。


「郎党共を振り切る故、馬をとばすぞ。しっかり掴まっておれ」


やれやれ、また秀次の小言がくるな、と呟くと、国明は馬首を返して鞭をあてる。どっとばかりに駆け出す馬の後方で、慌てる家人や郎党の声が聞こえてきたが、国明はかまわず馬を駆った。藤木は最後の望みをかけて、ただひたすら国明にしがみついていた。







国明はゆっくりと馬をすすめる。とっぷりと日が暮れあたりは真っ暗だった。明かりのない細い山道で国明は巧みに馬を操る。藤木も目はいいほうだが、国明には様々なものがはるかによく見えているようだった。

暗い山道はひどく恐ろしいものだった。黒々とした木々がざわざわと枝葉を鳴らす。時折、ぎゃあぎゃあと何かの鳴き声が聞こえてきて、藤木は体を固くした。ただ、その度に国明の腕に力がこもる。はじめは気付かなかったが、藤木が身を竦ませると国明は自分の胸の方へ藤木を抱き寄せるのだ。大丈夫だ、そう言われ ているようで、藤木はいつしか体から力を抜いていた。

山道を登りきると国明は藤木を抱いたまま馬を降りた。足に力が入らずへたり込む藤木に待っているよう言い、近くの木の幹に馬を繋ぐ。


「疲れたか」

「……お尻が痛いだけ」


いかに国明が気を使って藤木を抱えていたとはいえ、流石に何時間も馬上に揺られるのは堪えた。やっと立ち上がった藤木の手を国明は引いた。


「こっちだ」


木々の間を抜けると突然視界が開けた。藤木と国明は切り立った崖の大岩の上にいた。


「ここからなら一望出来る」


崖の下から風が吹き上げてくる。藤木は一歩踏み出しひたすら眺めた。眼下を、海岸線を、遠くに見える山の端を。

暗かった。車のライトも飛行機の点滅も、どこかにあるはずの街の明かりの反射すらない。全ては闇につつまれて、木々や山々だけが黒い影を浮かび上がらせて いた。唯一、ちらちらと見える火は国明の館とその周辺だけで、それも都会の灯を見なれた藤木の目にはひどく頼り無くうつった。


「暗い…」


誰に言うともなく藤木は呟いた。吹き上がってきた風が藤木の髪を散らす。ふとよろめいた藤木の肩を後ろから国明が支えた。藤木はそのまま夜空を見上げる。降るような星空だ。一つ一つの星が白く強い輝きを放ち、瞬きながら漆黒の海へなだれ落ちている。こんな星空は知らない、見た事がない。認めざるをえなかった。ここは藤木の世界ではない。


「ここ…ほんとに違う世界なんだ…」


乾いた笑みが口元に浮かんだ。藤木は虚ろに夜空を眺める。星々のきらめきは絶望でしかなかった。



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