リコとの晩餐

「『フィレ肉とフォアグラのポアレ・トリュフソース』にございます」

 料理を運んできた給仕ギャルソンが、いかにも仏蘭西フランス料理といった名前を告げた。

 それを聞いてリコは固唾を飲み、置かれた皿に目を見開いた。

 世界三大珍味と言われる食材の内、二つまでもがこの一つの料理に投入されているのだ。

 そんなものはテレビの中だけのもの、自分には一生無縁だ――などと考えていたリコにしてみれば大事件だ。

 ただでさえ入ったこともない高級ホテルの、しかも最上階のスカイラウンジにあるレストランの予約席――そんな場所に連れられて、これから仏蘭西料理を戴こう、と言うのだから、年齢としの割に落ち着いている、と言われるリコでも心中のドキドキが止まらない。

 何とも落ち着きのないリコを見てグラフラッテは笑うと、両肩を一旦持ち上げ、落とすような深呼吸の仕草をして見せる。

「リコさん、食事は楽しむ為のものですよ? そんなに緊張していたら、食べるものの味も分からなくなってしまいます。……リラックス、リラックス」

 リコも胸に手を当てると、それに倣って一遍大きく深呼吸をして苦笑した。

 ――おじさまのペースに巻き込まれっ放しだなぁ。

 今度は深呼吸じゃなしにリコは肩を竦めた。

 そして、小さく一つ息を吐いて、改めて目の前を見ると、美味しそうな料理が蝋燭の炎に浮かび上がっていた。

 ほんのりと暖かい蝋燭の光。それ以上に暖かな視線がリコに向けられている。

 その視線に気づいたとき、リコも満面の笑みを返していた。揺らめく炎の向こう――何処となく幸福そうに口角を上げているグラフラッテに。

 何だか背中がくすぐったくなるような感覚に、リコは納得したように目を伏せた。

 ――そっか。おじさまがわたしを見る視線は、かーちゃんと同じなんだ。小さい頃のわたしを見てるのと同じ感じなんだろうな。……あ、てことは――

 ちょっとだけ首を傾げたリコの瞳にはおじさまが映っていた。

「お、おじさま? いきなりこんな話で申し訳ないんですけど――」

 そう前置きをすると、一つ咳払いをして本題に入る。

「――えっと……実はわたしの父は、わたしが小さな頃に亡くなったと母から聞いてます。……おじさまも知っているんですよね? わたしの父のことを……」

 グラフラッテは口に含んでいたワインを呑み損ねたのか、ちょっと咳込んだ。

「これは失礼。……勿論、知っていますよ――」

 そう言って、彼は一呼吸置いてから続け出す。

「――彼は非常に誇り高い男でしてね。『どの辺りが?』と訊かれると、何とも答えに詰まってしまいますし、ジャクリーンさんに同意を求めても、絶対に認めないでしょうけどね。……ささ、その話は食べながらゆっくりと致しましょう。折角の料理が冷めてしまわない内に」

「はい!」

 笑顔を崩さずにリコに料理を勧め、自らも慣れた手つきでナイフとフォークを操るグラフラッテはゆっくりと料理を口に運ぶ。

 リコも素直に返事をして、料理に手を伸ばし始める。

 至福の時間はあっと言う間に過ぎていった。

 美味しい料理と楽しい会話――自分の父親の話にジャッキーや自分の小さい頃の話も交え、二人のテーブルは笑顔と笑い声が溢れていた。

 クリスマス・イヴ当日の店内である。どのテーブルも笑顔が絶えることは無かったが、リコたちのテーブルだけは他のテーブルとは何処か違うほんわかとした雰囲気に包まれていた。

 二人を見る誰もが、仲のいい父娘おやこのクリスマス・ディナー、と思ったに違いない。

 実際、リコも父親が生きていれば、こんな感じだったんだろうな、と考えていた。そして、無意識の内に自らの記憶にすら残っていない『父親』をグラフラッテに求めていたのかもしれない。その表情も言葉遣いもジャッキーと接するときのように、子供らしく素直になっていた。

「とーちゃんが生きていれば、こんな風に楽しいお喋りがいつでもできたのに……」

 リコがそんな溜息交じりの独り言ともつかない小声が洩れたとき、テーブルの上に置かれた携帯電話がやかましく震える。

 携帯電話のバイブレータはすぐに途切れた。リコは慌てて確認すると、苦虫を噛み潰したような顔になった。

 それを見て、グラフラッテがワイングラスを手にしたまま呟く。

「……ふむ、その分だとジャクリーンさんからのメールのようですね。案外と事件も早くに片付いたってことですか。そうすると、メールの内容は……お約束の『早くお帰りなさい!』といったところでしょうかね?」

 自らの言葉にうんうん、と首肯し、何とも納得した表情のグラフラッテが、グラスに残っていたワインをぐいっと一気に呷った。

「そろそろお暇の時間が迫ってきたようですな。とは言え、このままここでお別れするのも口惜しい。……折角です。リコさんのお家の近くまで送らせて頂きましょうか」

 母親からの「帰ってきなさい」のメール。今までそんなメールを受け取ったことなど数えるほどしかない。

 いつでも先に家に帰るのはリコであり、誰も居ない家に戻って黙々と家事をこなして、ジャッキーの帰りを待つのが日常である。その生活に特に不満もなかったが、寂しさに慣れることは何時まで経ってもできなかった。どんなときでも憧れてやまないリコのささやかな幸福しあわせは明るく暖かい家で「おかえり」と迎えてもらうことだった。

 今帰れば、その幸福しあわせを噛み締めることができる。待っていてくれる人がいて、「ただいま!」と笑顔で帰ることができる。

 でも――

 今は素直に喜べなかった。

 ――今日はもっと仕事が長引いてもよかったのに……。

 後ろ髪を引かれる思いが帰り支度を遅くさせた。ゆっくりとコートを羽織り、隙間が無いようにマフラーを念入りに整える。

 グラフラッテが勘定を終えて戻ってきても、リコはまだぐずぐずとしていた。

 俯き加減で苦笑交じりの溜息を洩らしたグラフラッテは、リコの背中を軽く押す。

「さぁ、ジャクリーンさんが待ってます。急ぎましょう」

 それからしばらくの間、二人の間には沈黙が羽を休めた。先ほどまでの途切れぬ会話が嘘のようであった。

 それでも、ホテルのエントランスで空から落ちてくる白いものを目にしたとき、

「あ、雪」

「雪、ですな」

と、ほぼ同時に口にしてお互いに微笑んだ。

「……おじさまがお父さんだったらよかったのにな……」

 その小さな呟きはリコの独り言だったのか、おじさまへの懇願だったのか。

 グラフラッテはそれには答えずに、被っていた帽子をリコの頭へと載せて顔を伏せた。

 二人は未だにロマンチックな光が踊るセントラルを抜ける。さっきは母親と二人で見たその光が、また何処か違うように見えた。「ステキですよね」とか「綺麗だなぁ」とリコの言葉にグラフラッテは笑顔で頷くばかりだった。

 セントラルを抜けると、街の喧騒が次第に小さくなっていく。しかし、環状廃棄地帯ドーナツとその境界まで来ても、雪だけは止む気配を見せなかった。

 リコとジャッキーの住むマンションはこの|辺りにある。

 雪のカーテンの向こう側にその建物が見える。手前の公園を過ぎればマンションのエントランスは目の前だ。

 心なしか、リコの歩調が遅くなったように見えた。並んで歩いていたグラフラッテよりも半歩ほど遅れている。

 振り返ったグラフラッテが優しく声を掛ける。

「どうかしましたか? リコさん」

「……いえ、なんでも……ないです」

 その様子を見たグラフラッテは苦笑を浮かべながら、リコの肩に手を置く。

 何かを一言告げようとしたその矢先、グラフラッテは不意に今まで来た道を振り返った。

 二人の足跡が白い路上に並んで残るその先に、彼の視線は向いていた。

「……やれやれ、いつまでストーキング行為を続けるつもりかね?」

 グラフラッテが闇に向かって問い質していた。

 隣にいたリコも振り返る。

 通り過ぎた水銀灯をスポットライトに三人の人影が現れた。その中の一人が更に一歩前に出た。

「おっさんにゃ用はねぇ。用があるのはそっちの小生意気な娘の方さ。……おっさん、今までいい目を見たんだろ? だったら、今度は俺達がってことよ。さっさとその娘置いて、とっとと行っちまいな」

 男の睨め付ける視線に、リコが目を丸くしたのも束の間、眉間に皺が寄って一気に険しい顔付きになる。

「お前は!」

 その中の一人、リコが指さした若い男は、紛れもなくリコの護身銃ガード・ガンで手首を撃たれた奴だった。

「――けっ! イイ振りこいて、俺の獲物を掻っ攫いやがって! テメーみてーな偽善者が一番ムカつくんだよ!」

 吠える男を睨み返し、リコは答える代わりにコートの袷を勢いよく開いた。その裾が流されて、両腰のホルスターが露わになる。そのまま流れるように腰に伸び掛かった両手がぴたりと止まった。

 まるで、身体が氷点下の気温に耐えかねて凍り付いたかのようであった。同時に、視線もある一点から動かなくなる。

 リコの双眸に映っていたのは男たちが手にしている短機関銃サブ・マシンガンであった。水銀灯の蒼白い光に照らされて、鈍く光る三つの銃口マズルがリコとグラフラッテを捉えている。

 白く覆われ始めた頭から軽く雪を払い、グラフラッテが溜息を吐いた。

「やれやれ……ウージーとは、子供の玩具にしては随分と物騒なものですな」

 彼が口にしたその名は、旧世紀に多用された短機関銃サブ・マシンガン名称ものであった。9ミリパラベラム弾を毎分600発を撃ち出すその威力は、年代物とは言え、半端なものではない。

 ウージーの銃口はどれもブレることなく二人を捉えている。

「蜂の巣にされたくなかったら、とっとと消え失せるんだな、おっさん!」

 ここで一斉射撃を喰らえば、二人揃って天に召されるのは確実だ。

「おじさまは関係ないわ! 用があるのはわたしなんでしょ!」

 そんな状況でも、庇われていた後ろからリコが躍り出た。その両手には護身銃ガード・ガンが握られている。

 ウージーに比べれば、護身銃ガード・ガンなど、おもちゃに等しい。

 それでも、短機関銃サブ・マシンガンと対等に渡り合おうというのか、リコよ。

 自分の大切なものは身を呈してでも護る――それは特対班捜査官であり、母たるジャッキーの教えでもあった。しかし、無謀と勇気は違う。そのことが分かっていても尚、リコはグラフラッテの前に立っていた。

 目の前のウージーの銃口マズルがひときわ大きく見える――実物は何度も見たことがあるし、実際の射撃現場にも居合わせたこともある。環状廃棄地帯ドーナツに隣り合わせの場所に住んでいるリコにとっては珍しくも無い代物だった。

 だが、それが直接自分に向けられたとき、狙われる恐怖に支配された身体は小刻みに震え、照準体制エイミングに入るのも覚束ない。こめかみから冷汗が滲み、ごくん、と飲み込んだ筈の唾がまだ口に残っている気がする――

 緊張のあまり肩で息をし始めた彼女を解き放ったのはグラフラッテだった。

「大丈夫ですよ、そんなに硬くならなくても」

 にっこり笑ってリコの肩を軽く叩くと、黒衣の男が涼しげな顔をしてゆっくりと彼女の前に立った。

「……おじさま?」

「いいですか、リコさん? 私の合図でそちらの公園に全速力。……大丈夫ですね?」

 小声で呟くグラフラッテ――しかし、その口調は静かで優しいながらも、有無を言わせぬ迫力があった。

 リコはごくんと生唾を飲み込むと「はい」と小さく頷く。

「無駄な足掻きは止した方が身の為だぜ。生命まで無くしたかねーだろ?」

 必殺の切り札であるウージーをひけらかし、男たちはリコとグラフラッテを牽制する。その顔は既に勝ち誇っていた。

 それを嘲笑うかのように、グラフラッテの口角が上がる。半身になっていた彼の右手がリコを軽く叩くと、二人揃って公園に向かって走り始める。

「逃げるが勝ち――」

「野郎!」

 一瞬の虚を付かれた男たちの指が動く。

 瞬時に、TATATATATA――ウージーの発射音が小気味良く響く。

 風に舞う雪を無粋に蹴散らした火線が二人に襲い掛かったその瞬間、闇の帳が舞った。

 男たちの目の前には、撃ち抜いたはずの男女が無傷で立っていた。

 何が起こったのかを理解できず、呆気に取られる射撃手たち。

「――!?」

 それはリコも同じだった。

 狐に抓まれた様にぽかん、と口を開けたまま、自分の前に立つグラフラッテの背中を見る。

「お、おじさま、今のは――」

「説明は後ほど。今はあの不届き者たちを何とかしてしまいましょう。……しばらく、ここから動かないでいて下さいな」

 男たちと対峙している所為か、グラフラッテは振り向かずに告げる。

「……どうしてここまでして、わたしを守ろうとするんですか?」

 リコの疑問も尤もだった。

 いくら旧知の娘御とは言え、一歩間違えば死の危険もあるというのに、先刻からのグラフラッテの行動はリコを完璧に庇うような動きをしていたのである。

「リコさん……あなたは私が『父親であればいいのに』と仰った。……だが、娘を護ることもできない父親など必要ない――ですからね」

「えっ……?」

 背中越しに聞こえたグラフラッテの言葉の破片が、リコの心に刺さる。ちょっと放心状態になった彼女は彼に言われるまでも無く、その場から動けなくなった。

「しばしお待ちあれ、お嬢様」

 言うが早いか、グラフラッテの足元に雪煙が舞った。電光石火の動きで一気に男たちに詰め寄らんとする。

「馬鹿が! わざわざ蜂の巣になるのに突っ込んでくるのか?」

「おじさま!」

 リコの悲痛な叫びと男たちのせせら笑いが弾丸のシャワーと共に降り注ぐ!

 刹那、再び闇が舞った。

「――あなた達には学習能力と言うものがないのですかな?」

 闇の正体はグラフラッテの纏う漆黒のインバネスであった。閃く火線はその闇に吸い込まれ、命中したはずの9ミリパラベラム弾は彼の前に散らばり、雪の絨毯に埋もれていた。

 そして、リコの眼に映ったのは——

 弾丸を弾いたインバネスを残し、音もなく飛び上がったグラフラッテと、いつの間にか握られていた拳銃であった。

 中空に浮かぶ僅かな時間に、流麗且つ大胆に動いた銃身バレルが男たちの姿を捉え、一瞬の後にその引鉄トリガーが引かれる。

 ドドドン――

 ウージーのものではない、別の連続した発射音が響いたとき、決着は既に付いていた。

「ひ、ひぃぃっ!」

 男たちは一人残らず逃げ出していた。

「やれやれ、チンピラ共が」

 少し強くなった雪が、男たちの残した逃げ足の痕跡を、ところどころに残されていた深紅の血痕をも消し始め、再びグラフラッテの姿までなぞり始める。

 チンピラ達の逃げ去った方向をじっと見つめていたグラフラッテであったが、降り積もる雪に埋もれ始めたインバネスを拾い上げると、残る雪を払って再び身に纏った。

 駆け寄るリコにグラフラッテが溜息を吐いた。

「やれやれ。年甲斐も無く、無茶はするものではないですな。少々冷えてしまいました」

「大丈夫ですか? おじさま!」

「ええ、このインバネスのお陰で無傷ですよ。……これはカーボンナノチューブ製の繊維を使ったものでしてね。あの程度の銃撃であれば、ああやって弾くこともできる」

 カーボンナノチューブはケブラー繊維を遥かに凌ぐ強度を持ち、アルミニウムの半分程の重さしかない為、新たな防弾・防刃装備の素材としても注目されている。

 グラフラッテはそのカーボンナノチューブ製のインバネスを盾代わりにして、弾丸を弾き飛ばしたのであった。

「そうだったんだぁ。……それにしても、おじさまの銃の腕前……凄いです! 『三点バースト』の全射撃を正確に別々の標的ターゲットに撃ち込める人が居たなんて。母以外にそれができる人が居たことに驚きました。しかもそれ、ワルサーP00ですよね?」

 既にインバネスの下に隠れているグラフラッテの銃は、リコの母親――ジャクリーンの使用するものと同じモデルであった。

「ほう……一度見ただけで、そこまでしっかりと見極めましたか。流石はリコさん。……しかし、あの程度のことであれば、リコさんでもすぐにできるようになりますよ。何と言っても、あなたは……とジャクリーンさんの血を引いているんですから――」

「――そう、の血を引いてるんですからね」

 その声に振り向いたグラフラッテの双眸が見開いたかと思うと、脱兎の如くいきなり後ろに跳退った。

 木立の向こうから、声の主たる女がやってくる。その両手に数多の悪党を撃ち抜いた銃を握り締めて。

 歩みを止め、ゆっくり両手を前に持ち上げた、北海道警察公安部特別犯罪対策班捜査官ジャクリーン・ニルヴァーン――ジャッキーのワルサーP00の銃口は、二挺ともグラフラッテに向けられていた。

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