リコとおじさま

「はあぁ……もう、手遅れかぁ」

 旧テレビ塔広場のベンチに腰掛けて、リコはぼやいた。

 断ったはずのクリスマスパーティに急遽乱入するつもりもあったのだが、どうするか迷っていた矢先にさっきのひったくりに出くわしてしまい、そのタイムリミットは完全に過ぎてしまっている。これから行くのは本当にただの迷惑だ。

 今年のクリスマスは母親と楽しい時間を過ごすはずだったのに、それがいつもと同じように過ぎていく。

「はぁ……」

 何だか散々だ。

 後は帰って残っている家事を片付けて、夕飯を戴くだけだ。さっき買ったオードブルやケーキがあるから、夕飯を用意する手間が掛からないところが多少の救いかもしれない。

 今年のクリスマスの思い出は、午前中にジャッキーと共に和気藹々とクリスマスツリーの飾り付けをしたことだろう。

「サンタさんのくれたプレゼントは『晩ご飯の支度一回免除』と『クリスマスツリーの飾り付け』かぁ……」

 溜息混じりに呟いて、手の中にあったホットの缶コーヒーをこくん、と一口飲んだところで、声を掛けられた。

「失礼。お嬢さん……お隣に掛けてもよろしいですかな?」

「あ! はい!」

 返事の声が思わずひっくり返ってしまうほど、リコは驚いていた。

 今の今まで自分の前には誰も居なかったはずである。しかし、目の前には一人の男が立っていた。どう考えても突然姿を現したようにしか思えない。

 漆黒のインバネスをまとい、これまた真っ黒なホンブルグ帽を被ったその姿は、闇を人型に切り出したかのようであった。

 びっくりした少女を見た男は苦笑していた。

「これは失礼。びっくりさせるつもりも、変な下心がある訳でもありませんよ。ただ、あなたが先に座っていたので、ベンチの方も既に暖まっていると思いましてね」

 ここ、旧テレビ塔広場に設置してあるベンチには感応型温暖装置が組み込まれている。十一月を過ぎるとその装置が働き、人がベンチに腰掛けると自動的に適温まで温めてくれるのである。そうは言っても、寒さが厳しい今時期であれば温まるまでには数十秒を要するので、結局は誰も居ないベンチだと冷たいままだ。その点、先に誰かが腰掛けていたベンチであれば、その心配は少ない。

「あ、そうでしたか。では、わたしはこれで……」

「お嬢さん、お時間はありますか?」

 立ち上がろうとしたリコをその男は呼び止めた。

 リコの顔が一気に怪訝そうなものに変わる。

 男は大仰に滅相もないといった表情になると、帽子のつばを人差し指でなぞる。

「心配は無用ですよ。私はただ、先程の御婦人を助けたときの話を訊きたいだけです。それに、私はあなたのことをよく知っていますしね。……リコ・ニルヴァーン?」

「……ど、どうして、わたしの名前を知ってるんですか?」

「私はね、実はあなたのお母さんとは旧知なのですよ。だから、あなたのこともよく知っている。それこそ、小さいときからね。ただ、しばらく会う機会がなかった……ずっと気にしてはいたんですけどね……。ですが、先ほどあなたが見せた射撃の腕前、あれを見て、ジャッキー……いや、ジャクリーンさんのことを思い出しましてね。流石は親子、銃の構え方、標的ターゲットを見据える視線……瓜二つだ」

 口をあんぐりしたまま驚きを隠せないリコだったが、男が嘘をついていないことは何となく分かった。自分の母親の名前を口にしたときに見せたとても懐かしそうな表情や態度が、そう感じさせたのだ。

 いつの間にかリコの隣に腰を下ろした男が続けて話し出したのは、若い頃の母親の話だった。その中にはリコがジャッキー自身から聞いたことのあるものもあった。それで、この男が母親の古くからの友人であることを確信した。

 とは言え、普段のリコであれば、それでも警戒心を解かなかったであろう。

 今時の誘拐犯は、狙いを付けた相手の油断を誘う為ならどんな手段でも取る。この男のように、知り合いを装う、などというのは使い古された常套手段なのだ。

 母親の仕事の関係もあり、リコはその辺りに関しては人一倍敏感で神経質であった――はずだ。

 そんなリコが今やにこにこ顔で、男と談笑しているとはどういった風の吹き回しか。しかも、すっかり安心しきっているように見える。ジャッキーがこれを見たら目を剥くであろう。

「――そうなんですかぁ。そんなこともあったんですね。……あー、おかしい! うん、かーちゃん……あっ、母らしいです!」

「ええ、彼女は昔からああなんですよ。その割に繊細でセンチメンタルな部分もあったりしましてね。例えば――」

 二人の話題はジャッキーのこと一色であった。当然と言えば当然だろう。共通の話題になることと言えばそれだけなのだから。

 だが、それが思いの外、盛り上がる。

 リコの話す『今』のジャッキー。

 男の話す『昔』のジャッキー。

 それは同一人物のことを話しているには違いないのだが、違う人間のような気がしてならない。少なくともリコはそう感じていた。

 自分の知る母、知らない母――自分の知っているのは、あくまでリコの『母親』としての一面であり、男が語るのは一人の『女性』としての一面なのだろう。

「――あなたのお母さんのことですと話は尽きませんな。……どうでしょう、この続きは食事でもしながらするというのは? 唐突で申し訳ありませんが、この私めとの食事に付き合っては下さいませんか」

 再びその場に立ち上がった男は、被っていた帽子を右手に取り、その手を胸に添え、右足を引き、更に左手を水平に差し出す。

 何ともオーバーアクションにも映るが、この動作は欧州ヨーロッパで『ボウ・アンド・スクレイプ』と呼ばれる貴族の行う挨拶の仕種である。

 しかし、何処となくコミカルさの漂うその仕種に、リコはぷっと吹き出した。

 その笑顔に応えて、更に恭しく礼を重ねる男。まるでサーカスの道化師クラウンだ。

 突如、深々と折り曲げていた男の身体が急にぴん、と伸びたかと思うと、大袈裟に驚いた顔をして何かを思い出したように掌を拳で叩いた。

「これは大変失礼致しました。食事にまで誘っておきながら、自己紹介がまだでしたな。……遅ればせながら、我が名はグラフラッテ。御覧の通りのしがない男鰥夫おとこやもめです」

 今度は片膝を付いて、主君に跪く騎士ナイトの仕草だ。

 どこかの舞台で一人芝居の喜劇を見ているようだ。リコは何とか笑いを噛み殺してはいたものの、おなかを押さえて苦しそうである。

「あー、腹筋がぁ! ……えーと、『おとこやもめ』ってことは……グラフラッテさんは結婚されてないんですか?」

 母親の知り合いと言うのなら、歳も近いだろうし、であれば、結婚して家族がいてもおかしくはない。しかし、家族が居るのなら、こんなクリスマスの夜に一人で居るはずもないだろう。

 そんなリコの素朴な質問は、グラフラッテにがっくりと溜息を吐かせるのには十分なものであった。

 悪気のない質問ほど相手を貶めるとはよく言ったもので、グラフラッテは奈落にまで落ちてしまうほどの長い息を吐いて、天を仰ぐ。

「ああ……また、余計なことを口走ってしまったようですな。ここだけの話……実は、今は独り身でしてね。そんな訳でクリスマスの夜に一人寂しく食事に向かう途中に、あなたの射撃に見惚れてしまって、ここまで来てしまったんですよ。ですから、とてもおなかが空いているのです」

 落ち込むような素振りはポーズだったのか、ウインクをして笑顔を送ってくるグラフラッテに、リコは「はい! では、喜んで!」とこちらも笑顔で応えていた。

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