兄の厄介事3
聞こえてきたのは、心地よい川のせせらぎだった。
真っ暗闇に閉ざされた視界に聴覚から得た情報を頼りに情景が浮かんでくる。
見上げれば、木々になる葉が擦り合い、さわさわと風に揺れている。久しぶりに嗅いだ土草のにおいは懐かしく、胸が落ち着く。それを運んできたそよ風は優しく頬を撫で、誘うかのように背中を押す。
何も見えないというのに足は進み、足下からはパキパキと小枝が割れる音がし、そこで初めて自分の足裏に小枝を踏む感触に気づく。
やがて踏みしめる小枝は疎らになり、かわりに砂利が広がる。少し歩くと石畳が真っ直ぐ敷かれていた。
あぁ、ここはどこかの神社かお寺の境内だろう。
進む足が止まる。胸いっぱいにここの空気を吸い込み、自然と頬が緩む。宙に浮いてるかのような感覚が徐々に地へ落ち着く感覚へと変わっていく。
どうやら私は生きているらしい。もしも黄泉の世界へ通じる、あるいは天国への門をくぐってしまったのだとしたらどうしようと、門をくぐってから湧いた疑問は程なくして解消された。
聴覚、嗅覚、触覚、あと視覚さえ取り戻せば今すぐにでも兄を探しに行ける。たとえここが、黄泉の世界だったとしても、力づくで兄と帰ってやる。
「お兄…」
声が出た。当たり前のことだが、なぜかほっとする。
「唐紅月深」
突如降ってきた声にびくりと肩を揺らし、知らない声の主を探すも、その姿は見当たらない。だがそのまま何者かは奇妙なことを言う。
「〝常世〟へようこそ。いや…おかえりだね。と言っても君には理解できないか」
声の主は嘲笑うように、しかし哀れみをこめて嘆いた。勝手にそんな風に見られても困る上に、上から目線の物言いは癇に障る。
どいつもこいつも名乗りもせず一方的に話を進めるのだ。相手は私を知っているかのような口振りで、私だけがなにも知らないかのように、置き去りにされている気分だ。
いや、実際に実の兄に文字通り置き去りにされているではないか。全部あの兄貴がいなくなってから始まった。すぐに見つけ出してこれでもかってくらい罵倒しなければ気が済まない。
私はため息一つ、そう、とてもながーいため息一つ吐いてから、誰に言うでもない独り言を呟く。
「常世は常に夜のことだったかな。だからかなぁ…いつになっても、目が覚めない」
「………」
闇から聞こえてきた声の主はすぐには答えなかった。私の言いたいことが、呑み込みの早さが予想できてなかったのだろう。
意識はあるのに視覚だけが奪われた状態。無意識層を浮遊しているのだろうか。ここに私を閉じ込められると思ったのだろうか。残念ながら、私の意志はそんなもので縛られることは無い。兄と私の絆を容易く縛ることはできない。何者かは知らないけど、この気持ち、汲み取れるよね?
「…いいだろう。眠り王とともに、今回も常世を頼んだよ。唐紅月深」
刹那───、
真っ暗闇に閉ざされていた視界から真っ白な世界が飛び込んできた。故に、何も見えない。光に身が包まれる中、頑なにまぶたが開くことを拒否し、声の主の姿は見て取れなかった。そしてそのまま───、
「───っ!」
はっ…と息を吐き出す。どうやら意識を手放さずにすんだようだ。というより、完全に感覚を取り戻し、生き返ったかのような気分だ。
目を覚ました時に無意識に上体を起こしていたらしく、最初に目にしたのは膝にかけられた掛け布団だった。そのまま上へ視線をやると、そこは木造でできた居間だった。
畳の上に敷かれた布団に、私は寝転がっていたようだ。古時計がふりこを左右に揺らす音以外何も聞こえてこない。辺りを見回しても何もなく、襖に囲まれていた。客間だろうか。
誰かいないかと襖に手を伸ばしたその時だった。
「目が覚めましたか?」
見計らったかのような絶妙なタイミングでサッと開かれた襖に私は体いっぱい使って慌てふためく。
「うわぁあ!」
間抜けな声とともに。
「すみません、驚かせてしまいましたね。大丈夫ですか?」
ずってん、と畳に尻を打ち付けたところで私は差し伸べられた手に気づき、顔を上げるとにこりと笑いかける爽やかな青年を認めた。
「僕はここで薬屋をやっている、
「え、いえいえ!というかありがとうございます!私は…えと、唐紅月深と言います」
何者かは流石に答えられなかった。それでも青年はさも気にせず笑みを崩さず、
「月深さんですか。いい名前です」
好青年っぷりを見せつける。第一印象の好感度マックスです。どこかの眠たそうな子や声しか知らない輩とは大違い。
この人ならと思い、私は唐突に突拍子もないことを、しかしとても重要なことを確認するため、問う。
「あの、ここはその…黄泉の国、ですか?」
──────────────────
数秒の間、ただでさえ静寂な空間に沈黙が流れた。ごくりと生唾を呑む私は煎国と名乗る青年の、雲ひとつない空色の瞳を見つめた。彼はそんな私をまじまじと見つめ返し、ふっと優しい笑みを浮かべた。
「黄泉の国ですか、面白いことを言いますね。ですが、あながち間違いではないかもしれません。ここは常世。現世とは相反して存在する世界です」
安堵もつかの間、私の不安は大きくなるばかり。そして言ってる意味が理解できず、素直に首を傾げた。
「えと、いまいちよく分からないです」
たはっとはにかむと、煎国さんもから笑いし、黄金色のふわふわとした髪をかいた。
「そうですよね、すみません、説明が下手なもので」
口調と言い、仕草といい、何よりこの笑顔がなんとも言えない可愛さで私は焦りがなくなり、落ち着いて説明を聞くことが出来た。
「常世と現世では同じものが存在することはありません。よくあるのが、現世で失ったものが、常世へくる。例えば、肉体から離れた魂とか」
「じ、じゃあやっぱり…」
ひやりと悪寒が背筋を這う。煎国さんは困ったように目尻を下げ、しかしはっきりとした声音で言う。
「あながち間違いではないんですよね」
あはは…じゃない!笑って誤魔化してるけどさすがにこれには言葉に熱がこもってしまう。そして勢いで事情の一部を明かしてしまう。
「待って!私は現世から来たの。ってことは現世の私は消滅…死んだってことになるの!?」
訳が分からないこの状況を整理したく、煎国さんには申し訳ないが、問いを続ける。
「もう現世には戻れない?」
しかし、懐広い煎国さんは落ち着いて丁寧に返してくれる。
「それはわかりかねます。貴方には強い霊力を感じます。それこそ、常世と現世を行き来できる、霊王たちと同等の。どういった原理かは説明できませんが、霊力の強い人はそうそう
「そうは言われても…」
霊力が強いのは自分でも自覚していた。しかし異界に行けるなんてまるで知らなかった。というか、霊力のないお兄は本当にここにいるのだろうか。
あれこれ云々唸っていると、煎国さんが立ち上がった。顔をあげようとし、私はハッとした。視線は煎国さんの足元。足袋を履いてる。ということは、と視線を上へやるとやはり、煎国さんは白と紺の袴を身にまとっていた。
和は大好物である。この常世と呼ばれる世界はそういう風習があるのかと胸が踊り出す。私は素早く立ち上がり、外を見に行こうと張り切ったその時だった。
きゅるるる…。
どこからか腹の虫がなく音が聞こえた。ハッとしたのはもちろん私で、徐々に頬が熱くなる。力を抜いたせいとは言え、聞かれてしまったことに変わりはない。
私は軽く咳払いし、から笑いして誤魔化した。煎国さんは太陽のように柔らかで暖かい眼差しでそれを笑ってくれた。
…天使。どうやら私はいい人に巡り会えたようだ。どこかの強引な人とは違って。
「月深さん、良かったら一緒にご飯に行きませんか?」
「え?」
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