第3話 さよなら、カノン
さよなら、カノン 雨宮 風夏
* * *
卒業式は絶対に泣かないと言っていたクラスメイトたちが、ぼろぼろと泣き出す。そんな光景を見ながら
「あー……退屈」
口に出して見るも、風夏の声は同級生の答辞にかき消されて隣の子にも聞こえなかったようだ。
中学校の卒業式は退屈きわまりない。クラスに大した思い出などない風夏は、ぐずぐずとすすり泣く声を聞きながら(これが終わったら春休み、これが終わったら春休み……)と心の中で呪文のように唱えていた。卒業式はとろとろとしたクラシックみたいで、じっとしている風夏にはまるで茨の檻に閉じ込められているみたいだ。背中がむずむずしてきて、早く抜け出したかった。
* * *
「あーいちゃーんっ!」
式が終わって体育館から出ると、同じ文芸部の
「風ちゃん」
愛衣も退屈そうにしていたのか、すんとした表情だったが、風夏を見るなり穏やかな笑顔になった。
「愛衣ちゃん泣いてた?」
「まさか。風ちゃんこそ泣いてないのね」
「このあたしが泣いたりするもんですか」
肩をすくめる横で悠馬がぼそりと呟いた。
「そりゃそうだ。愛衣も部長も普通の女の子とはとは違うもんな」
「悠馬! それどーゆー意味よ!」
「どーもこーもありゃしねーよ」
悠馬はこんな時も文庫本を手放さない。まさか式中でも読んでいたのか。いくら活字中毒と言っていても重症だ。よく教師に見つからなかったなと感心してしまう。
風夏はあたりをきょろりと見回し、もう一人の部員の名前を呼んだ。
「ところで、
「え?」と愛衣は首を傾げる。「そういえば、花鶏見てないわね」
「あいつならそそくさと教室に帰ってったぞ」
「え~! あいつ相変わらずつれないわねー! 後で部室に引っ張ってくわ!」
「あんまり乱暴してやるなよ。あれで結構繊細だ」
「うるっさいわね、悠馬に言われなくったってわかってますよそんなこと!」
悠馬に向かって べっ と舌を出した。
* * *
クラスで卒業証書と花束、それから卒業アルバムをもらうと、風夏はすぐに教室を出た。この時間帯、三年生の教室からは拍手だったり歓声だったりが聞こえてくる。
愛衣も悠馬も、まだこの時間帯は自分の教室だろう。部室に行ってもあまり期待はできないだろうな。廊下の窓から見える校庭は、微かに煙がかかっているような気がする。春霞だ。
「手のひらに落ちた桜は知らないわ。胸に広がる不安なんて」
言葉を集めて三十一文字にすることもすっかり習慣になってしまった。詩歌が得意だった風夏も、少しは短歌も詠えるようになった。韻とかなんとかは知らないままだけれど、それこそが風夏らしい作品とも言える。今回の文芸部の部誌にも、これまで作った短歌をいくつか載せている。
そんな中で、ふと風夏の耳をなにかが掠めた。はっと顔を上げると、よりはっきりと聞こえる。意識の奥に直接触れられているような、深くて甘美な音色。階段の踊り場の窓から外を覗く。桜の木の下。風夏はその場から駆け出した。
運動靴に履き替えずに校庭に出る。人目に付かない裏門の方から聞こえる。校舎の裏側には、一つだけ桜の木がある。まるでぽつんと取り残されたように、寂しげに立つ白っぽい花弁の桜。その下で、見知った少年がバイオリンを弾いていた。
バイオリンというと、バラードのようなゆったりとした曲調を思い浮かべると思うが、そんな生やさしいものじゃなかった。風夏はこの激しい曲を知っている。
「………パガニーニのカプリース第24番クワジ・プレスト」
この曲を聴いていると、風夏は魂ごと揺さぶられて、嵐の中で踊らされているような感覚に陥る。
超越技巧のバイオリニスト、パガニーニの
代表作。数あるバイオリン曲の中でも最高難易度に分類される楽曲。
風夏の目は、演奏している彼の表情を慎重に観察する。額に雫が浮かび、瞼は固く閉じられている。時折唇が開き、微かに息を吐き出している。
「卒業式にはふさわしくない選曲ね」
バイオリンの音色に負けない大きさの声で、演奏を中止させる。風夏の声を聞いた少年、
「なに?」
吐き出される息と一緒に、不満げな声が零れる。
「ほら、また演奏中に息してなかった。あたしの判断は正しかったみたいね」
花鶏は演奏にのめり込むとバイオリンと一体になろうとするせいで、呼吸を忘れるという悪い癖があった。そのせいでこれまでの演奏会でも、終わった後で酸欠になって倒れることが多かった。どうしてそこまでのめり込むのか、気になっていたけれど風夏は一度も聞いたことがない。
「選曲にいちいちおまえの意見なんて聞いてられるか」
「花鶏、いつか舞台で死ぬよ」
「それだったら本望だな」
花鶏とは幼稚園の頃からの付き合いで、その時から花鶏はバイオリンを弾いていた。子供用の小さいものではなくて、大人が使う大きいバイオリンを操っていたのだ。それでいて、大人顔負けのアルペジオを習得していたのだ。
ふぅ……と息を吐いて、花鶏は桜の木により掛かる。そんな彼の姿は儚く見えて美しかった。こういうとき、もう少し言葉が欲しいと風夏は思う。今の彼の状況を語ることができる、ぴったりの音が見つからない。言葉に関してはまだまだ修行不足だなと、うっすらと笑う。
調弦をする花鶏に、風夏は思い出したようにふわりと行ってみせる。
「ねえ、花鶏。なんか弾いてよ」
「なんかってなんだよ」
「んー、例えば……あたしの名前とか」
花鶏は悪い目つきをさらに細めて風夏を睨んだ。それでもやれやれ、と肩を落としてバイオリンを構える。弦を揺らして弓を微かに弾いた短い音色に、風夏は眉をひそめた。
「ちょっと、あたしの名前じゃないじゃない、これ顧問の結梨先生の名前でしょ!」
「うるさいやつだな。なんか弾けって言ったの、おまえだろ」
「んーもう!」
「牛か」
「レディに向かってなんてこと言うの花鶏のバーカ!」
べっと舌を出してみる。挑発に乗るかと思われた花鶏は、風夏の予想を裏切ってふっと柔らかい笑みを浮かべた。
「もうそんなこと言われなくてよくなるぞ」
「え?」
「俺、このままウィーンに行く」
一瞬、聞き慣れない単語に風夏の思考が停止した。
「なにそれ、聞いてない」
「うん、今言ったから」
「ウィーン?」
「そう」
「このままって、今から?」
「そう」
「今日?」
「そう」
「マジ?」
「本気」
花鶏の声はきっぱりと続けた。
「ウィーンにある音楽学校に通う」
しばらく呆けていた風夏の頭に、桜の花びらが落ちてきた。なんだか遠い世界の話をされているみたいで、小説にあるようだなとか思ってしまった。春風が風夏のポニーテールを大きく乱す。
「花鶏、もっと上を目指すの?」
風夏の問いに花鶏は「そうだ」と言い切ってみせた。パガニーニをミスなく弾くことができる花鶏は、もう立派なバイオリニストだ。それでも彼はもっと先を目指している。
「このまま、日本に閉じこもっているわけにはいかない」
花鶏はうっすらと青い空を見上げる。
「いつから、そんなこと考えてたの?」
「三年になってから。五月に、国際コンクールあったの覚えてるだろう」
息を潜めて風夏はこくりと頷く。パガニーニは、その時の花鶏の課題曲だった。
「あそこで、ギルベルトやシェーラ……ライバルたちと手合わせしてもっと上があることを知った。ヨーロッパには、まだ俺が出会ったことのない音楽があるかもしれない。それを知りたい」
一旦言葉を切ってから、花鶏は続ける。
「バイオリンを極めたいってのもある。俺の声は、バイオリンだから」
花鶏は幼少期、過度な英才教育を受けていた。それが発達に影響して、日本語も話せず、感情も乏しい時期があった。その時、バイオリンで話していた過去を持つ。声が出せるようになったのは小学二年生のときで、風夏はその時初めて花鶏の声を聞いたのだ。
「ふーん、花鶏よかったじゃんか! これで毎日クロエちゃんと一緒にいられるじゃないの!」
クロエは三つ年上の風夏の幼馴染みで、花鶏の彼女だ。只今、ユーラシア大陸を挟んで遠距離恋愛中。
「は?」
花鶏は素っ頓狂な声を上げた。
「いや、クロエは行かねぇよ」
今度は風夏が「はい?」と気の抜けた声を出す。そんな風夏を花鶏は呆れたように目を細めて眺めた。
「おまえ……地理大丈夫か?」
「う……」
「クロエはミラノに住んでることくらい知ってるよな? 俺が行くって言ったのはウィーンだっつーの」
風夏は首をこてんと傾ける。
「あれぇ? ウィーンってヨーロッパじゃなかった?」
「ヨーロッパはヨーロッパだけど、国が違ぇよ。ウィーンはオーストリア。ミラノはイタリア」
「あ、そっか~」
「おまえよくそれで中学卒業できるな」
「花鶏こそ、英語できないくせに!」
「フランス、イタリア、ドイツ話せるからいいんだよ」
「うっわ、出ーたーよ、花鶏の頭良い発言ー」
こうして言い合っているけれど、それもあと少しの時間で終わるのか。そう思うと、風夏も少し寂しく感じてきた。置いてけぼりを食った気分だ。
風夏は、生徒手帳の空白のページに、ペンを走らせた。書き終わってからそのページを破り、花鶏に渡す。風に飛ばされないようにしっかりと受け取った花鶏は書かれた内容を見て「なにこれ」と可笑しそうに笑った。
「餞別」
腕組みして風夏は言い放った。
「向こうに行っても頑張れ。でも頑張りすぎるな。負けてのこのこ戻ってきたら、承知しないから」
ざぁっと風が吹き、桜吹雪が空に舞う。
「大丈夫。花鶏ならやれる」
そう思う根拠はない。ほとんど直感だ。
花鶏はふっと微笑んで、バイオリンを構えて問う。
「何がいい?」
「あたしに似合う曲」
調弦してから、弓を弾く。流れてきたのは、パッヘルベルのカノン。さっきの卒業式にも聞いたメロディだけど、花鶏が弾くバイオリンだけの旋律の方が風夏は好きだ。一音一音、聞き逃さないように耳を澄ませる。
すっと立ち、指先やつま先までバイオリンと一体になろうとする花鶏の姿が、風夏は好きだった。それがもう見れなくなる。桜吹雪の幻みたいに忘れないように、瞼の裏に焼き付ける。
* * *
『天高く手を伸ばして、そのまぶしさに焼かれぬようにひた進め』
『その弦を鳴らす指先に落ちる音が、三十一文字であれば幸い』
『瞼の裏、桜吹雪の残像が呪いのように消えてくれない』
『雨の夜は五線譜を弾いて 聞こえるか聞こえないかの小さな歌を』
『五線譜の道をひた歩む君への餞別、さよならカノン』
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