魔女と月のソムニウム

ハコ

前編・月下界


 ――西暦1580年のある晩の事。


 珍しく一日中機嫌の良かった母が夕食の席で「今夜、お月様が消えるんだよ」とさも可笑しそうに笑いながら言った。

 弟達はまだなんでも信じてしまう年頃でひどくぎょっとしていたが、私はといえば当時九歳。ちょうど反発したい盛りの頃であったので、実際は何の根拠も無いのに「そんな事があるわけないんだ」と言い返した。

 すると母は愉しそうにクフフと笑って「じゃあ今夜確かめてみようじゃないか」と言い、私達に遅くまで起きている事を許してくれた。


 すっかり日が落ちてしまった頃、私達家族はランタンを以て近所の丘へと出かけて行った。

 そうして草の上に座り夜食に出してもらった黒パンを齧りながら、私は何度も「そんなのウソだよ」と自論を展開し続けた。ランタンよりはるかに大きくて明るい月が消えてしまうなんて、実際ありえない事のように思えた。

「嗚呼、始まったようだね」

 母はまた漏れ出すようなあの笑い声を出しながらそう言い、月を指さした。

 私も弟達もあらためて月を見たが最初は全く分からなかった。

 母は嘘をついているのではないか? そう考えてまたへらず口を差し込もうとした瞬間、私は思わず目を見張って口を噤んだ。

 月がみるみるうちに赤色に染まりだし、そうして月の端っこがほんの少しだけ欠けている事に気づいたのだった。

 私は激しい動悸と恐怖に襲われ、気が付けば痛いほどに拳を握りしめながら変貌し始めた月の姿を凝視していた。目を離すなどとても出来ない異常な光景だった。

 ほんの一瞬だけ傍らにいる家族の方に目を向けたが、弟達はもう悲鳴を上げながら鼻先を母の胸に押し付け、何も見ようとはしていなかった。

 母の方はというとニマニマと笑いながら欠けていく月の姿を眺めていた。薄い月明かりの下で、私は母の事がほんの少し恐ろしく感じた。

 どれだけの時間が経ったのか、その時の記憶は判然としない。やがて月は姿を完全に消してしまい、辺りは闇に包まれた。

「お母さん。これから一体どうなってしまうの?」

 不安のあまり私は思わず母にそう尋ねた。すると母は極めて優しい口調でこう答えた。

「大丈夫だよ。心配しなくてもいい。月はすぐに戻って来るんだよ」

 そう。母のいう通りだった。やがて本当に夜空に月が帰ってき始めたのだ。

 少しずつ少しずつ、まるで三日月から徐々に膨らんでいくようにして元の形に戻っていく月の姿を食い入るように見ながら、私は興奮気味に母に尋ねた。

「お母さん! 今のは一体何だったの?」

 私が天の不思議に対して初めて答えを求めた瞬間は、間違いなくこの時だった。

 すると母は、泣き疲れて眠ってしまったクリストフをおんぶしてやりながらこう言ったのだ。

「さぁね、私には分からないんだよ。ただあれはお前が生まれる前からずっと続いている事なんだ。もしかしたら何か決まり事があるのかも知れない。ヨハネス、お前も考えてみるといいのかも知れないよ」


 その時、私は母に答えをはぐらかされたと思った。母は答えを全て知っているのに私には隠しているのだと思った。

 そうして内心、夜道をゆっくりと歩き始めた母の後姿が、かつて魔法で月を消したというテッサリアの魔女のように思えてきたのだった……。



               ◆



〝私がまだずっと幼かった時分に、母は、私の手を引いたり肩にのせたりして、よくヘクラ山のふもとまでつれて行ったものだ。遠足に出かけるのはだいたい聖ヨハネの日の前後であった。……多くの儀式をしながら薬草を集め、家に帰ってから母がそれを煮るのだった。母は山羊の皮で小さな袋を造り、それをいっぱいにすると、近くの港まで出かけていって船長たちに売ってはその金で生計を立てていった。〟

   ――『夢、もしくは月の天文学』



               ◆



 ――西暦1610年9月。プラハ。


 時の神聖ローマ帝国皇帝ルドルフ二世は激化する一方のカトリックとルター派の対立を収める政治能力を持たず、ボヘミア(現在のチェコ西部)のプラハに建てた宮殿に閉じこもる日々を過ごしていた。

 ルドルフ二世は統治面では暗君であったが一方で芸術や学問への関心は非常に深く、彼の多大な庇護下でプラハには多くの詩人、画家、彫刻家、医師、錬金術師、占星術師など多岐にわたる文化人達が集まり、日々研鑽に明け暮れていた。

 宗教改革に端を発するヨーロッパ全土を巻き込む紛争の兆しは日々強まる一方であったが、皇帝が現実逃避のために建設した夢の中で「ボヘミアン」達は我関せずとばかりに研究に没頭し、宮廷サロンには多くの学者や貴族達が出入りして親交を深めていた。


 サロンの陽当たりの良い席に一人の男が座り、安ワインを木のカップで楽しんでいた。簡素なダブレットを着た痩せぎす壮年の男で、その青白い顔色や暗色の髭も相俟ってどことなく陰気な雰囲気があった。

「あのう――もしかして宮廷付のケプラー先生でいらっしゃいますか。あの話題になった『新たな天文学Astronomia Nova』をお書きになられた……」

 陰気な男に話しかけたのは身なりの美しい金髪の美青年であった。片手に包みと革袋を持っている。陰気な男はカップを静かに置いて答える。

「ええ。私がのヨハネス・ケプラーですが……貴殿は一体どちらさまで?」

 身なりや言葉遣いからして貴族階級の子弟であろう。貧民出身の彼は立身を果たした今でも、貴族に対してある種の劣等感をおぼえる事があった。

 思わず訝しむようにしてそう聞き返したケプラーに対し、青年は手を胸に当ててお辞儀してからこう答えた。

「申し遅れました。私は宮廷音楽家ボッケリーニ先生の弟子カールと申します。少しお話を伺いたくて失礼を承知でこうして声をかけたのです。よろしかったでしょうか」

「ああ、ボッケリーニ氏の……構いませんよ、まずはそこにおかけなさい」

 示した向かいの席にカールが座ると、ケプラーはワインをもう一つのカップに注いでカールの前に置いてやり、そしてブラウンの瞳で相手をじっと見つけながらこう尋ねた。

「てっきり私のを遣いで返しに来ただけと思ったのだがね。他に用件があるのですかね」

 カールはワインを一口だけ飲むと如何にも口に合わなさそうに眉をひそめたが、気を取り直すようにうっすらと微笑みを浮かべ、こう答える。

「ええ。まさにその事で参ったのですよ。実は私も『月の天文学』を読ませていただきました。〝月旅行〟という過去に類を見ない斬新なアイデアも素晴らしいと思いますし、天上の月に暮らす者がこの地球を〝一つの惑星〟として観測するという発想はまさに前代未聞でございました。まさに占星術師ケプラーならではの面白い小説でした」

 本当に面白そうに頬をやや上気させながらそう述べるカールに対し、ケプラーはやや含むところのある微笑みを浮かべながら答える。

「お褒めの言葉は嬉しいがそれは幾らなんでも過大評価というものです。月が我々の住む地球に似ていて谷や山や海も在る可能性は古くはピュタゴラスやプルタルコスも指摘しておりました。

 またごく最近、フィレンツェの友人であるガリレオ・ガリレイという数学者が『星界の報告』なる書物の中で月に〝影〟があるのを観測した事を発表しています。影が出来るという事は月の表面には起伏がある可能性を示唆していますし、そうだとすれば月にも山や海がある事はもう確実。

 ――だから、そう、直接的には私はガリレオ氏の報告に勇気づけられたのです。私が十年以上前に考えだした『月の天文学』はやはり間違っていなかったのだ、と」

「へぇ! この小説はそんなに昔にお書きになられた物なのですか?」

「ええ。元はある種の思考実験的論文だったのですよ。それを元にして、研究の合間の息抜きで物語にしてみたものなのです。

 当時神学を学んでいた私は、約半世紀前にコペルニクスが提出した地動説をその時初めて知ったのです。それを知った時の衝撃ときたら――私はすぐにこの〝大地が動く宇宙〟に夢中になったのです。

 だって、この体系に基づけば宇宙の摂理が観測とも違わず実にシンプルに説明できる! そこで私は初めて、ではこの地球は他の星から見たらどのように見えるのだろうかという謎について取り組んだのですよ。

 私が考え付いたのが、もしも月から地球や星の動きを見たら……という空想話でした。なにせ月の住民もと信じているわけですから、バカに複雑で分かり難くなる天文論を展開させる事になる。しかし月が動いている事を知る我々ならばその複雑に見える動きの理由が容易に分かるわけです。

 そしてそこに着眼さえすれば、地球で現実に観測されている複雑な星々の動きもと考えればとてもシンプルになる筈だと理解できるのです。まあ、当時の教授はカチコチの天動説支持者だったのでまともに取り合ってはもらえませんでしたがね」

 ケプラーはまるでいま目の前にその教授が居でもするかのように顔をしかめ、肩をすくめてみせた。

 突然の饒舌ぶりや憤慨の様子を見ていたカールは困ったような笑みを浮かべていたが、一呼吸ついてからこう話を切り出した。

「なるほど、ケプラー先生がこの作品に込めた情熱はよく解りました。だからこそご提案いたしたいのですが、――先生の『月の天文学』を出版して本にするお気持ちはありませんか?」

 その提案を聞いたケプラーは目を丸くして首を横に振る。

「出版? とんでもない! 私はボッケリーニ先生がどうしても読んでみたいと仰るから原稿を貸したまでですよ。第一その小説はまだ未完成なんだ」

「未完成のままでも構いませんよ。出版までは行かせられないというならば書写をして写本という形でならよろしいでしょうか?

 実をいえばフィレンツェ発の『星界の報告』が話題になって以来、貴族がたは宇宙に対して興味津々になっているのです。ケプラー先生の『宇宙の神秘Mysterium cosmographicum』も『新たな天文学』もサロンでご婦人方が争って読み聞かせを待っている状態だそうで。そこに先生の『月の天文学』の写本を持っていく事ができればボッケリーニ先生もモテモテ――もとい貴族がたの教養を深める役に立つのではないかと思います」

「いや、しかしねえ。私にも都合というものが……」

 芸術好きの皇帝に好まれて羽振りも良い、個人的には気持ちの良い友人であるボッケリーニに頼まれて書きかけの原稿を貸してやったのは確かだが、写本まで作って回し読みされるというのは幾らなんでもご免蒙りたかった。

 その不機嫌さを感じ取ったのか、カールは優雅に微笑みながら革袋をケプラーに手渡してきた。

「ええと、こちらはボッケリーニ先生からお預かりした、いわば原稿料です。それに、貴族がたに先生のお考えが広まるのは悪い話ではないと思いますよ。関心を持ったお方が研究への援助を申し出ていただけるかも知れませんし」

 渡されたのは貨幣がごっそりと入った革袋で、ケプラーは思わず生唾を呑んだ。宮廷付占星術師という身分で雇われてはいたが財政難を理由に給料の支払いは常に滞り、おまけに占い以外の事にも幅広く手を出して本や研究器具を買い込む性分が災いしてケプラー家の家計はいつも火の車。纏まった金銭は実際喉から手が出るほど欲しいものだった。

 そういう彼の懐事情も計算に入れての依頼だったのだろう。結局のところケプラーは写本の制作を承諾してしまったのである。いざ承諾してしまえば、小説としては未完成だったが月の天文学という思考実験の大要自体はすでに纏まって文章化されていたし、自分の本が貴族衆に先を争って読まれるというのはカールの言う通り、そうまんざらでもない話のような気がケプラーにもし始めていた。

 一通りの約束ごとを契約し終え、カールは握手をして恭しく一礼をしてから席を立った。そうして去り際にふと思い出したように、カールは尋ねた。

「嗚呼! そういえば、これを聞きたいと思っていたのに忘れておりました」

「む? なんですかね」

「小説に登場する主人公の彼――ドゥラコトゥスの事ですよ! 彼のティコ・ブラーエに弟子入りするなどの経歴がケプラー先生に似ているなと思ったのですよ。

 そこでふと思ったのですが、ドゥラコトゥスとその母親フィオルクヒルデは、もしかして先生とお母さまがモデルなのですか?」

 読者として純粋に興味津々といった様子で尋ねるカールに対し、ケプラーは何かを思い出しているような苦笑いを浮かべながらこう答えた。

「私の母はフィオルクヒルデより小さくて痩せて色黒で、喧嘩好きでひねくれた心を持った、無教養なつまらない老婆ですよ」

 その言い草を聞いたカールは「お母さまがお嫌いなので?」と思わず尋ねたが、ケプラーは軽く頷いたっきりもう口に出そうとはしなかった。

 カールは気掛かりそうに立ち去って行ったが、ケプラーの方は残ったワインに手も付けず、何かを思い出しているように座り続けていた。




                ◆



〝私が天文学を勉強してきた事は母をこのうえなく喜ばせた。そして、私の言うことと母の知っていることを比べては、もうたった今死んでもいいと叫ぶのだった。あとには彼女の知識を受け継ぐ息子がいるからというのであった。実際、知識こそは、彼女の持っていた唯一の財産だった。〟

   ――『夢、もしくは月の天文学』



                ◆




 私の家は先祖代々暮らしていたワイル町から逃げ出すように出て行って、物心がついた頃から転々と引っ越しを繰り返していた。

 ケプラー家は祖父の代までは町長を歴任する当地の名家として栄えていたというが、父のハインリヒ・ケプラーの代になると急速に没落していた。

 ルター派の信仰を持っていた事もカトリックが多数派の近所から憎まれたし、なにより人の好過ぎる父は商売下手で失敗ばかりしていたのだ。

 一方で母のカタリーナは非常に気分のむらが激しく、いつも腹立って怒るか口喧嘩をしている姿かしか見ないような人だった。

 家は非常に居心地が悪く、体が弱いものの勉強が得意だった私は逃げるようにして学費無料の全寮制修道学校に入った。そしてそこから特待生としてチュービンゲン大学に進学する事までができたのである。

 私は牧師になって身を立てるつもりでいたが、そこで学んだ天文学――殊にコペルニクスが提唱した地動説に強く惹かれて行った。そうして私は、聖職者として神に仕える道ではなく、天文学者として神の示した道を解き明かす道を選んだのだ。

 神の栄光は、自然の中でその存在を認められる事を望んでおられる。そう確信していたがゆえだった。


 ――そう。西暦1599年の事だった。

 ヴェルテンベルク公国(現ドイツ南西部)レオンベルク町。

 私の家族達は今はこの町に腰を落ち着けていた。弟のクリストフは職人に弟子入りし、今では金物屋をやって順調に生計を立てている。年の離れた妹のマルガリータはレオンベルクから少し離れた町で働く牧師の妻になって暮らしていた。

 そうして母は――大抵の田舎の老婆が積み重ねた経験を生かしてやりだす事。即ち――薬草を作って売ったり、お産の手伝いをしたりして生計を立てていた。

 若い頃から薬草作りをやっていたおかげでそれなりに順調なようで、今のケプラー家には「ケプラー金物店」の看板と共に「カタリーナの薬屋と産婦人科」と書いた看板までが掲げられていた。

 久しぶりの里帰りになるわけだが私は憂鬱な気分だった。何故ならば修道院に入って以来初めて家族の下を訪ねたのは、借金を頼むためだったからだ。


「ええ、じゃあ兄さんは牧師さまになるのを辞めちゃっただけじゃなくて、今度は教師も辞めちゃったのかい?」

 母が出してくれた豆スープは貧しいながらも懐かしい味がしたが、クリストフの言葉は辛辣だった。

「いや……違うんだよ。私は大学を出た後はグラーツ地方の八年制学校ギムナジウムで数学教師をやっていたんだ。

 だけど新しい大公はルター派をひどく嫌っていて、これは風向きが怪しくなってきたなと思っていたら、ルター派の教師と聖職者全員が名指しで領外退去を命じられて、やむなく失職してしまったというわけだ」

「へぇ、そりゃあ気の毒に。先年結婚もしたばかりなのに……しかしなんで急に

金が要るんだい? 手紙には旅費が要るって書いていたけれども」

「実はね。失職とほぼ同じ頃にプラハにおられるティコ・ブラーエ先生から助手として働かないかというお手紙をいただいたんだよ。畏れ多くも私の著作『宇宙の神秘』を拝見していただき興味を持っていただけたんだ!」

「兄さん、すまないけど名前を言われても俺には誰の事だか」

「ブラーエ先生は皇帝陛下にお仕えする、この国で一番権威ある天文学者だよ。私はその方の助手になれるんだ」

「そいつはすごいじゃないか」

 クラストフが驚いていると、パイを焼いて台所から戻ってきたカタリーナが大声で口を挟みだした。

「なんだい、ヨハネス。お前今度は星占いをやるのかい!」

 その言葉に、ケプラーは少しばかり眉をしかめながらこう訂正した。

「母さん。それは少し違いますよ。私は天文学者なんです」

 するとカタリーナは不機嫌そうに口を尖らせ「星を見て占いをするんだろ?」と言い返した。

 ケプラーは苦虫をかみつぶしたような顔で説明をし始める。

「いいですか? 天文学者はそんな、占いなんてやらないんですよ。そもそも星の運動やきらめきが人間の運勢を支配しているなんてのは愚かな迷信に過ぎませんよ。こんなのはプラトンの時代からもう既に言われていた事です」

「じゃァ、あんた達は何のために星空なんかを毎晩見上げているんだい。まるっきり役に立たない事じゃあないか」

「……――もちろん、遠い天の向こうで起きている現象がこの地上に一切関わりをもたないと考える事は難しいのですよ。いやむしろ大きな関わりがある。

 占星術が馬鹿げていて当たらないのは、この地上は宇宙と違って雑音だらけで不完全だという点を悉く無視しているからなのですよ。ええと、たとえば母さんは博打が好きだからサイコロを投げるでしょう? サイコロの形は分かりますよね?」

「わかるさ」

「そう。サイコロは完全に調和した形だから公平な博打を約束してくれるんですよ。それはサイコロが六面の正多面体だからで、正多面体というのは実は四面体、六面体、八面体、十二面体、二十面体の五個しか存在しないんだ。

 一方で宇宙で太陽の周りを廻る惑星も、地球を除けば水星、金星、火星、木星、土星の五個。宇宙も正多面体も完全なる公平と調和を体現しているわけだから、この両者の数に関連がないわけが無い。

 だからおそらく五つの惑星の軌道は正多面体の中に全て収まっている筈で、だとしたら宇宙にも我々の手元のサイコロにも同じ数学上の法則が働いている事になるわけです。この事は『宇宙の神秘』でも詳しく論じてみたところで、たったこれだけの事でも宇宙が完璧な美と調和に充たされている事が分かるだろう?」

「……?」

 ケプラーの熱弁に対しクリストフはひどく懐疑的な目を向けていた。眉をひそめている母も意味は分かっていないだろう。

「ううん。じゃあ、これはどうです?」

 ケプラーは食卓の水差しを手に取り、空いている三つのカップに順に水を入れていき、スプーンで叩いて見せた。いずれもチンと音が鳴ったが音の高さが違う。

「聞いての通り、どれも水が入った同じカップなのに奏でる音が違うでしょう? これには数学的な理由があって、要は重さが違うから響く音も変わってくるのです。

 この事は古代にはピュタゴラスが既に気づいていて、彼は鍛冶屋達の叩くハンマーの重さが均等に違う時だけ、叩く音が美しい調和を見せる事に気づいたと言います。重さだけじゃあない。長さや距離が調和を取れている時には全てが美しい調和を見せるもの――ピュタゴラスはこれは手元のハンマーから天球に充ちた星々全てにまで共通する法則だと述べています。

 だからそれよりもはるかに完璧な調和で構成されている宇宙には、水の入ったカップが奏でる音やハンマーが奏でる音色にも似た完全な調和の音色が常に響いているのだそうです。手元の粗末なカップから天の星々まで、実は真理は一つなんですよ。

 天文学者はね、それを知りたいから調べているんです」

 有名なピュタゴラスの悟りの喩えだったが、家族達に聞かせるには充分だと思った。一方ケプラーの説明をずっと聞いていたカタリーナはそこで漸く素っ頓狂な声をあげた。

「へえ! じゃあ、ヨハネスは音楽家になりたいってわけなのかい!」

「天球の音楽を聴いてみたい――という意味では、そうかもね」

 落胆したケプラーはもう説明を諦めたといわんばかりに肩を竦め、微笑んだ。

 しかしカタリーナはそこで酷く機嫌を損ねたように怒り出したのである。

「嗚呼なんて息子なんだ! 牧師さまになってりゃ良かったのに、そんな道楽みたいな事にばかり興味を持って! 少しは真っ当に働いて親孝行しようって気にはならないもんか!」

 ケプラーはその剣幕に一瞬たじろいだが、すぐにカッとなって言い返した。

「そういう言い方は心外ですよ。私は宇宙の仕組みを通じて神様の御業を証明したいと考えているんだ。聖書にだって〝もろもろの天は神の栄光をあらわし、大空はみ手のわざをしめす〟とあるでしょう? それに〝はじめにロゴスありき〟とも! それに――」

 一瞬考えたが、ケプラーはさらに続けた。

「いいかい? 神様がお書きになった自然という書物は、数学という言語によって記されているんだよ! それが分からないようじゃあ、どうしようもないね!」

 それはフィレンツェの友人であるガリレオ・ガリレイが手紙に記していた座右の銘であった。ケプラーもまたその考えに深く共感を覚えていたのである。

 しかし無学で粗野な老婆であるカタリーナは、その言葉を嘲った。

「けっ! ばかばかしいったらありゃしないよ! 呪われちまうがいいね!」

 母の取る捻くれた態度に自分の大事な信条までが侮辱されたような気がして、ケプラーはもう顔を真っ赤にして肩を怒りに震わせた。もう憤怒に任せて罵倒が口から飛び出ていく。

「母さんはどうしようもない無学者だ! いや、もう気狂いルナティックだと言っていい!」

「おぉ! おぉ! 言ってくれるね! 気狂い沙汰をいつまでも続けてる愚かな息子め!」

 怒気を含んで罵り合いを始めてしまった母子の間に、弱り果てたクリストフが見かねて仲裁に入る。

「まあまあ二人とも――殊に兄さんも兄さんだよ、金を借りに来てるのにそんな喧嘩腰じゃあまったく世話が無いじゃないか」

 その言葉は、未だ憤慨が冷めやらぬケプラーのむしゃくしゃした気持ちを酷く逆撫でしてしまった。

「ああ! 全くその通りだよ。家族をアテにしたのが間違いの始まりだった。他を当たらせてもらうとしよう」

 言い捨てるようにそれだけ言うとケプラーはくすんだ色の帽子をかぶり、鼻息も荒いままドアを乱暴に開けて実家を出て行った。カタリーナの方も鼻をフンと鳴らして嘲るようにして息子を見送ったのだった。



 方々の級友や恩師の元まで尋ねてまわりなんとか旅費を貸してもらう目途がついたのは、陽もすっかり暮れて月が昇り始めた宵の口であった。

 ケプラーの気分は重かった。不快感は晴れなかったし無学な母一人すら説き伏せる事ができなかったのがひどく惨めな気持ちだった。

 そもそも彼は人にものを教える事がひどく不得手だった。教職についている時も視学官に何度も注意された。

「生徒は君ほど頭の回転が良くないのだから順序立てて教本通りに教えてやりなさい。話しているうちに思いついた数式を一人で次々と解いて納得しだすなんて以ての外だ。あと思いつくまま早口でしゃべる癖も……」

 それはケプラー自身も重々承知している事ではあるのだが、なにせ一度火が付くと頭の中から幾何学模様と数式が無数に表れては消えていくのだ。

 放っておいたらするりと抜け落ちて行ってしまいそうなその数式がもしも宇宙の謎を解き明かしうるものだったら? そう考えると板書の途中だろうと食事中だろうともう検証をせずにはいられない気持ちになってしまうのだった。

 そして何より、数学と宇宙に対して向き合っている時が、ケプラーにとっては一番幸福な時間であった。

 数学と星々の世界はよく似ていた。一見底が見えず謎だらけだが実際のロジックは至ってシンプルで、秩序があり、合理があり、解き明かす事に成功すれば美しい無上の調和が垣間見えた。計算さえ続ければ答えがいつか必ず見つかるのだ。

 ケプラーにしてみれば世俗のさまざまな出来事の方がはるかに複雑で、滅茶苦茶で、理解しづらい事が多かった。そういう予測もつかないような様々な出来事がいつも彼の心を掻き乱し、聞こえた美しい音色をぶち破り、波紋のように様々な事を引き起こしてはそれが調和と安寧を妨げるのであった。


 ――予測もつかない波紋。良い波紋。悪い波紋。

 ようやく捻出した旅費で自分と妻子は野垂れ死に寸前の危機にまで遭いながらなんとかプラハまでたどり着いた事。

 ティコ・ブラーエは尊敬すべき研究成果を抱えた天文学者であったが、その貴族然とした気高い性格は自分と破滅的に相性が悪かった事。

 にも関わらずブラーエは何故か死の直前に自分を後継者として指名し、数十年分の膨大な観測記録を全て譲ってくれた事。

 その膨大な観測記録を元に数年がかりで計算を繰り返してみた結果、宇宙を支配している法則のうち二つまでは――おそらくまだ在るが――朧気ながら形を見せるようになった事――様々な事が頭の中をよぎった。そして、


                ◆


「ああ、占星術師殿はこちらにおられましたか! 陛下が見てもらいたいそうで御座います。ご同行くだされ」

 皇帝付きの従者が相変わらず窓辺に座っていたケプラーを見つけ、声をかける。

 またも気に入らない波紋に思いを掻き乱されたケプラーは、ささやかな皮肉を込めて「またですか? 今日は不仲の弟君おとうとぎみの事か、長患いの痔の事あたりでしょうな」とだけ答え、薄っぺらく微笑んでみせながらゆっくりと立ち上がった。

 諸国の王や貴族達は競って天文学者を囲いたがるが彼らは天文学者と占星術師の違いなどロクに分かっていないし、彼らは星を見ても月を見ても、そこから戦争の結果だとか健康状態だとか恋の行方だとか――ケプラーから見れば酷くくだらない――を読み解く事にしか関心を持たなかった。

 余暇を見つけて宇宙の仕組みを知ろうとする分には自由だったが、今のケプラーの身の上を支えているのはあれだけ軽蔑していた占星術に対する報酬だった。それがまた彼をひどく屈折した惨めな気持ちにさせるのであった。


 従者に続いて皇帝の私室に続く庭を歩いていると、月が見えた。半月だった。

 月の姿を見ながらケプラーはふと思った。

 アリストテレスの宇宙論など十七世紀の今日ではもう誰も顧みないだろうが、完璧で美しく秩序立てられたと無秩序に侵されたという認識はたぶん本当なのだろう。

 ケプラーは誰にも聞こえないように小さく呻き、静かにまた歩き始めた。


「私は天球の音楽が聞きたいのに、どうして地上ではこうも雑音ばかりが聞こえてしまうんだ?」




【続く】

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