第146話【閑話】村で唯一の酒場

 トントントントン、と酒場の中に軽快な音が響く。

 少し傾いた太陽の光が窓から伸び、カウンターの中で包丁を振るう男を照らした。

 昼の客が仕事へと戻っていき、太陽が沈みかけるまでのこの時間は、男にとって夜の仕込みの時間だった。


「ふう」と一息ついて、男は細かく叩いた材料を大鍋へと入れた。そして奥の倉庫へと向かい、野菜と山菜を取り出して台に並べた。

 この野菜は村で今朝採れた新鮮なもの。山菜も村の周囲の森で猟師が採ってきたところだ。何もない村ではあるが山の幸が豊富で食べ物に困らない事が、男の、そして村の誇りであり、自慢でもあった。


 丸い野菜の皮を剥き、トントントンと細かく刻む。

 男が男の親から受け継ぎ、そしてその親もまた親から受け継いだ秘伝のシチューは、いくつかの材料をドロドロに煮溶かす事が味の決め手。細かく刻んだ方が煮溶かしやすいのでそうするのだが、はっきり言って手間がかかる。

 しかし、それでも男は思う。『秘伝の味を守りたい』と。

 父、そして祖父が守った伝統を守りたいと。

 適当にすれば楽かもしれない。しかしそれでは伝統の味が出ないのだ。


 細かく刻んだ野菜を大鍋へと流し込み、井戸から汲んでおいた水を桶から注ぐ。そして細い薪を大鍋の下の窯へと突っ込み、かすかに火が残る炭を灰の中から掘り起こして薪に点火する。これでシチューの下準備は完了。あとは煮込むだけだ。

「ふう……」

 大きく息を吐き、額の汗を拭う。

 季節は既に夏。熱源の多いキッチンでの作業は体力を奪っていく。

 しかし男の仕事はまだ終わらない。まだメインディッシュの準備が残っているのだ。

 男は店の裏手へと向かい、軒下に吊るして体液抜きをしていたソレを掴んで店に戻り、まな板の上にドンッと置いた。


 エルキャタピラー。それはここの村人が愛してやまない食材。その味はクリーミーで濃厚。一口食べれば止まらなくなる、後を引く味が特徴だ。

 村に来た商人が『北の方のチーズに似ている』と言ったが、これと似た味の食材が他にもあるなんて男には信じられない事だった。男にとってエルキャタピラーは唯一無二、他に変わるものなどない食材なのだ。


 男はエルキャタピラーに包丁を入れ、緑の皮を剥いでいく。

 やはりモンスターだからなのだろうか、表面の皮は少し硬く食用には向かないのだ。

 皮を剥き終わると、今度は慎重に輪切りにしていく。

 エルキャタピラーの身は柔らかく、慣れていないと綺麗に切るのは難しい。『村の女はエルキャタピラーを潰さずに捌く事が出来て一人前』と言われる程だ。熟練の技が必要とされるのだ。

 輪切りにしたものを十字に切り、まな板に敷き詰めるように並べる。そして後ろの棚から塩が入った壺を取り出し、塩を一掴み。そして手首をクイッと曲げて天空からパラパラとかけていく。

 塩をまんべんなく振りかけるにはこれが一番なのだ。

 まさに熟練の技。

 これでエルキャタピラーステーキの下準備も完了した。


 そうこうしている内に大鍋の蓋がカタカタと音を立て始めた。

 男は「……そろそろか」とつぶやき、大鍋の蓋を取っておたまで鍋の中をクルクルとかき混ぜ、味見をしてから塩を足す。勿論、手首クイッからの天空落としはしない。今回は熟練の技は必要ないからだ。

 そして隠し味の刻みハーブを大鍋に投入。

 最後に大鍋の中を軽くかき混ぜ、そして味見をした。

 溶け込んだ野菜の味。素材から流れ出した旨味。クリーミーで濃厚で……最後にハーブの風味が鼻から抜ける。

 男は小さく頷き、かすかに微笑んだ。

「旨い」

 男は無意識につぶやいていた。


 こうしてエルキャタピラー料理を極めたと噂される一族の店は夜の営業を始めたのであった。

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