第五節 学園長への賄賂
午後、食堂でしっかり腹ごしらえをしてから、レグルスとユアンは職員塔の最上階にある学園長室へと向かった。エミリオから届いたハーブティーをミアに届けるためだ。
大樹のうろの中に住んでいたと伝えられる、風の民の住居を模して作られた職員塔。内壁に沿って伸びる長い長い螺旋階段を昇るのは、やはり骨が折れる。
「はあ、はあ……疲れたけど、前に来たときよりはマシかな」
「筋トレは、裏切らない。体力作りも裏切らない」
ユアンは息を乱していない。彼の筋肉への信頼は絶大だ。
「なんか、緊張するなあ」
「あらかじめ会う約束を取り付けてきたから、問題はない」
「……うん」
入学式の日と同じように、レグルスは大きく深呼吸をしてから、扉をノックした。
「学園長、レグルス・フィーロです」
「どうぞ、入って」
「失礼します……って、ぬわっ!?」
学園長室の中は、荒れ果てていた。執務机にはうずたかく書類が積まれていて、床にも資料やら手紙やらが散乱している。
「すまない、散らかっていて……」
ミアの声にはまるで力がない。桃色の髪もすっかり艶を失っていて、色濃い疲労が見て取れた。
「生徒と会う約束をしていたというのに、片付けすらできていないなんて情けないよ……」
ミアは席を立つと応接用のソファに移動し、レグルスとユアンには向かい側に座るよう促した。ソファに座ると、レグルスはさっそくテーブルの上に缶を置いた。
「おれの父さん、エミリオ・フィーロから賄賂です!」
「ええ、賄賂?」
「あっ、いや、えっと、差し入れ? ……です」
「ふふ。賄賂は受け取れないけど、差し入れなら喜んでいただくよ」
ミアはエミリオ謹製のハーブティーの缶を、恭しく両手で手に取った。
「おれの父さんは、グランマ――えっと、おばあちゃんから受け継いだ庭で薬草を育ててるんですけど、この茶葉は、そこで採れた薬草で作ったハーブティーです。結構おいしいです」
「へえ。エミリオのお手製か」
ミアは缶の意匠を確認すると、
「じゃあ、今から淹れようか」
と、席を立った。
「へっ!? 今からですか?」
「このお茶を早く味わいたくてね」
ミアは「ちょっと待っていてね」と二人に告げ、学園長室を出ていった。
「あの缶を届けに来ただけだったのになあ」
二人は荒れ放題の学園長室で、所在なくミアを待った。
「おまちどおさま」
扉が開きミアが現れた瞬間、ふわりと甘い香りが広がった。
「あれ? おれが淹れたときと匂いが全然違う」
「はちみつ、入れてる?」
ミアはティーポットからお茶を注ぎながら尋ねる。
「入れてないです」
「このお茶は、はちみつを入れた方がおいしくなるよ。はい、どうぞ」
二人の前に、湯気と香りが立つティーカップが差し出された。紅く透明な水面が、カップの中でやさしく揺れる。
「ああ、いい香りだね。安らぐ……」
ミアは自分のぶんをマグカップに注ぐと、カップを手に、学園内を一望できる大窓の前に立って、振り返った。
「レグルス・フィーロ、ユアン・アークトゥルス。ありがとう」
「俺は、レグルスについてきただけです」
「今日のことだけじゃない。今までのこと全部だ」
ミアは困り眉で微笑んだ。
「さんざん大人の事情を押しつけたのに、君たちは仲良くなって、こうして一緒に会いに来てくれた……スカウトも、入学保留も、君たちは望んでいなかったはず。それなのに、腐らずこの学園で学び続けてくれている。こんなにありがたいことはないよ」
今のミアからは、いつもの彼にある威厳も不敵さもまるで感じられない。普段は隠しているのだろう弱さをむき出しにしたまま、レグルスとユアンに向き合っている。
「君たちに、少しくらいは報いなければ……レグルス・フィーロ」
「は、はい」
「君のアステラ・ブレードについて〝アステラ発現〟のテイアー先生に尋ねてごらん。テイアー先生にわかることは包み隠さず話してくれるはずだ」
「は、はあ?」
報いる、とミアは言ったが、アステラ・ブレードについてテイアーに聞くことが、なぜ、レグルスに報いることになるのかわからない。
だが、ユアンは合点がいったらしい。
「……秘密、ですか。レグルスの入学が遅れた理由の、その一部」
「へっ!?」
ミアは頷いた。
「レグルス・フィーロは自分のブレードについて、何か不思議に思うことはない?」
「えっと……こう、鞘から抜くみたいにしないと、発現しにくいのが……母さんから教わったのと、違うなって」
レグルスは、身振り手振りで示す。入学が保留されていた間、レグルスの指導に当たってくれたクラリッサからは「アステラ・ブレードの発現は、一度慣れてしまえば簡単だ」と、聞かされていた。だが蓋を開けてみれば、レグルスはブレード発現にやたらと苦労する。母がレグルスに嘘を教えたとは思えないし、実際、ほかの生徒が苦戦しているところを見たことはない。
「鞘……」
ミアは
「隠していたことを、ひとつ教える。それが今の私にできる限界なんだ。本当に、申し訳ない……」
窓の外を見つめ、二人に背を向けたまま、ミアは話す。
「……私たちは大人だ。君たちを守り、育て、模範となるべき存在だ。だけど……完璧にはなれない。今この瞬間も、君たちのための最善がなんなのか、最善を尽くすにはどうしたらいいのか悩んでいる。悩み続けている」
初めてミアに会ったとき、鈴の鳴るような声だと感じた。だが今のミアの声は、ひどく老いて聞こえる。声音と口調に刻まれた、ミアという人物が生きてきた年月――それが秘されることなく表れてしまっている。
この人はやはり、寿命がないと伝えられる純血の民なのだろう。誰も、あえて口にはしないだけで。
「……学園長」
気がつくと、レグルスは口を開いていた。
「父さんが言ってました。つらい気持ちも、分け合った方がいいって」
「……!」
ミアは勢いよく振り返り、レグルスを見つめた。草原色の瞳が揺れている。
「言えないこともたくさんあると思うんですけど、今の学園長、すっげぇ、つらそうだから……誰かと分け合ったほうが、いいと思います」
「……そうだね。ありがとう、レグルス」
ミアは、手にしていたマグカップをしばらく見つめ、少しぬるくなってしまっただろうハーブティーを口に運んだ。
「ああ……」
ミアは再び窓の外を見た――レグルスとユアンに、背を向けるようにして。
「すごく、懐かしい味だ……」
言葉尻が、震えていた。
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