第2話 Happy Birthday 雪彦
三月三日。
世間一般では桃の節句、『ひな祭り』の日だ。
朝、目が覚めた雪彦は起きる気力もなかった。今日が誕生日だというのにこんな気分なのも、全部、ひな祭りの日に生まれたということが引っかかっていた。
今思い出しても嫌になるくらいの汚い言葉が、胸の隅に溜まっていた。ベッドの中で寝返りを打つ。
「こんな子に生まなければ……」
「そもそもおまえが三月三日なんて日に生んだから……」
「だからこんな中途半端な……」
「男しか好きになれないなんて……」
「気持ち悪い……」
「こんな子は……」
「更生させなければ……」
はっと目を覚ます。背中がびたりと濡れていたのは、布団の中の温度のせいだけではない。最近は落ち着いていたが、まだ夢に出てくる。けれど今回はまだ殴ったりするところまで見なくてよかった。
そのまま眠ってしまっていたのか、もうすっかり空は茜色になっていた。くぅー と腹が鳴った。今空が茜色ということは、昼飯も食べていないんだっけ。
「雪彦兄者、起きた?」
「まだみたい」
「でももうすぐ夕飯だぜ?」
「起こす?」
「起こす?」
なにやら小声が聞こえてくる。おとぎ話に出てくる小人のようにこそこそとしたしゃべり声。
「「せーのっ!」」
かけ声とともに大きな塊が雪彦の腹部目がけて飛び込んできた。空腹のせいか、ダメージがいつも以上に酷かった。
「雪彦兄者!」
「起きたー!」
小人の正体は、嵐志と結衣だった。
「もうすぐ夕飯だって!」
「早くおいで!」
「ほら起きてー!」
「寒いからこれ羽織ってー!」
代わる代わる嵐志と結衣に引っ張り起こされ、カーディガンを着させられ、されるがままになって、二人に手を引かれて部屋を出る。有無を言わせない。
「あ、雪彦さん。おはようございます」
今の時間帯に似つかわしくないあいさつをしたのは、愛衣だ。彼女はひよこマークのエプロンを着けて、リビングに食事を運んでいた。今日はキッチンのテーブルじゃなく、リビングで食べるのか。
「今日は趣向を凝らして、手巻き寿司にしてみました。顔洗って来てくださいね」
言われるがままに洗面台に行くと、大樹と鉢合わせした。
「やっと起きたか、このねぼすけ」
大樹はそう言って髪をくしゃくしゃと撫でていった。
***
夕食の直前、結衣がいきなり立ち上がった。
「ゆきひこお兄ちゃんっ、お誕生日おめでとうございますっ!」
そう言って差し出したのは、猫のキャラクターのぬいぐるみだった。雪彦でも両手で抱えるくらいの大きなもの。突然のことに呆気にとられていると、大樹が「受け取らないなら俺が……」と手を伸ばすものだから、慌てて受け取った。
「……今日は、ひなまつりじゃ……?」
「それもありますけど、この家では誕生日の方が優先されるんですよ。なので今日は、雪彦さんのお祝いなんです」
愛衣がこてんと首を傾げた。大樹も続ける。
「それがこの家の方針。行事はずっと前から世間で騒いでるけどさ、誕生日は一日しかないだろう?」
そう言って大樹も結構大きい包みを雪彦に投げてよこした。開けてみると黒いショルダーバッグが入っている。
「雪彦兄者っ! コレ俺から! 今即興で作った!」
嵐志が出したのは長細い一枚の紙切れ。見ると『なんでもタダ券』と書いてある。
「生ものですのでお早めにっ!」
「生もの?」
「一週間しか使えませんっ!」
嵐志には毎回発想に驚かされる。
愛衣からはハンカチを三枚と革の靴べらを貰った。靴べらには雪彦のイニシャルが刺繍されていた。
「……いいの?」
「なにが?」
「こんな……立派なもの貰って……」
「遠慮しないでください。雪彦さんの誕生日なんですから」
隣に座った愛衣が、優しく微笑みかける。それだけで胸が苦しくなるのはどうしてだろう。親からも生まれてこなきゃよかったと言われた身で、こんな素敵なプレゼントを貰って、いいのだろうか。
「俺は………生まれてきてよかった?」
ぽつりと零すと、辺りが しん と静まりかえった。
「なに言ってんの? 当たり前じゃん!」
嵐志に続けて結衣も声を上げる。
「生まれてきたらいけない子なんていないもん! お母さんが言ってた!」
その言葉に雪彦の目から、知らずの内に雫がこぼれ落ちた。胸に抱いた猫のぬいぐるみに染みを作る。愛衣がそっと指先で雪彦の頬を拭った。
「雪彦さん、生まれたからこそ、私たちは出会えたんですよ」
「そうだぞ雪彦。そうじゃないと、俺は弓道してなかった」
大樹も隣に座るとくしゃりと頭を撫でた。それが今までにないくらい暖かくて、穏やかで、少し苦しくて。たくさんの想いが一気に涙となって溢れた。
「ほら、泣くな泣くな。このあとケーキだってあるんだからな。口の中しょっぱくなっちまうだろ」
「ゆいが作ったのよ!」
ぽろぽろとこぼれ落ちる涙を拭う。愛衣がくれたハンカチを早速使うことになってしまったが「大丈夫ですよ」と拭ってくれた。
こんなふうに誕生日を祝ってもらったのは初めてだった。親にさえ祝ってもらえなかった。今まで自分の誕生日なんて忘れていたも同然だったのに。
「ごめん」
「雪彦兄者、言うことはそれじゃないよ」
「ふふっ…そうだね、嵐志くん」
泣き笑いのまま雪彦は顔を上げた。
「ありがとう」
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