第4話 桜音、またいつか
桜音、またいつか 瀬呂 花鶏
* * *
「なんか、拍子抜けだな」
式を終えた
卒業式は人生の節目、と誰もが言うけれど、そこまで重要視することか。自分がそこまで感動していないこと。嬉しさも悲しさも感じられていないこと。これが作品の主人公ならば、ここから物語が始まるのか、あるいは終わるのか。
机の横に置いたバイオリンケースを持って教室を出る。静かな場所を求めて、花鶏は階段を降りた。親や教師、在校生もいるこの状況で、静かな場所を探すというのが難しいか。部室は図書室だが、きっと後から部員たちが集まってくるだろう。申し訳ないが、今は一人になりたかった。
階段の踊り場から外を見る。よく空を見上げたこの場所から見ると、少し霞がかっているように白んでいる。この空を、今日渡っていくのかと考えると、少し怖くなってきた。
階段を降りて、昇降口から外に出る。涼しげな風が吹いて、桜の花びらが散る。
人目に付かない裏門に向かう。華やかに飾られた正門とは違って、校舎の裏側は、少し寂しげだ。そこに一つだけ桜の木がある。白っぽい花弁の桜。その下まで行くと、花鶏はバイオリンケースを地面に置いて、開けた。
深い琥珀色をしたバイオリンは、花鶏が小学生に上がる頃からの付き合いだ。すっかり手や身体に馴染んでしまっている。調弦してからバイオリンを構える。弓が弦の上を滑ると、甘い音色が吐息のように漏れ出した。
「ここで弾くのも最後になるか……」
頭上に広がる桜を見上げる。それから弓を勢いよく現に滑らせた。
パガニーニ、カプリース第24番クワジ・プレスト。
パガニーニの代表作であり、最初の作品。数あるバイオリン曲の中でも最高難易度に分類される、バイオリン独奏曲。アルペジオやピッツィカートのような、特殊な技巧が盛り込まれた作品で、弾いていて楽しいが、弾いた後の疲労感は慣れない。
激しい音色が花鶏と桜を包み込む。嵐の中の小舟のように花鶏の魂も揺さぶられる。バイオリンのような弦楽器は本能を引き出すと言われているが、こんなにも理性に直接触れられているような、甘美な誘惑にも聞こえてくる。
弦を弓で叩く。弦を指で弾く。指が痛くなるまで酷使する。この曲は弓使いも求められる。大きく、細かく、繊細と大胆な動きを繰り返す。
「卒業式にはふさわしくない選曲ね」
バイオリンの音色に負けない大きさの声に、花鶏は手を止めた。その途端、酸素が肺に満たされる。急激に入ってきた酸素に、胸辺りが痛みを覚える。それでも足りないと、酸素を求める。
声の主は、楽しそうに笑っていた。
「ほら、また演奏中に息してなかった。あたしの判断は正しかったみたいね」
「また、やってた……」
花鶏は手を胸元にやった。演奏にのめり込むと息をすることを忘れる。これまでの演奏会でも、終わった後で酸欠になって倒れることがあった。昨年の五月にあった国際音楽コンクールでも、花鶏はこの曲を弾いた直後、舞台の上で倒れたのだ。
「花鶏、いつか舞台で死ぬよ」
「それだったら本望だな」
音楽に勝ち負けなどない。どれだけ作者の意図を汲み取って弾くことができるか。それだけだ。そこに勝ち負けを入れてしまうと、作品を生み出した音楽家たちの想いが散漫になってしまいそうなのだ。
目の前が くらり と揺らいで身体が傾く。桜の幹に寄りかかると、風夏はにっと微笑んで首を傾げた。
「ねえ、花鶏。なんか弾いてよ」
「なんかってなんだよ」
「んー、例えば……あたしの名前とか」
目を細めて風夏を睨む。まったくこの幼馴染みは無茶ぶりをする。弦を揺らして弓を微かに弾いた短い音色に、風夏はむっと眉をひそめた。
「ちょっと、あたしの名前じゃないじゃない、これ顧問の結梨先生の名前でしょ!」
「うるさいやつだな。なんか弾けって言ったの、おまえだろ」
「んーもう!」
「牛か」
「レディに向かってなんてこと言うの花鶏のバーカ!」
風夏は花鶏と言い合いをするときは、必ずべっと舌を出す。いつも通りの彼女に、花鶏は思わず小さく声を出して笑った。桜の花も風に揺れて笑う。
「もうそんなこと言われなくてよくなるぞ」
風夏は「え?」と小さな声を出した。
「俺、このままウィーンに行く」
一瞬、聞き慣れない単語に風夏の目が微かに見開いた。一瞬黙ったが、微かに開いた唇から、吐息のように言葉が零れる。
「なにそれ、聞いてない」
「うん、今言ったから」
「ウィーン?」
「そう」
「このままって、今から?」
「そう」
「今日?」
「そう」
「マジ?」
「本気」
風夏の顔から表情が消え、信じられないものでも見るように花鶏を見ていた。
「ウィーンにある音楽学校に通う」
今日の夕方の飛行機で、出発する。大方の荷物は既に向こうの寮に送られている。残っているものと言えば、制服に包まれたこの身ひとつと、バイオリンだけだ。
「花鶏、もっと上を目指すの?」
静かな風夏の問いに花鶏は「そうだ」と言い切る。
「このまま、日本に閉じこもっているわけにはいかない」
花鶏のウィーン行きは夏休み前から決まっていた。国際コンクールで同じバイオリン部門に出場したギルベルト・ラングと共に、学校側から声がかかったのだ。
日本ではない場所で、音楽を学ぶ。
音楽の聖地で、学ぶことができる。
それが花鶏の背中を押した。自分のまだ見たことのない世界を見ることができる。高見があるのなら、そこへ行ってみたい。
そして花鶏は筆記試験と実技試験を受け、合格した。
「バイオリンを極めたいってのもある。俺の声は、バイオリンだから」
花鶏には、声を出せなかった時期があった。幼少期から英語だけの幼稚園に入れられたせいで、脳の発達が遅れたのが原因だ。おかげで英語も日本語も話せずに、そのうち感情もなくなった。その駆けた部分を補うように、バイオリンの技術を詰め込んだのだ。
『ねぇ。それ、弾いてみろよ』
そう言ってきたのが、目の前の幼馴染みだった。自分から名乗りもしないで花鶏の前に立った彼女は、花鶏の抱えるバイオリンを指して、そう言ったのだ。
『ふーん、おまえ、「せろ あとり」って言うのか』
自分の名前を教えたわけではない。風夏はバイオリンの音を聞いて、花鶏の名前を知ったのだ。風夏は、どういうわけかバイオリンの音で花鶏が言いたいことを理解していた。まるで通訳みたいに花鶏の言葉を周囲に伝えていったのだ。
その風夏は花鶏の話すのを、じっと聞いていた。時々ポニーテールの毛先をくるくると弄ったり、風に散る桜の花びらを目で追っていたりする。
「ふーん、花鶏よかったじゃんか! これで毎日クロエちゃんと一緒にいられるじゃないの!」
ぱっと笑顔になったと思ったら、風夏は遠距離恋愛中の彼女の名前を出してきて、花鶏はつい「は?」と素っ頓狂な声を上げた。
「いや、クロエは行かねぇよ」
今度は風夏が「はい?」と気の抜けた声を出す。こいつの頭、大丈夫か?
「おまえ……地理大丈夫か?」
「う……」
「クロエはミラノに住んでることくらい知ってるよな? 俺が行くって言ったのはウィーンだっつーの」
風夏は大きな目をぱちくりさせて、首をこてんと傾けてみせた。
「あれぇ? ウィーンってヨーロッパじゃなかった?」
「ヨーロッパはヨーロッパだけど、国が違ぇよ。ウィーンはオーストリア。ミラノはイタリア」
風夏は頭を捻っていたと思ったら「あ、そっか~」と納得したように両手をパンと叩いた。
「おまえよくそれで中学卒業できるな」
「花鶏こそ、英語できないくせに!」
「フランス、イタリア、ドイツ話せるからいいんだよ」
「うっわ、出ーたーよー、花鶏の頭良い発言ー」
こうして気を許して言い合える友がいなくなるのは、どうも心に穴が開いたような気分がする。賑やかな夏の風が、穏やかな秋風に変わるみたいだ。
向こうでも、そんなふうに言い合えるような人間がいるとも思えない。ライバルたちは皆、ヨーロッパ《むこう》の人間だ。今まで連絡を取ることはあっても、そうそう関わることもなかった。
ひとしきり言い合った後、風夏は生徒手帳をポケットから抜き出した。はらりとページをめくると、さらさらとペンを走らせる。書き終わってからそのページを破り、無言で花鶏に突き出した。
風に飛ばされないようにしっかりと受け取った花鶏は書かれた内容を見て「なにこれ」と可笑しそうに笑った。
『天高く手を伸ばして、そのまぶしさに焼かれぬようにひた進め』
『その弦を鳴らす指先に落ちる音が、三十一文字であれば幸い』
『瞼の裏、桜吹雪の残像が呪いのように消えてくれない』
『雨の夜は五線譜を弾いて 聞こえるか聞こえないかの小さな歌を』
『五線譜の奏でる道をひた歩む君への餞別、さよならカノン』
それはどれも、今生み出された言葉たち。
風夏が操る、三十一文字の小さな宇宙。
「餞別」
得意げに腕組みして風夏はそう言い放った。
「向こうに行っても頑張れ。でも頑張りすぎるな。負けてのこのこ戻ってきたら、承知しないから。大丈夫。花鶏なら絶対やれる」
ざぁっと風が吹き、桜吹雪が空に舞う。
贈られた言葉が飛ばされないように、しっかりと掴む指に力を込め握りしめる。この言葉に、どれだけ助けられたことか。
大丈夫、と言う根拠を聞いたら「直感」と言われそうだ。風夏はいつもそうだ。対して考えていない。自分の信じることに一直線で、その時の笑みは、いつも鮮やかに彼女を彩る。そして彼女の直感はいつも当たる。
花鶏はふふっと微笑んで、鮮やかにバイオリンを構えた。
「何がいい?」
風夏はすぐさま「あたしに似合う曲」と答えた。
調弦してから、弓を滑らせる。ゆったりとしたテンポで一音一音、大切に弾く。三小節目から六小節目の四分音符。ゆっくりと音を重ねていく。風夏は、花鶏が何を弾いているかすぐに理解したように、瞼を閉じた。
流れてきたのは、パッヘルベルのカノン。さっきの卒業式にも聞いたメロディ。この華やかな曲は、風夏によく似合う。単純なメロディだけれど、奥が深い。多彩なアレンジができ、アンサンブルでも楽しめる。そんなところが、風夏らしいく思えるのだ。
風夏は一音も聞き逃さないようにと、耳を澄ませている。
正直、ウィーンで上手くやっていけるか不安でしかない。けれど、風夏に背中を押してもらえた今は、なんとかなる気がしてきた。言葉って不思議だ。たったひとひらの言葉でも、こんなふうに前を向く勇気をくれる。
次に演奏を風夏に聞かせられるのは、いつになるか。
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