未完成の最大幸福論 short story

青居月祈

第1話 明日の月は…

「大樹、起きて」

 ソファーで眠っていると肩を優しく揺らされた。また寝落ちていたようだ。読んでいたアガサ・クリスティの文庫本がソファーの下に落ちていた。陽が落ちて眠くなる体質はけっこう厄介で、一向に治る気配はない。。瞼を開くと、雪彦が頭側に座って頭を撫でていた。

「なにしてるの?」

「頭撫でてただけ」

 雪彦の細い指が前髪を弄っている。時間を聞いたら午後二十三時を回っていた。あと少しで日付が変わる頃合いだ。

 雪彦が唐突に「大樹。今日、なんの日かわかる?」と質問してくる。彼の膝に頭をのせながら聞き返した。

「何って……今日何日?」

「二月十四日」

「あぁ……バレンタインか」

 と言ってもあと数十分で終わってしまう。大樹も雪彦もバレンタインにはチョコをたくさんもらってくるが、最近は胸焼けもするしなにより雪彦が甘いものが好きでないため、断ることが多くなっていた。

「で、そのバレンタインがどうしたんだ?」

 雪彦の膝上で目を閉じながら再び尋ねる。

「作った」

「……え?」一拍置いて大樹は聞き返した。雪彦を見上げながら、確認する。「雪彦が?」

「そう」

「チョコを?」

「そうだけど」

「あの包丁持てない雪彦が?」

「……失礼な」

 雪彦は形の良い眉を寄せて、大樹の頭を持ち上げた。起きろという合図だ。身体を起こすと、白い箱に水色のリボンがかかった小さな小箱がテーブルの上に置かれていた。その横にはコーヒーが入ったマグカップが二つ、用意されている。

「ずいぶん準備がいいことで」

 リボンを解き、箱を開ける。生チョコレートのボールが三つ、仕切られた箱の中に丁寧に入れられていた。チョコとラッピングは妹の愛衣と結衣に手伝ってもらったと雪彦は付け加えた。

「じゃあ、ありがたくいただくよ」

 口に入れた生チョコは、表面がカリッとした食感で、中はしっとりとしていて、口の中の温度ですぐにとろけた。とろけた後の舌触りも滑らかだった。

「……これ、本当に雪彦が……?」

 半信半疑で隣に座る雪彦を見ると「まだ信用してないか、コイツは」という目で大樹を睨んできた。

「愛衣くんと結衣くんの指導が良かったんだよ。毒じゃなくてよかったな」

「毒ね……そら恐ろしいこと言うな」

 大樹の背筋がぞくりとざわめいた。ミステリーの女王アガサ・クリスティは、毒殺の際にチョコレートをよく使う。チョコの独特な甘さと苦みが、毒をカモフラージュするそうだ。

 コーヒーを飲み干した大樹は、マグカップをテーブルに置いた。コーヒーを飲むと目が冴えると言うが、大樹の場合は逆に眠くなってしまう。

 雪彦は組んだ太ももに片肘をつき、頬杖をついて大樹をじっと見つめた。その妖艶な目つきはチョコの甘美さをそのまま表現したようだった。

「ねぇ、大樹。明日の月は綺麗だろうね」


 ***


 腕の中で眠る大樹の顔は、安らかだった。

「おやすみ、大樹」

 雪彦はその額に口づけをして、まだ小箱に残っていたチョコをひとくち、囓った。

「大丈夫。俺もすぐ行くから」




明日の月は綺麗でしょうねあなたを殺します。』

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る