第5話 月が照らす二人の道

「愛衣」

 呼ばれて顔を上げると懐かしい顔が、数冊の分厚い本を抱えて目の前に立っていた。

「悠馬」

「もうすぐ閉館時間だ」

「え、うそ」

 県立の図書館の、書架の間にある閲覧スペースは既に人の気配がなく、愛衣と悠馬だけだった。腕時計を確認すると午後七時になる五分ほど前を指していた。愛衣が机に広げていた原稿用紙とペンケースを片付けている間に、悠馬は本の貸出手続きをしにカウンターに向かった。

 借りた本を鞄の中にしまう。本独特の重みが肩にかけた鞄にかかる。この重みはそこまで苦にならないのは、愛衣も悠馬も、文芸部で本を運んでいるからである。

「ふぅっ、さむい」

 図書館から出ると、突き刺すように冷たい風が愛衣たちの顔を吹きさらした。四月なのに氷をそのまま顔に付けているみたいな気分だ。

「悠馬もいたのね」

「そう言う愛衣もいたんだな」

 愛衣も悠馬も、偶然だった。

 自転車の籠に鞄を放り込んだ悠馬が、乗ってく? と荷台を叩く。

「ここまで自転車で来たの?」

「そうだけど」と悠馬はけろりとした表情で答える。愛衣は電車で来たが、ここまで軽く一時間はかかるのに。

「乗るの? 乗らないの?」

 愛衣は少し考えてから「乗る」と答えた。


 ***


 愛衣と悠馬は、生まれた病院以来の幼馴染みだった。元々母親同士が仲がよかったためか、腹の中にいるときからのつきあいでもあるかもしれない。

 荷台に横向きで座った愛衣は、片手で鞄を抱き、もう片方の手で悠馬のジャケットを掴んでいた。中学生の悠馬が黒いライダースジャケットを着ているなんて、ちょっと生意気と思ったが、実際似合っていた。

「悠馬は高校決めた?」

 背中越しに悠馬が答える。

「うん。長野の天文台の付属高校」

「将来は天文台に?」

「いや、天文台に併設されてる図書館」

 活字中毒の悠馬らしい、と愛衣は微笑んだ。見上げると月が愛衣たちを見下ろしていた。少し恥じらうように赤くなっている。

「笑うな」

「笑ってないわ」

 悠馬には全部お見通しらしい。

 悠馬は月みたいだ。見ていないと思っていても、どこかで見ている。ストーカーみたいに危険なものではなく、見守っていてくれているという安心感があった。

 無数の星の中、暖かく旅人を導く月の光。

 愛衣と悠馬は中学三年生になって、いよいよ受験の言葉が日常でも使われるようになってきたこの頃。不安の中の、安心できる明かり。

「愛衣は?」と悠馬が聞いてくる。

 そうね、と愛衣は月を見上げながら呟いた。

 川のように流れる道を、自転車が駆け下りていく。四月の風が水のように愛衣と悠馬を取り巻いていく。ため息のように愛衣はぼんやりと答えた。

「まだ、決めてないわ」

 悠馬のジャケットを掴んでいた手を離して、宙にかざす。人差し指の裏に月を隠す。小さな月は、愛衣の細い指先にすっぽりと隠れてしまう。この指をどかしたら、いつの間にか月がどこかに消えてしまっているのではないかと思ってしまう。そんなことはなく、指を退かせてみても、月はそこにあった。

 地球と月は、だいたい384400キロメートル離れている。そして今も、年に約3センチメートルほどの速さで離れているという。安定していない距離の曖昧さは、まるで愛衣と悠馬に似ていた。

「一緒のところ、行く気は?」

 悠馬の声も風を切る。

「私も、長野へ来いって?」

 そう聞き返すと、悠馬が自転車の速度を落としながら「星、好きだろう?」と言った。赤信号に自転車を止める。ふう、と悠馬が息を吐くと、四月にも関わらず白い息が唇から零れた。

 腕時計がこちこちと動いているのがわかる。歯車が回る音が、手首に伝わり脈と同化していくようだ。

 月は、古代はカレンダーだったというのを思い出す。古代の人々は、根気よく星野動きを観察した。そして、変わらない星座の形とその上を動く太陽や月や惑星の動きに気づき、これらを神々の姿、そしてそこから時間を見た。

 時間は、目には見えない。過ぎていくこの日々を、細かくめもりで区切るととても便利だ。人と話し合えるから。三時に、あそこで待ち合わせね。と約束できる。時間を合わせて、ずっと先のことまでいろいろと計画できる。言葉は星座だと言った人がいるが、時間の中の人もそうだと愛衣は思う。

「少し、考えさせて」

「いいよ、愛衣が行きたいところへ行けば。候補にでもしておいて」

 悠馬のジャケットをぎゅっと握りしめる。手袋もしていない指先は冷たくなっていた。

「でもどうして誘ったの?」

「なんとなく、」

 自転車をこぎ始める。がたん、と動き、少しよろめく。悠馬が言った言葉には、続きがあった。

「なんとなく、愛衣はどこかに行ってしまいそうで嫌だったんだ」

「月の裏側とか?」

 冗談で言ったつもりだったが、悠馬は少し笑いながら「そうかも」と答えた。案外、真剣に考えているらしい。

「月の裏に行ってしまったら、二度と愛衣には会えないような気がしたから」

「行かないよ、どこにも」

 悠馬は返事をしなかった。

 ほのかに赤らめた月の光が二人の行く道を照らしていた。

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